更科堀井

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更科堀井
Sarashina Horii4.JPG
更科堀井の外観
(2016年2月22日撮影)
店舗概要
所在地 106-0046
東京都港区元麻布三丁目11番4号
座標 北緯35度39分24.4秒 東経139度43分58.38秒 / 北緯35.656778度 東経139.7328833度 / 35.656778; 139.7328833
開業日 年中無休(年始・夏季休暇を除く)
施設所有者 株式会社 更科堀井
施設管理者 九代目 堀井良教
店舗数 2店舗 - 麻布本店、立川店
営業時間 午前11時30分 - 午後8時30分
土曜、日曜、祝日 - 午前11時 - 午後8時30分
駐車台数 無し台
前身 信州更科蕎麦所 布屋太兵衛
麻布永坂更科 総本店
麻布永坂更科 小林勇
永坂更科 布屋太兵衛
信州更科 布屋総本店
最寄駅 都営大江戸線麻布十番駅
都営大江戸線六本木駅
東京メトロ南北線麻布十番駅
東京メトロ日比谷線六本木駅
最寄IC 首都高速飯倉出入口芝公園出入口
外部リンク 公式ウェブサイト
株式会社 更科堀井
種類 取締役会設置会社、監査役設置会社
略称 総本家 更科堀井
本店所在地 日本の旗 日本
152-0022
東京都目黒区柿の木坂二丁目8番8号
設立 1984年(昭和59年)10月17日
業種 食料品
事業内容 飲食店経営、麺類・調味料
菓子類の製造及び販売
代表者 代表取締役 堀井良造、堀井良教
資本金 1000万円(平成21年6月15日現在)
発行済株式総数 200株
従業員数 39名(パート、アルバイト含む)
支店舗数 2店舗 - 麻布十番本店、立川支店
会計監査人 堀井香
主要株主 堀井良造、堀井良教、堀井幸枝
外部リンク 公式ウェブサイト
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更科堀井(さらしなほりい)は、東京都港区元麻布三丁目にある1789年寛政元年)創業のそば屋店舗

概要[編集]

更科堀井の創業は1789年寛政元年)、信州出身で信州特産晒布の保科家御用布屋だった八代目清右衛門が、保科家の江戸屋敷傍の麻布永坂町に、そば屋「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業したのが始まり。当初は、大名屋敷寺院などに出入していたが、明治時代半ばの最盛期には、皇室宮家などにも出前を届けた。

1941年昭和16年、関東大震災昭和初期の国内外の恐慌等の影響を受け、一時、廃業となった。戦後、店を再建したが、会社組織となったため、「永坂更科」や「布屋太兵衛」の登録商標は堀井家から離れた。1984年(昭和59年)12月、現在地である麻布十番商店街に「総本家 更科堀井」を開店した[1]

信濃の国はかつては科(シナ)野の国で、科の木の多いところだった。この木の皮を剥いで縄につくり、布を織ったり、紙をすいたりした。仁科は煮科、保科は穂科、科の花の形容か、更科は晒科の意か、この科の皮は丈夫なので桶のたがにも利用されていた[2]

沿革[編集]

  • 1789年寛政元年) - 堀井家は信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を保科家の江戸屋敷に出入していた。初代は布屋太兵衛(堀井清助)といい、江戸では麻布1番通り竹屋町にあった保科家の屋敷の長屋に滞在を許されていた。清助は1693年元禄6年)の秋ここで世を去った。八代目堀井清右衛門(現「更科堀井」初代布屋太兵衛)のとき、領主保科兵部少輔からそば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げた[3]
麻布永坂の高稲荷と更科[4]
三田神社は、永坂町43番地に在る稲荷の神社にして、寛文2年(1662年)6月の創建に係る。相伝いていう、甲府大納言屋敷の鬼門除けに設けられしものなりと。其の地勢高きに依るを以って、俗に高稲荷と称し来れり。(中略)『新編江戸志』に云う、当社は、もと根津の新宮之を兼職するも、元禄年中(1688 - 1704年)より更科方にて社守をなし、修繕等に至るまで番皆之を担当し来り。今は同店の神社となり、祭典は従前の如く執行するよし。因て或は更科稲荷ともいうとぞ。

