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* 1998年 - 伝説となったブラジルGPでの「[[マクラーレン]]の[[デビッド・クルサード]]車コックピット盗撮事件」。開始間もなかったサーキット便りでのこと。当時まだ珍しかったデジタルカメラで、マシントラブルによってコース脇に停車していた[[マクラーレン・MP4-13|クルサード選手のマシン]]のコックピットを撮影、その様子がサーキットモニターで映されていたため盗撮が判明し世界各国のカメラマンから画像の提供を申し出られただけではなくマクラーレンの総帥である[[ロン・デニス]]から画像使用の是非を問われた。しかし世界に配信したことでその後の活動の方向性が決まったとも言える。当時はマクラーレンのコックピットが「今までにないペダルレイアウト([[セミオートマチックトランスミッション|クラッチのない2ペダル仕様]])」であると言われていたが、誰も現物を見たものがなく貴重な情報であったようだ。
* 1998年 - 伝説となったブラジルGPでの「[[マクラーレン]]の[[デビッド・クルサード]]車コックピット盗撮事件」。開始間もなかったサーキット便りでのこと。当時まだ珍しかったデジタルカメラで、マシントラブルによってコース脇に停車していた[[マクラーレン・MP4-13|クルサード選手のマシン]]のコックピットを撮影、その様子がサーキットモニターで映されていたため盗撮が判明し世界各国のカメラマンから画像の提供を申し出られただけではなくマクラーレンの総帥である[[ロン・デニス]]から画像使用の是非を問われた。しかし世界に配信したことでその後の活動の方向性が決まったとも言える。当時はマクラーレンのコックピットが「今までにないペダルレイアウト([[セミオートマチックトランスミッション|クラッチのない2ペダル仕様]])」であると言われていたが、誰も現物を見たものがなく貴重な情報であったようだ。
* 2000年 - 北海道札幌市に自身の主宰するカートショップ兼レーシングチーム「O&K」を設立。
* 2000年 - 北海道札幌市に自身の主宰するカートショップ兼レーシングチーム「O&K」を設立。
* 2007年 - この年限りでF1の取材活動を休止。
* 2008年 - この年の英国グランプリ限りでF1の取材活動を休止。
* 2010年 - F1速報サイトのコラム『けんさわの、なまらF1記』が『F1カメラマン けんさわ裏F1記』として単行本化。
* 2010年 - F1速報サイトのコラム『けんさわの、なまらF1記』が『F1カメラマン けんさわ裏F1記』として単行本化。
* 2011年 - 個人ブログ210に、死別した妻のことを記述して以来、何かが変わって来たと語っている。


=== 主な活動媒体 ===
=== 主な活動媒体 ===
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* 各チームやメーカー(特にタイヤメーカー競合時代のタイヤ)の見られたくない最新情報やオフレコギリギリの極秘情報などを公表する撮影スタイルゆえか広告写真を撮っていると言う話を聞かない。
* 各チームやメーカー(特にタイヤメーカー競合時代のタイヤ)の見られたくない最新情報やオフレコギリギリの極秘情報などを公表する撮影スタイルゆえか広告写真を撮っていると言う話を聞かない。
* 使用カメラがCanonということもあり、Canonのテレビコマーシャルに出演したことがある。
* 使用カメラがCanonということもあり、Canonのテレビコマーシャルに出演したことがある。

* 東日本大震災ならびに東電第1原発事故以来ツイッターでの活発な情報発信を続けている


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.f1sokuho.com/2010/column/ なまらF1記]
*[http://www.f1sokuho.com/2010/column/ なまらF1記]
*[http://www.f1sokuho.com/2010/issue/?no=71 F1カメラマン けんさわ裏F1記]
*[http://amzn.to/qeBq9v F1カメラマン けんさわ裏F1記]


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2011年7月18日 (月) 07:19時点における版

澤田賢志(さわだけんじ、1960年8月21日 - )は日本の写真家

F1(フォーミュラ1)グランプリの取材を中心に活動するフォトグラファー“けんさわ”の愛称で知られ、F1やモータースポーツの世界では最も活発に情報提供を行っていた。主にF1速報誌に写真を提供する傍ら人気コラム「サーキット便り。」を展開していたほか、F1速報サイトで『けんさわの、なまらF1記』を連載した。

