高麗丸

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高麗丸

「満州丸」時代
概歴
建造 1913年1月
沈没 1944年9月
要目
船種 客船
総トン数 3,054t
全長 97.5m
全幅 13.1m
機関
出力 4,496hp
航続距離
速力 13.0kt
乗客定員 603名
貨物積載量
姉妹船 新羅丸

高麗丸(こままる、Koma maru)は、鉄道省関釜航路稚泊航路鉄道連絡船。高麗丸型の第1船である。姉妹船には新羅丸がある。後に民間に売却され、満州丸として北鮮航路へ就航している。

船名は朝鮮半島にあった国家、高麗に由来する。

建造

関釜連絡船には、開設以来、壱岐丸対馬丸が就航していたが、1912年新橋 - 下関の1・2等特別急行列車、及び釜山 - 奉天の直通列車が運行開始すると、新橋から関釜航路経由で奉天へ向かうルートが完成し、利用者増加に伴う関釜航路の大型船が必要となった。

2隻の新造船(高麗型)は1912年川崎造船所で建造が開始され、第1船の高麗丸が1913年1月、第2船の新羅丸は1913年3月に就航する。

機関が故障しても帆走できるようにマストが設置されていた。内装では壱岐丸と対馬丸で不評であった多段ベッドを廃止し、客室を畳敷きの広間にするなど、改良が行われている。

運用

連絡船

高麗丸は1913年から関釜航路で運行される。1920年7~9月には不通となった京釜線の代替として、釜山 - 麗水 - 木浦の航路で物資を輸送している他、1923年9月1日、関東大震災により東海道本線東京 - 三島間が不通となったさい、同年9月7日から10月28日まで一般客、被災者、救援物資の海上輸送に従事している。

1931年6月には稚泊航路に転属となる。砕氷船の機能を有していないため、夏季限定運用であった。1932年10月にその運用を終える。

北鮮航路

高麗丸は1933年北日本汽船へ売却される。改造後、満州丸に改称し、北鮮航路(敦賀 - 清津羅津雄基)に就航する。1938年から北鮮航路の日本側の基点が新潟港になる。

徴用

太平洋戦争では日本海軍に徴用され、輸送船となる。1944年9月9日午前3時19分、フィリピンサブタン島の西約130km付近北緯19度45分 東経120度56分 / 北緯19.750度 東経120.933度 / 19.750; 120.933でアメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュ魚雷攻撃により同日午前3時22分に沈没した[1]。乗船していた歩兵第42連隊の補充兵1492名を含む兵員1600名中869名が死亡した。

船長

  • 蘆田弥寿治 鉄道院技師:1913年1月14日[2] - 1913年5月31日[3]
  • 服部柴太郎 鉄道院技師:1913年5月31日[3] -

脚注

  1. ^ Cressman, Robert J. The Official Chronology of the US Navy in World War II, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999, p. 536.
  2. ^ 『官報』第136号、大正2年月15日。
  3. ^ a b 『官報』第254号、大正2年6月5日。

外部リンク