— 新撰東京名所図会、『風俗画報』、麻布区の巻之一、「三田神社」、明治35年3月31日より抜粋

  • 1824年文政7年) - 『江戸買物独案内 飲食之部』、名物そば屋(御膳蕎麦処)18軒に、「信州 更科蕎麦所 麻布永坂高いなりまえ 布屋太兵衛」が挙げられている[5]。御膳蕎麦とは、将軍家御用を承わり、江戸城中の愛顧を受けていたので、「御膳蕎麦」を創製、またこの一家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した[2]
  • 1848年嘉永元年) - 『江戸名物酒飯手引草』には、120軒のそば屋の中の「更科」の屋号6軒中に「更科生そば麻布永坂町布袋屋太兵衛」と誤って挙げられている。
  • 1858年安政6年) - 四代目布屋太兵衛没。
  • 1869年明治2年) - 神田錦町に初代堀井丈太郎「神田錦町分店」を開店した。創業以来五代目に至るまで、一軒も支店を出していなかった。初代堀井丈太郎は、本店六代目松之助の妹堀井かねとは従兄妹同士の間柄で、丈太郎が堀井かねの婿養子になる形で結婚、分店として出店、屋号は布屋丈太郎であった。一門の古いしきたりで、暖簾分けには分店と支店のふた通りがあった。分店と名乗れるのは本家の子どもが新たに出した店の場合に限られた。
  • 1873年明治6年) - 五代目布屋松之助没。
  • 1875年(明治8年) - 名字必称の令により、屋号「布屋」から「堀井」と改め、五代目堀井松之助となる。
  • 1899年(明治32年) - 深川佐賀町に初の支店「麻布永坂更科支店 布屋善次郎」を開店。
  • 1902年(明治35年) - 日本橋三代町(現・日本橋兜町)に「有楽町更科」を開店。
明治31年の麻布永坂町の蕎麦店「更科」[4]
文政7年(1824年)、『江戸買物独案内』、名物そば屋(御膳蕎麦所)より[5]
明治10年(1877年)頃、『一億人の昭和史 明治上』、明治10年頃の永坂更科より[6]
明治31年(1898年)頃、『永坂町更科蕎麦店の図』(山本松谷画)より[7]
更科といえば、人みな麻布永坂の蕎麦店たるを知る。実に東京に於ける一名物というべし。本店は永坂町13番地に在り、当主を堀井松之助という。

其の製法他店と全く異にして、色白くして細く、一見愛すべし。(中略)、当店は、奥座敷等ありて、通常の店舗と異なり、其の地亦喧雑ならさるを以って、紳士の来たりて賞玩する者多く、帰途は更にミヤゲとして持帰る者少なからず。近来は汽車に搭し、大阪、神戸、須磨、明石等に赴く遊客も亦之を携ふるに至れり。

支店は、神田区錦町5番地と日本橋区三代町4番地とにあり。製法等総て本店に同じ。現店主は、第五代なるよしなれば、ふるくより在りしとは明らかなり。むかしそば切りを以って名高かりしは、麹町のひょうたん屋、洲崎の伊勢屋、浅草の道光庵等なりし。更科の名の聞こえしは、文化文政頃よりならむ。文政の江戸買物帳に、其の名見えたり。

— 新撰東京名所図会、『風俗画報』、麻布区の巻之一、「更科」、明治35年3月31日より抜粋

  • 1912年(明治45年) - 牛込神楽坂に「麻布永坂 牛込通寺町支店」を開店。
  • 年代不詳 - 明治後期、芝二本榎西町に「芝二本榎西町支店」を開店。
  • 年代不詳 - 大正時代、下谷池の端に「下谷池の端仲町分店」を開店。
  • 1922年大正11年) - 日本橋三代町の店を麹町区有楽町に、「有楽町更科」として移転。
『食行脚 東京の巻』「更科」奥田優雲華著[8]
麻布永坂の、寂しい大通り、振客の利かぬ、辺僻な場所の、更科本店は、三棟七室の客座敷に、何時も、遠来の客で賑って居る。

