更科 (蕎麦屋)

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明治10年(1877年)頃、『一億人の昭和史 明治上』、明治10年頃の永坂更科より[1]
文政7年(1824年)、『江戸買物独案内』、名物そば屋(御膳蕎麦所)より[2]
『永坂町更科蕎麦店の図』(山本松谷画)より[3]
「総本家更科堀井」、1789年(寛政元年)創業、初代布屋清右衛門(2016年月2日22撮影)
「神田錦町更科」、1869年(明治2年)創業、初代布屋丈太郎(2016年3月1日撮影)
「さらしなの里」、1899年(明治32年)創業、初代布屋善次郎(2016年3月3日撮影)
「大井 布恒更科」、1963年(昭和38年)創業、初代布屋恒次郎(2016年3月8日撮影)

更科(さらしな)は、江戸の蕎麦屋の老舗で、「更科」といえば、「藪 (蕎麦屋)」、「砂場 (蕎麦屋)」と並び、蕎麦御三家の一つに数えられている。

歴史[編集]

  • 1788年寛政元年) - 信州出身の八代目堀井清右衛門(現・「更科堀井」初代布屋太兵衛)は、「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業した。堀井家は、信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を背負って保科家の江戸屋敷に出入していた。初代は堀井清助(布屋太兵衛)といい、江戸では麻布1番通り竹屋町にあった保科家屋敷内の長屋に滞在を許されていた。堀井清助は、1693年元禄6年)の秋ここで世を去った。八代目堀井清右衛門のとき、領主保科兵部少輔から、そば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げた[4][5]
  • 1824年文政7年) - 『江戸買物独案内 飲食之部』、名物そば屋(御膳蕎麦処)18軒に、「信州 更科蕎麦所 麻布永坂高いなりまえ 布屋太兵衛」が挙げられている。御膳蕎麦とは、将軍家御用を承わり江戸城中の愛顧を受けていたので、「御膳蕎麦」を創製、また、この堀井家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した[2][5]
  • 1848年嘉永元年) - 『江戸名物酒飯手引草』には、120軒のそば屋の中の「更科」の屋号6軒中に「更科生そば麻布永坂町布袋屋太兵衛」と誤って挙げられている。
  • 1858年安政6年) - 麻布永坂更科(現・更科堀井)の四代目布屋太兵衛没。
  • 1869年明治2年) - 麻布永坂更科は、神田錦町に初代布屋丈太郎「神田錦町分店(現・神田錦町更科)」を開店した。創業以来五代目に至るまで、一軒も支店を出していなかった。初代布屋丈太郎は、麻布永坂更科の六代目松之助の妹堀井かねとは従兄妹同士の間柄で、丈太郎が堀井かねの婿養子になる形で結婚、分店として出店、屋号は布屋丈太郎であった。一門の古いしきたりで、暖簾分けには分店と支店のふた通りがあった。分店と名乗れるのは本家の子どもが新たに出した店の場合に限られた[4]
  • 1873年(明治6年) - 麻布永坂更科(現・更科堀井)の五代目布屋松之助没。
  • 1875年(明治8年) - 名字必称の令により、屋号「布屋」から「堀井」と改め、六代目堀井松之助となる。
  • 1899年(明治32年) - 麻布永坂更科で、15年間修行した赤塚善次郎は23歳で独立し、深川佐賀町に、初代布屋善次郎「麻布永坂更科支店 布屋善次郎(現・さらしなの里)」を開店、麻布永坂更科初の支店である。
  • 1902年(明治35年) - 日本橋三代町(現・日本橋兜町)に「有楽町更科」を開店。
「明治31年の麻布永坂町の蕎麦店 更科」[3]
更科といえば、人みな麻布永坂の蕎麦店たるを知る。実に東京に於ける一名物というべし。本店は永坂町13番地に在り、当主を堀井松之助という。

其の製法他店と全く異にして、色白くして細く、一見愛すべし。(中略)、当店は、奥座敷等ありて、通常の店舗と異なり、其の地亦喧雑ならさるを以って、紳士の来たりて賞玩する者多く、帰途は更にミヤゲとして持帰る者少なからず。近来は汽車に搭し、大阪、神戸、須磨、明石等に赴く遊客も亦之を携ふるに至れり。