プロフィール

略歴

  • 1972年 - 札幌オリンピック開会式に、風船を持って式を盛り上げるミニスケーターの1人として参加。
  • 1987年 - 当時勤めていた会社でキャラクターショー出演や企画プロデューサー、ディレクターなどを行う傍らでF1日本グランプリ観戦、モータースポーツ初撮影はその時の木曜フリー走行。
  • 1988年 - F1観戦のために会社を辞め渡米。ロスに拠点を置きブラジルメキシコカナダアメリカ(デトロイト)の各グランプリを歴訪。その時に知人に借りていたEOSでF1を撮影する。鈴鹿の日本グランプリでも上記同様の撮影をもくろみ、紹介された桜井淑敏(元ホンダF1総監督)などの協力もあり撮影のための入場に成功。オフシーズンになりRacing On誌の依頼でF1オフシーズンテスト取材に赴く。
  • 1989年 - Racing OnよりF1取材開始。初年度は「サンマリノ」「ハンガリー」「イギリス」「フランス」など数戦の取材に留まる。
  • 1990年 - F1速報誌の創刊に伴いF1全戦取材開始、英国ロンドン郊外クロイドンに居を構える。
  • 1993年 - イギリスの他、フランス高地のティーニュ(標高2,400メートル)に住み3,600メートルの氷河で夏のスキートレーニングを積みながらF1取材を行う。この頃は「ロンドン」「ケンブリッヂ」「ティーニュ」「東京-明大前」の4ヶ所に活動拠点と住居を置いていた。
  • 1994年 - 札幌に帰国。本人のコラムによるとF1カメラマンの間では「世界一遠くから取材に来ている」とされている。
  • 1998年 - 伝説となったブラジルGPでの「マクラーレンデビッド・クルサード車コックピット盗撮事件」。開始間もなかったサーキット便りでのこと。当時まだ珍しかったデジタルカメラで、マシントラブルによってコース脇に停車していたクルサード選手のマシンのコックピットを撮影、その様子がサーキットモニターで映されていたため盗撮が判明し世界各国のカメラマンから画像の提供を申し出られただけではなくマクラーレンの総帥であるロン・デニスから画像使用の是非を問われた。しかし世界に配信したことでその後の活動の方向性が決まったとも言える。当時はマクラーレンのコックピットが「今までにないペダルレイアウト(クラッチのない2ペダル仕様)」であると言われていたが、誰も現物を見たものがなく貴重な情報であったようだ。
  • 2000年 - 北海道札幌市に自身の主宰するカートショップ兼レーシングチーム「O&K」を設立。
  • 2008年 - この年の英国グランプリ限りでF1の取材活動を休止。
  • 2010年 - F1速報サイトのコラム『けんさわの、なまらF1記』が『F1カメラマン けんさわ裏F1記』として単行本化。
  • 2011年 - 個人ブログ210に、死別した妻のことを記述して以来、何かが変わって来たと語っている。

主な活動媒体

  • Racing On(イデア)
  • F1速報(イデア)
  • F1速報インターネットマガジン

過去の掲載誌

  • スポーツグラフィック=ナンバー(講談社)
  • 週刊ポスト
  • 週刊プレイボーイ(集英社)
  • 月刊プレイボーイ(集英社)
  • 週刊スパ(扶桑社)

人物

  • イベント企画会社出身ということもあり、フォトグラファーには珍しく企画書なども作成したことがカメラマンになるにあたって重要なファクターであった。撮影が銀塩式カラーポジフィルムからデジタルカメラに移行することに伴いグランプリの現場からのレポートを毎日更新する「サーキット便り。」を開始したのも、そういった過去の企画会社時代の「人に喜んでもらうのが仕事」というスタンスが生きていると言われる。
  • アマチュア時代からプロカメラマンになるまでの経緯を綴った「けんさわプロになれるまで物語」には彼が行き当たりばったりに活動する中で偶然の重なりと自身の当たって砕けろ精神でプロになって行く様が書かれており、F1カメラマンを目指す若者へのアンチテーゼとなっている。
  • F1取材を欧州から行いながら29歳で黎明期であったフリースタイルスキーのモーグル競技に出場を続け34歳まで活動。当時のスキー仲間との関係性からスキー写真も数多く撮影した。スキー技術はモーグル競技を経験したことにより常人のそれを超えたものがあり、重たいカメラ機材を持った状態で急斜面やパウダーバーンを滑走できるため難易度の高い撮影を行っている。
  • モーグルを引退した後は94年頃からレンタルカート場に入り浸り、世界各国のカート場でコースレコードを樹立するなどモーグル時代に培った反射神経と身体能力を発揮。その後本格的レーシングカートを購入しレース活動を38歳から開始。デビューイヤーに10戦出場5勝という好成績でレーシングカート開眼。すぐにライセンスを上級申請し全日本カート選手権レースにステップアップする。参戦3年目の榛名のレースで4位入賞、途中ランキングも3位につけるなど好成績を挙げるがF1取材のスケージュールの合間での活動の限界を感じその年限りで全日本への挑戦を終えている。もてぎで開催された「CIK/FIA WorldCup Kart Race in JAPAN MOTEGI 2000」にも当時のICAクラスで参戦、後にF1ドライバーとなる中嶋一貴ニコ・ロズベルグヴィタントニオ・リウッツィヘイキ・コバライネンロバート・クビサそしてルイス・ハミルトンなども出場していた大会であり同じ時期のレース経験を持つ貴重なドライバーでもある。そのテクニックはブリヂストン浜島裕英も評価するものであった。
  • レーシングチームを設立したその後もレース出場を続けながら後進の育成に軸足を移している。
  • 何かと隠し事の多いF1グランプリに於いて「隠されるほど大切なんでしょ?」と公言し撮影と公表を続けた。この分野では草分け。2006年以降は他のサイトでもサーキット便り同様の企画が垣間みられるが、本家の面白さは格別。しかし年齢のためなのか札幌での仕事が多忙なためなのか、はたまた編集方針なのか次第に現地に飛ぶ回数が減っていった。
  • 日本グランプリ開催期間中には「けんさわ祭り(正式には「F1速報読者ミーティング in 鈴鹿」)と呼ばれるイベントがゲリラ的に行われていた。当初は澤田本人が寝泊まりしていたテント近辺で行っていたが、後にサーキットホテル入口前(通称「A地点」)、更にはサーキット内グランドスタンドで行われるようになった。イベントには中野信治津川哲夫片山右京後藤治今宮純なども参加していた。日本GPが富士スピードウェイでの開催となってからは行われていなかったが、2010年に復活した。
  • 各チームやメーカー(特にタイヤメーカー競合時代のタイヤ)の見られたくない最新情報やオフレコギリギリの極秘情報などを公表する撮影スタイルゆえか広告写真を撮っていると言う話を聞かない。
  • 使用カメラがCanonということもあり、Canonのテレビコマーシャルに出演したことがある。
  • 東日本大震災ならびに東電第1原発事故以来ツイッターでの活発な情報発信を続けている

外部リンク