表看板の布屋太兵衛は、先祖が履いた、呉服屋の草鞋を、子孫に伝えて忘れぬための、美しい主人の心掛けが窺はれる。蕎麦屋に転業してから、三代八十年、更科蕎麦の盛名は、場末の果まで伝へられ、遍く人口に感謝されている。

宮城を初め各宮家の御用を承り、家門の光り、名聞の誉れに、愈々益々、栄え行く計りだが、営業の方針は、飽くまでも堅実を旨とし、分店を神田に支店を神楽坂、二本榎、品川の三ヶ所に設けて、本店同様、蕎麦当の歓迎を受けて居る。

名物更科蕎麦は、蕎麦粉そのものが、特に限られた産地を、持って居る訳ではなく、亦其の汁に、秘密の製法があるのでもない、要は原料の吟味と、晒粉の精選である、注意深い用意によって、特選せられて居る晒粉は、普通の夫れの様に、製粉所の製品ではなくて、昔の儘の、自家工場特製品である、名物蕎麦の秘訣が、此処に包まれてはいまいか。(店、麻布区永坂町13。電車、飯倉片町下車。電話、青山5692番)

— 『食行脚 東京の巻』、「更科」、大正14年、国立国会図書館蔵書、2016年4月2日より抜粋
  • 1927年昭和2年) - 六代目堀井松之助没。
  • 1930年(昭和5年) - 不景気のどん底の年で、更科一門もしばの値段を下げた。この時の麻布永坂更科一門は、麻布永坂本店、下谷池之端仲町分店、神田錦町分店、牛込通寺町支店、芝二本榎西町支店、府下品川町歩行新宿支店、京橋区尾張町支店、麹町区有楽町支店の8店だが、尾張町と有楽町は同経営者なので全部で7店で、巷間「更科お七軒様」と呼ばれていた。
  • 1936年(昭和11年) - 堀井良造(6人きょうだいの末っ子、四男、後の八代目)生まれる。
  • 1941年(昭和16年) - 本店七代目堀井堀井保のとき、大正末期から昭和初期にかけての、関東大震災、国内外の金融恐慌、堀井家が出資していた麻布銀行の倒産等の影響により廃業に追い込まれる。本店の廃業とともに、廃業する支店も多く出て、「錦町」と「有楽町」の支店のみとなる。本店危機のにさいして、親族、一門が集まった時、血縁関係から錦町が本店を継ぐのが筋ではないかという話も出たが、二代目堀井亀雄は「店は錦町一軒だけで十分」といって断り、本店七代目堀井保の身柄を引取った。
  • 1942年(昭和17年) - 大東亜戦争で永坂の店が焼失、永坂を引き払い坂下に移転。母きんと良造、きょうだい2人で麻布を去る。
  • 1948年(昭和23年) - 戦後の混乱のなか、麻布十番一の橋たもとに料理屋馬場繁太郎が「永坂更科本店」を開店。七代目堀井松之助と馬場繁太郎との間で、「永坂更科」の商号の使用に関して公正証書による契約を締結したことによる。当時、雅叙園に勤めていた七代目堀井松之助を雇用した[9]。(永坂更科の店名使用の承諾書が交わされたことによる。(後に、店名に関し裁判になり、承諾書の存在により、「麻布永坂 更科本店」と、「永坂」と「更科」の間を離すことで和解した[10]。)
  • 1949年(昭和24年)10月 - 合資会社「麻布永坂更科 総本店」設立。七代目堀井松之助、妻きん、麻布十番商店街の小林玩具店 小林勇(現・永坂更科布屋太兵衛の初代)、麻布十番商店街の組合長木村政吉により伝統の暖簾が再開された。(後に、八代目堀井良造は、「永坂更科」の店名商標登録が法人取得だったため、その後に厄介な問題を起こすこととなり、「大失敗でした」といった[1])。
  • 1950年(昭和25年)10月5日 - 東京法務局日本橋出張所、昭和25年10月5日受付、馬場繁太郎「株式会社 麻布永坂 更科本店」設立登記。