支店は、神田区錦町5番地と日本橋区三代町4番地とにあり。製法等総て本店に同じ。現店主は、第五代目なるよしなれば、ふるくより在りしとは明らかなり。むかしそば切りを以って名高かりしは、麹町のひょうたん屋、洲崎の伊勢屋、浅草の道光庵等なりし。更科の名の聞こえしは、文化文政頃よりならむ。文政の江戸買物帳に、其の名見えたり。

— 新撰東京名所図会、『風俗画報』、麻布区の巻之一、「更科」、明治35年3月31日より抜粋

  • 1912年(明治45年) - 牛込神楽坂に「麻布永坂 牛込通寺町支店」を開店。
  • 年代不詳 - 明治後期、芝二本榎西町に「芝二本榎西町支店」を開店。
  • 年代不詳 - 大正初期、下谷池の端に「下谷池の端仲町分店」を開店。
  • 1922年大正11年) - 日本橋三代町の店を麹町区有楽町に、「有楽町更科」として移転。
『食行脚 東京の巻』「更科」奥田優雲華著[6]
麻布永坂の、寂しい大通り、振客の利かぬ、辺僻な場所の、更科本店は、三棟七室の客座敷に、何時も、遠来の客で賑って居る。

表看板の布屋太兵衛は、先祖が履いた、呉服屋の草鞋を、子孫に伝えて忘れぬための、美しい主人の心掛けが窺はれる。蕎麦屋に転業してから、三代八十年、更科蕎麦の盛名は、場末の果まで伝へられ、遍く人口に感謝されている。

宮城を初め各宮家の御用を承り、家門の光り、名聞の誉れに、愈々益々、栄え行く計りだが、営業の方針は、飽くまでも堅実を旨とし、分店を神田に支店を神楽坂、二本榎、品川の三ヶ所に設けて、本店同様、蕎麦当の歓迎を受けて居る。

名物更科蕎麦は、蕎麦粉そのものが、特に限られた産地を、持って居る訳ではなく、亦其の汁に、秘密の製法があるのでもない、要は原料の吟味と、晒粉の精選である、注意深い用意によって、特選せられて居る晒粉は、普通の夫れの様に、製粉所の製品ではなくて、昔の儘の、自家工場特製品である、名物蕎麦の秘訣が、此処に包まれてはいまいか。(店、麻布区永坂町13。電車、飯倉片町下車。電話、青山5692番)

