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'''立原 元夫'''(たつはら もとお、[[1913年]][[1月14日]] - 没年不明<!--[[1984年]]11月? 、信憑性に欠ける為コメントアウト-->)は、[[東京府]]出身の[[サッカー選手]]。父は[[法曹]]の雄と呼ばれた[[花井卓蔵]]。


==略歴==
==略歴==
1933年に[[早稲田大学]]に入学し、在学中は[[早稲田大学ア式蹴球部|ア式蹴球部]]に所属。在学中の1934年に開催された[[極東選手権競技大会サッカー競技|第10回極東選手権競技大会]]の[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出され、5月13日の[[オランダ領東インド]](現:[[サッカーインドネシア代表|インドネシア]])代表戦で日本代表として初出場した。
1933年に[[早稲田大学]]に入学し、在学中は[[早稲田大学ア式蹴球部|ア式蹴球部]]に所属。1934年に開催された[[極東選手権競技大会サッカー競技|第10回極東選手権競技大会]]の[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出され、5月13日の[[オランダ領東インド]](現:[[サッカーインドネシア代表|インドネシア]])代表戦で日本代表として初出場した。1935年にはア式蹴球部の主将を務めた<ref name=yomi>「早大蹴球部卒業選手勤務先」 [[読売新聞]]、1936年1月30日、2016年4月12日閲覧</ref>


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==所属クラブ==
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2016年4月11日 (月) 16:25時点における版

立原 元夫
名前
カタカナ タツハラ モトオ
ラテン文字 TATSUHARA Motoo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1913年1月14日
出身地 東京府
没年月日 没年不明
選手情報
ポジション MF
ユース
1933-1936 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
早稲田大学WMW
代表歴
1934-1942 日本の旗 日本 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年不明)は、東京府出身のサッカー選手。父は法曹の雄と呼ばれた花井卓蔵

略歴

1933年に早稲田大学に入学し、在学中はア式蹴球部に所属。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会日本代表に選出され、5月13日のオランダ領東インド(現:インドネシア)代表戦で日本代表として初出場した。1935年にはア式蹴球部の主将を務めた[1]

1936年3月に早稲田大学を卒業して大日本人造肥料(現:日産化学工業)に入社[1]。同年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され、1936年8月のスウェーデン代表戦など2試合に出場した(ベルリンの奇跡を参照)[2]

1942年8月、満州国建国十周年慶祝東亜競技大会日本代表に選出され、主将として3試合に出場した[3]

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 4試合 0得点(1934-1936)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1934 2 0 0 0 2 0
1935 0 0 0 0 0 0
1936 2 0 4 0 6 0
1937 0 0 0 0 0 0
1938 0 0 0 0 0 0
1939 0 0 0 0 0 0
1940 0 0 0 0 0 0
1941 0 0 0 0 0 0
1942 0 0 3 0 3 0
通算 4 0 7 0 11 0

出典

  1. ^ a b 「早大蹴球部卒業選手勤務先」 読売新聞、1936年1月30日、2016年4月12日閲覧
  2. ^ [1936.08.04 ベルリン]”. 日本サッカー協会. 2014年9月4日閲覧。
  3. ^ [1942.8.16 京城(ソウル)]”. 日本サッカー協会. 2014年9月4日閲覧。

外部リンク