  • 年代不詳 - 昭和30年代、合資会社「麻布永坂更科 小林勇」設立、七代目堀井松之助、妻きんも出資したが、当初の約束で5年後に退社。
『そば物語』「そば・江戸から東京へ」[2]
江戸から東京への時代を物語るそば屋としては、上野無極庵、蓮玉庵、団子坂藪、菊そば、押上の蘭麺、麻布更科(現在は戦災のため永坂を引払い坂下に移転、付近に同名異種の店舗あり)、本所の白滝、深川の冬木、浅草公園の万盛庵、群玉庵、万屋など。大正から昭和初期にかけての有名店として、柳橋の吉田、銀座七丁目の長寿庵、日暮里の日月庵(藪忠)なども話題のたねである。 — 『そば物語』、「そば・江戸から東京へ」、昭和34年12月1日より抜粋
  • 1956年(昭和31年) - 渋谷の東急文化会館4階特選食堂街に「永坂更科布屋太兵衛」を開店。
  • 1959年(昭和34年)11月14日 - 初代小林勇「永坂更科布屋太兵衛」を設立(登記簿上)。
  • 1960年(昭和35年) - 堀井良造(後の「更科堀井」八代目)は大学を卒業、合資会社「永坂更科布屋太兵衛」に入社。
  • 1961年(昭和36年) - 二つの会社合併により、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」となる、代表権は小林勇のものとなり、「布屋太兵衛」も商標登録された。
  • 1971年(昭和46年)
    • 2月28日 - 永坂更科つごもり会(第1回)、麻布総本店にて開催、出席会員67名(神田錦町 更科分店の三代目堀井松太郎も出席していた)。
    • 4月1日 - 会誌『蕎麦そのほか』、第1号発刊。
『蕎麦そのほか』「永坂散歩道 - 昔ながらの味」[11]
「信州更科御蕎麦所」の看板を掲げていた総本家とニセ物とが、目と鼻の先でいがみ合っていたが、遂にニセ物は退散、永坂の更科で名を売った総本家は戦災で焼かれてから永坂をおりて来て、麻布十番通りをちょっと入った所で繁昌、六つの支店(渋谷東急文化会館、新丸ビル、新海上ビル、日本橋、赤坂溜池、東急ビル、横浜)を連ねて、昔ながらの味を伝えている。 — 『蕎麦そのほか』、第1号、「永坂散歩道 - 昔ながらの味」、植原路朗著、昭和46年4月1日より抜粋
  • 1984年(昭和59年)
    • 5月30日 - 朝日新聞、『永坂更科商号争い そば店しにせ敗訴』 - 「永坂更科布屋太兵衛」の小林勇社長は、「麻布永坂 更科本店」の馬場進社長を相手取り、類似商号の使用禁止を求めていた民事裁判で、東京地裁は「被告は、原告会社の前身(七代目堀井太兵衛)から商号の使用許可を得ている」として、原告側の請求を棄却した[12][13][14]
    • 12月4日 - 「永坂更科布屋太兵衛」の専務取締役堀井良造は経理・人事等を担当したが、24年間勤めた会社から離れ、麻布十番商店街(現在地)に「信州更科 布屋総本店」を開店(登記簿上は10月17日)。
昭和59年、麻布に「更科」が甦った[1]
「信州更科 布屋総本家」を開店させた堀井良造は

「ずいぶん悩みました。一門はもちろん、十番商店街の方たちなど、あちこちに相談しましたが、昔の麻布永坂を知っている方たちが、私の立場を理解してくれましてね。その応援を背にしていたから、踏み切れたんだと思います。そうでなければ独立できなかった。本当にラッキーだったとつくずく思います。」

当初は麻布から離れてほかの土地で独立しようかとも考えていたそうだが、「麻布にあってこその更科」と励ます地元の人たちの後押しもあって、現在の場所を確保することもできたという。