— 『食行脚 東京の巻』、「更科」、大正14年、国立国会図書館蔵書より抜粋
  • 1930年昭和5年) - 不景気のどん底の年で、更科一門はそばの値段を下げた。この時の麻布永坂更科一門は、麻布永坂本店、下谷池之端仲町分店、神田錦町分店、牛込通寺町支店、芝二本榎西町支店、府下品川町歩行新宿支店、京橋区尾張町支店、麹町区有楽町支店の8店だが、尾張町と有楽町は同経営者なので全部で7店で、巷間「更科お七軒様」と呼ばれていた[4]
「そば・江戸から東京へ」[5]
江戸から東京への時代を物語るそば屋としては、上野無極庵、蓮玉庵、団子坂藪、菊そば、押上の蘭麺、麻布更科(現在は戦災のため永坂を引払い坂下に移転、付近に同名異種の店舗あり)、本所の白滝、深川の冬木、浅草公園の万盛庵、群玉庵、万屋など。大正から昭和初期にかけての有名店として、柳橋の吉田、銀座七丁目の長寿庵、日暮里の日月庵(藪忠)なども話題のたねである。 — 植原路朗著、『そば物語』、「そば・江戸から東京へ」、昭和34年12月1日より抜粋
  • 1941年(昭和16年) - 本店七代目堀井保のとき、国内外の金融恐慌、堀井家が出資していた麻布銀行の倒産等の影響で廃業に追い込まれる。
  • 1947年(昭和22年) - 料理屋馬場繁太郎が、そば屋「永坂更科製麺部新開亭」を開業。
  • 1948年(昭和23年) - 戦後の混乱のなか、麻布十番一の橋のたもとに料理屋馬場繁太郎(現・麻布永坂更科本店初代)が「永坂更科本店」を開店。
  • 1949年(昭和24年) - 七代目堀井松之助、妻きん、麻布十番商店街の小林玩具店 小林勇、麻布十番商店街の組合長木村政吉により、合資会社「麻布永坂更科 総本店」を開店。
  • 1950年(昭和25年) - 初代馬場繁太郎、麻布十番に「麻布永坂更科本店」を開店。
「麻布永坂更科本店」、1950年(昭和25年)創業、初代馬場繁太郎(2016年2月4日撮影)
「永坂更科布屋太兵衛」、1959年(昭和34年)創業、初代小林勇(2016年1月15日撮影)
「永坂散歩道 - 昔ながらの味 植原路朗」[7]
「信州更科御蕎麦所」の看板を掲げていた総本家とニセ物とが、目と鼻の先でいがみ合っていたが、遂にニセ物は退散、永坂の更科で名を売った総本家は戦災で焼かれてから永坂をおりて来て、麻布十番通りをちょっと入った所で繁昌、六つの支店(渋谷東急文化会館、新丸ビル、新海上ビル、日本橋、赤坂溜池、東急ビル、横浜)を連ねて、昔ながらの味を伝えている。 — 『蕎麦そのほか』、第1号、「永坂散歩道 - 昔ながらの味」、植原路朗著、昭和46年4月1日より抜粋
  • 1959年(昭和34年) - 初代小林勇、麻布十番に合資会社「現・永坂更科布屋太兵衛」を開店。
  • 1960年(昭和35年) - 堀井良造(後の「更科堀井」八代目)は大学を卒業、合資会社「永坂更科布屋太兵衛」に入社。
  • 1961年(昭和36年) - 二つの合資会社合併により、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」となる、代表権は小林勇のものとなり、「布屋太兵衛」も商標登録された。
  • 1963年(昭和38年) - 伊島恒次郎、品川区南大井に初代布屋恒次郎「布恒更科」を開店。
  • 1984年(昭和59年) - 「永坂更科布屋太兵衛」の専務取締役堀井良造は、24年間勤めた会社から離れ、麻布十番商店街に「信州更科 布屋総本店」を開店。後に、店名の「布屋」の使用権を巡って裁判となり、「更科堀井」と改称した。これで、戦後の「更科堀井」、「麻布永坂更科本店」、「永坂更科布屋太兵衛」、3店の屋号の問題に終止符がうたれた。
  • 2004年(平成16年) - 伊島始、築地に四代目布屋恒次郎「布恒更科」を開店。
  • 2013年(平成25年) - 伊島巧、大井に五代目布屋恒次郎「布恒更科」を継承。
  • 2016年(平成28年) - 現在、「神田錦町更科」は四代目布屋丈太郎(堀井市朗)と五代目布屋丈太郎(堀井雄太朗)の二人で、「さらしなの里」は四代目善次郎(赤塚滋行)によって引き継がれている。

麻布十番の更科3店の屋号騒動[編集]