— 岩崎信也著、『蕎麦屋の系図』、「更科の系図」、2011年7月20日より抜粋

  • 1994年平成6年) - 「有楽町更科」は後継者がなく閉店。
  • 年代不詳 - 店名の「布屋」使用について、使用権を巡って裁判となり、「更科堀井」と改称した。地元の人達が「堀井の更科」と呼んでいたのが改称のヒントとなった、これで、戦後の堀井家の、「更科堀井」、「麻布永坂更科本店」、「永坂更科布屋太兵衛」、3店の屋号の問題に終止符がうたれた。
「一子相伝の伝承者への道」[15]
商売を長く続けていればいいというだけではありません。商売が繁盛すれば必ず偽物が出てきます。平気な顔をしてウソをつく、マネをする店が出てきます。それらを一つ一つ乗り越えて本物にならなければなりません。ただし、本人の努力だけでは本物にはなれません。 — KANDAルネッサンス 102、神田学会、2015年11月25日より一部抜粋[15]
  • 2016年(平成28年) - 九代目堀井太兵衛(堀井良教)「更科堀井」として現在に至る[1]

変わり蕎麦[編集]

蕎麦の実の芯から取れる一番粉だけで打ち、色の白さ、舌触りの良さが大きな特徴、それが更科。「布恒更科」は、「総本家更科堀井」の直系。三代目伊島節が、挽き立て、打ち立て、茹で立ての蕎麦を楽しませてくれる。(中略)この店の真骨頂は、変わり蕎麦の数々にある。暖簾の伝統はかっちりと守る一方で、伊島は蕎麦と"遊ぶ"のだ。
変わり蕎麦は、江戸時寛延年間(1748 - 1751年)に既にあり、「料理山海郷」には卵を打ち込んだ卵切りの記述がある。春は蓬、夏は紫蘇、秋は菊切り、冬は柚子など、四季折々の味覚を蕎麦に打ち込んだ繊細な風味は、更科蕎麦ならではの魅力。(中略)他にも、芹、ひじき、カボチャ、桜の葉等、試した素材は数知れず、その成果の賜物というべき集大成が節句蕎麦。特に5月5日端午の節句は、鯉幟の吹流しにちなんだ五色盛りで1800円御膳蕎麦の白を初め、胡麻切りの黒、カボチャ切りの黄、桜海老切りの桃色、蓬切りの緑と、彩りは鮮やかで味わい豊か[16]
更科堀井の変わり蕎麦
  • 1月4日-8日 - 桜海老切
  • 1月9日-31日 - 柚子切
  • 2月1日-28日 - 春菊切
  • 3月1日-3日 - 三色そば
  • 3月4日-14日 - ふきのとう切
  • 3月16日-4月10日 - 桜切
  • 4月11日-30日 - 木の芽切
  • 5月1日-5月7日 - 茶そば
  • 5月11日-23日 - よもぎ切そば
  • 5月24日-6月5日 - 紅花切そば
  • 6月6日-20日 - 蓼切
  • 6月21日-30日 - トマトつなぎ
  • 7月1日-7日 - 笹切
  • 7月8日-31日 - 青海苔切
  • 8月1日-31日 - しそ切
  • 9月1日- 21日 - 青柚子切
  • 9月22日-10月9日 - 菊切
  • 10月10日-31日 - くこ切
  • 11月1日-21日 - くちなし切
  • 11月22日-30日 - 柿の葉切
  • 12月1日-30日 - 柚子切
  • 12月22日 - かぼちゃ切

店舗情報[編集]

交通アクセス[編集]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「更科の系図」、光文社、2011年7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年2月20日閲覧。
  2. ^ a b c 『そば物語』、植原路郎著、井上書房、1959年(昭和34年)12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。
  3. ^ 『そば物語』、植原路郎著、井上書房、1959年(昭和34年)12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。将軍家御用を承わり、江戸城中の愛顧を受けていたので、「御前蕎麦」を創製、またこの一家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した。
  4. ^ a b 『風俗画報』、新撰東京名所図会、第248号、麻布区の巻之一、「三田神社」、東陽堂、1902年(明治35年)3月31日。
  5. ^ a b 中川五郎左衛門編、『江戸買物独案内 飲食之部』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 山城屋左兵衛他、1824年(文政7年)、2016年2月24日閲覧。
  6. ^ 毎日新聞社、2016年2月24日閲覧。看板に「信州更科蕎麦所」とある、前面の道路は「現・麻布通り」、坂の向こうは「現・飯倉片町交差点」。建物は戦災を受け焼失し、現在は「永坂更科布屋太兵衛」の本社(中央ビル)、本社工場2棟が建っている。
  7. ^ 新撰東京名所図会、『風俗画報』、第248号、麻布区の巻之一、「更科」、東陽堂、1902年3月31日、国立国会図書館蔵マイクロフィルム、2016年2月22日閲覧。背景のこんもりした木立は三田稲荷(高稲荷)で、棟が重なり、蔵と門のある屋敷然とした造りであった。明治以降の店は、広い敷地と、店舗のほかにいくつもの家作を所有する大店と発展した。その場所には現在、「永坂更科布屋太兵衛」の本店、本社工場が建っていて、三田稲荷は本社ビル屋上に祀ってある。
  8. ^ 『食行脚 東京の巻』、奥田優雲華著、「更科」、協文館、1925年(大正14年)、国立国会図書館蔵書、2016年4月2日閲覧。
  9. ^ 東京高等裁判所、『控訴を棄却する』 (PDF) - 商標権民事訴訟控訴審、1986年(昭和61年)4月24日、2016年3月4日閲覧。
  10. ^ 『「永坂更科」商号争い、そば店しにせ敗訴』、朝日新聞(夕刊)、1984年5月30日、(14)、2016年2月20日閲覧。
  11. ^ 『蕎麦そのほか』、第1号、「永坂散歩道 - 昔ながらの味」、植原路朗著、1971年(昭和46年)4月1日
  12. ^ 東京地方裁判所、『原告側の請求を棄却する』 (PDF) - 商標権民事訴訟、1984年(昭和59年)5月30日、2016年2月29日閲覧。
  13. ^ 朝日新聞、『「永坂更科」商号争い、そば店しにせ敗訴』、1984年5月30日、(14)、2016年2月20日閲覧。
  14. ^ 毎日新聞、『老舗ソバ屋の"のれん裁判"「永坂更科仲良く両店で」商号争いにケリ、東京地裁、使用差し止め退ける』 - 「老舗"永坂更科"が24年前に吸収合併された時点で老舗の商号はなくなった」などとして、老舗の流れをくむソバ店の商号使用差し止めを求める訴えを退ける判決を下した。2016年3月1日閲覧。
  15. ^ a b KANDAルネッサンス 102、神田学会、2015年11月25日、2016年3月1日閲覧 - 馬場家「麻布永坂更科本店」と小林家「永坂更科布屋太兵衛」は偽物の代表格。
  16. ^ 「節句蕎麦」が楽しめる『布恒更科』、週刊新潮、1995年(平成7年)5月、2016年3月8日閲覧。

参考文献[編集]

  • 松本順吉編、『東京名物志 更科』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 公益社、1901年(明治34年)9月29日、2016年2月24日閲覧。
  • 法政大学大学院エコ地域デザイン研究所歴史プロジェクト・陣内研究室編、『自然が育んだ江戸東京の都市文化』、「麻布 更科堀井」、法政大学大学院エコ地域デザイン研究所、2007年(平成19年)、国立国会図書館蔵所。
  • 大谷浩己著、『昼下がりに老舗で憩う』、特集 そば - 江戸東京で味わう-、並木藪蕎麦、赤坂砂場、神田まつや、九段一茶庵本店、総本家更科堀井、川むら、東京人、2008年(平成20年)11月、国立国会図書館蔵書。
  • 行列のできる、『街角うまい店ガイド』、麻布・お台場他、「日本そば更科堀井」、アドメディア、2009年(平成21年)10月、国立国会図書館蔵書。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]