  • 1941年昭和16年) - 麻布永坂更科(現・更科堀井)の七代目堀井松之助(堀井保)のとき、大正末期から昭和初期にかけての、関東大震災、国内外の金融恐慌、堀井家が出資していた麻布銀行の倒産、七代目の放蕩等の影響により廃業に追い込まれる[4]
  • 1942年(昭和17年) - 大東亜戦争で永坂の店が焼失、永坂を引き払い坂下に移転。
  • 1948年(昭和23年) - 戦後の混乱のなか、麻布十番の一の橋に料理屋を開いていた馬場繁太郎は、麻布十番界隅に「永坂更科本店」の看板のそば屋を開店した。麻布永坂更科の七代目松之助(堀井保)と馬場繁太郎(現・麻布永坂更科本店の初代)との間で、「永坂更科」の店名使用に関して公正証書による契約を締結したことによる新規開店である。後に、店名に関し裁判になり、承諾書の存在により、「麻布永坂更科本店」と、「永坂」と「更科」の間を離すことで和解が成立した。突然、一門とは何の関係もない「永坂更科」がでてきた。[8][9]
  • 1949年(昭和24年) - 突然一門と関係ないところから「永坂更科」がでてきたことで、麻布永坂更科本家の店を再開しようとする動きが出てきた。七代目松之助(堀井保)、妻きん、中心になった麻布十番商店街の小林玩具店 小林勇(現・永坂更科布屋太兵衛の初代)、麻布十番商店街の組合長木村政吉により、合資会社「麻布永坂更科 総本店」の伝統の暖簾が再開された。七代目松之助がそばを打ち、きんが帳場に座った。後に、八代目堀井良造は、「永坂更科」の店名商標登録が法人取得だったため、その後に厄介な問題を起こすこととなり、「大失敗でした」といった[4]
  • 年代不詳 - 合資会社「麻布永坂更科 小林勇」設立、七代目松之助、妻きんも出資したが、当初の約束で5年後に退社。
  • 1960年(昭和35年) - 堀井良造(後の「更科堀井」八代目)は大学を卒業、合資会社「永坂更科布屋太兵衛」に入社。
  • 1961年(昭和36年) - 合資会社二つの合併により、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」となる、代表権は小林勇のものとなり、「布屋太兵衛」も商標登録された[4]
  • 1984年(昭和59年)
    • 5月30日 - 朝日新聞、『永坂更科商号争い そば店しにせ敗訴』 - 「永坂更科布屋太兵衛」の小林勇社長は、「麻布永坂更科本店」の馬場進社長を相手取り、類似商号の使用禁止を求めていた民事裁判で、東京地裁は「被告は、原告会社の前身(七代目堀井太兵衛)から商号の使用許可を得ている」として、原告側の請求を棄却した[10][9][11]
    • 12月4日 - 「永坂更科布屋太兵衛」の専務取締役堀井良造は経理・人事等を担当したが、24年間勤めた会社から離れ、麻布十番商店街(現在地)に「信州更科 布屋総本店」を開店。その後、屋号に「布屋」を用いていたため「永坂更科布屋太兵衛」側と裁判となる。商標権をもたない八代目松之助(堀井良造)は布屋を名乗れず、自身の姓である「堀井」をつけ店名を「総本家更科堀井」に改称した[4]
現在、総本家 「更科堀井」、「麻布永坂更科本店」、「永坂更科布屋太兵衛」の3店が存在することとなる。いずれも近隣にあり、3店が並ぶ麻布十番は更科系老舗の密集地帯となっている。

屋号騒動の要約[編集]

  • 1941年(昭和16年) - 金融恐慌等により、七代目堀井松之助「麻布永坂更科布屋太兵衛」廃業。
  • 1942年(昭和17年) - 麻布永坂町13番地「麻布永坂更科布屋太兵衛」、大東亜戦争で店舗焼失。
  • 1947年(昭和22年) - 料理屋・馬場繁太郎、廃業した商号使い、「永坂更科製麺部開亭」開業。
  • 1948年(昭和23年) - そば屋・馬場繁太郎、商号を変え、「永坂更科本店」を開店。
  • 1949年(昭和24年) - 七代目堀井松之助、玩具店・小林勇他、合資会社「麻布永坂更科総本店」開業。
  • 1950年(昭和25年) - そば屋・馬場繁太郎、商号を変え、「麻布永坂更科本店」開店。
  • 1959年(昭和34年) - 玩具店・小林勇、新規に合資会社「永坂更科布屋太兵衛」開業。
  • 1960年(昭和35年) - 八代目堀井良造、大学卒業後、「永坂更科布屋太兵衛」入社。
  • 1961年(昭和36年)
    • 小林勇、合資会社2社を合併、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」代表小林勇に、同時に商号登録。
    • 小林勇、類似商号の使用禁止を求め、馬場繁太郎を訴え、原告小林勇敗訴。
    • 馬場繁太郎、勝訴により、「麻布永坂更科本店」の「永坂」と「更科」の間を離すことで和解。
    • 「永坂更科布屋太兵衛」に24年間勤務した、専務取締役・八代目堀井良造、会社を退職。
    • 八代目堀井良造、商号「信州更科布屋総本店」の店舗を、麻布永坂更科20年ぶりに再開。
    • 小林勇、類似商号「布屋」の使用禁止を求め、八代目堀井良造を訴え、原告小林勇勝訴。
    • 八代目堀井良造、敗訴により「布屋」を使用できず、「更科堀井」に商号変更。
「一子相伝の伝承者への道」堀井一朗[12]
商売を長く続けていればいいというだけではありません。商売が繁盛すれば必ず偽物が出てきます。平気な顔をしてウソをつく、マネをする店が出てきます。それらを一つ一つ乗り越えて本物にならなければなりません。 — KANDAルネッサンス、2015年11月25日より一部抜粋

更科という名称[編集]

蕎麦の産地である信州更級(さらしな。現長野市のさらしなで、千曲川犀川とが合流する三角地帯。信濃国はかっては科(シナの木)野国であったという。シナの皮を剥いで信濃布を織ったが、更科はその皮を水にさらすシナの意であろう。蕎麦粉の挽出し、純白の一番粉をさらしなと名づけたわけであろう。真っ白で舌にもたれないさらしなは、更科そば店の専売特許ではなく、真っ白いそばの名称にすぎない[7]

更科の特徴[編集]

蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)である。これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していた模様。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。

更科の誕生[編集]

『蕎麦全書』、日新社友蕎子著、1751年(寛延4年)、「江戸中蕎麦切屋の名目の事」によれば、名目に「さらしな」と銘打ったそば屋は、布屋太兵衛が最初ではない。
馬喰丁三丁目横町、甲州屋'さらしなそばあり。信濃蕎麦の心ならん。人々是を賞す。(中略)浅草並木町爺屋更科そば、横山丁甲州屋を学びしなり。 — :;『蕎麦全書』、日新社友蕎子著、寛延4年、「江戸中蕎麦切屋の名目の事」より抜粋
と、二軒の「さらしな」を挙げている。同書は二軒の開業時期などには触れていないが、少なくとも寛延期には「さらしな」という名目を掲げたそば屋があったことは確かである。そして、同書で取上げられるほどだから、市中で評判を取っていたそば屋だったのだろう[13]

更科の現在の店舗[編集]

麻布永坂更科一門
  • 更科堀井 - 九代目布屋太兵衛(堀井良教)
  • 神田錦町更科 - 四代目布屋丈太郎(堀井市朗)、五代目布屋丈太郎(堀井雄太朗)「神田錦町更科」
  • さらしなの里 - 四代目布屋善次郎(赤塚滋行)「さらしなの里」
  • 布恒更科 - 四代目布屋恒次郎(伊島始)「築地 布恒更科」、五代目布屋恒次郎(伊島巧)「大井 布恒更科」
麻布永坂更科一門外

脚注[編集]

  1. ^ 『一億人の昭和史 明治上』 - 毎日新聞社、1877年(明治10年)、2016年2月24日閲覧。
  2. ^ a b 江戸買物独案内 飲食之部』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 中川五郎左衛門編、山城屋左兵衛他、1824年(文政7年)、2016年2月24日閲覧。
  3. ^ a b 『風俗画報』、新撰東京名所図会、第248号、麻布区の巻之一、「更科」、東陽堂、1902年3月31日、国立国会図書館蔵マイクロフィルム、2016年2月22日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「更科の系図」、光文社、2011年7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年2月20日閲覧。
  5. ^ a b c 『そば物語』、植原路朗著、井上書房、1959年(昭和34年)12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。
  6. ^ 『食行脚 東京の巻』、奥田優雲華著、「更科」、協文館、1925年(大正14年)、国立国会図書館蔵書、2016年4月2日閲覧。
  7. ^ a b 『蕎麦そのほか』、第1号、「永坂散歩道 - 昔ながらの味」、植原路朗著、昭和46年4月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。
  8. ^ 『控訴を棄却する』 (PDF) - 東京高等裁判所、商標権民事訴訟控訴審、昭和61年4月24日、2016年3月4日閲覧。
  9. ^ a b 『「永坂更科」商号争い、そば店しにせ敗訴』、朝日新聞(夕刊)、1984年5月30日、(14)、2016年2月20日閲覧。
  10. ^ 『原告側の請求を棄却する』 (PDF) -東京地方裁判所、商標権民事訴訟、昭和59年5月30日、2016年2月29日閲覧。
  11. ^ 『老舗ソバ屋の"のれん裁判"「永坂更科仲良く両店で」商号争いにケリ、東京地裁、使用差し止め退ける』 - 毎日新聞、「老舗"永坂更科"が24年前に吸収合併された時点で老舗の商号はなくなった」などとして、老舗の流れをくむソバ店の商号使用差し止めを求める訴えを退ける判決を下した。2016年3月1日閲覧。
  12. ^ KANDAルネッサンス 102、神田学会、2015年11月25日、2016年3月1日閲覧 - 馬場家「麻布永坂更科本店」と小林家「永坂更科布屋太兵衛」が代表格。
  13. ^ 『蕎麦全書』、日新社友蕎子著、1751年(寛延4年)、「江戸中蕎麦切屋の名目の事」、2016年4月4日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]