葛飾応為

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葛飾応為『月下砧打美人図』

葛飾 応為[1](かつしか おうい、生没年未詳)は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎の三女。応為は(画号)で、名は(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記された。

概要

北斎には二人の息子と、三人の娘(一説に四人)がいた。三女だった応為は、堤等琳門人・南沢等明に嫁したが、父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の拙い所を指して笑ったため、離縁されてしまう[2]。出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、作画を続け、北斎の制作助手も務めたとされている[2]。応為は不美人でが出ていたため、北斎は「アゴ」と娘を呼んでいたという[2]。なお、北斎の門人・露木為一による『北斎仮宅写生図』に、北斎と応為の肖像が描かれている(「北斎仮宅之図」 紙本墨画 国立国会図書館所蔵)。

初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『狂歌国尽』の挿絵と見られる[2]。同じく北斎の娘と言われる画人・葛飾辰女は、手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力である[3]

特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれる[2]。また、春画枕絵の作者としても活動し、葛飾北斎作の春画においても、彩色を担当したとされる。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている[2]。同時代人で北斎に私淑していた渓斎英泉も、自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833年)刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師となす、名手なり」と評している。

晩年は仏門に帰依し、安政2-3年(1855 - 1856年)頃、加賀前田家扶持されて金沢にて没したともされる。また、北斎没後8年目に当たる安政4年(1857年)に家を出て以来消息不明になったとも伝えられ、家出した際の年齢は67であったという[2]。一方で虚心は、『浮世絵師便覧』で慶応年間まで生きている可能性を示唆しており、これらを整合させると、生まれた年は寛政13年(1801年)年前後で、慶応年間に没したことになる。

人物

応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、やや慎みに欠いたという。男のような気質で任侠風を好み、また衣食の貧しさを苦にすることはなかった。絵の他にも、占いに凝ってみたり、茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたという。

北斎の弟子、露木為一の証言では、応為は北斎に似ていたが、ただ煙草と酒を嗜んだという。ある日北斎の描いていた絵の上に吸っていたキセルから煙草の火種を落としたことがあり、これを大変後悔して一旦禁煙したもの、しばらくしてまた元に戻ってしまったという。

また応為にも弟子がおり、たいてい商家や武家の娘で、いわば家庭教師として訪問して絵を教えていたようである。

露木が「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いていると、応為が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と言い、そばで聞いていた北斎も「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。[2]

「応為」の画号は、北斎が娘を「オーイ、オーイ」と呼んだので、それをそのまま号とした[2]とも、逆に北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と大津絵節から取って呼んだからという説[2]や、或いは北斎の号の一つ「為一」にあやかり、「為一に応ずる」の意を込めて「応為」と号したとする説もある。

作品

葛飾応為『吉原格子先之図』

現存する作品は10点前後と非常に少ない。西洋画法への関心が強く、誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。木版画も研究者に応為の作と認められているのは、弘化4年(1847年)刊行の絵本『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)と嘉永元年(1848年)刊行の『煎茶手引の種』(山本山主人作)所収の図のみである。「北斎作」とされる作品の中にも、実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられる。特に北斎八十歳以降の落款をもつ肉筆画は、八十を過ぎた老人にしては彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、こうした作品を応為の代筆とする意見もある[4]

カナダの作家 Katherine Govierによる応為を主人公にした小説「The Ghost Brush」はこの説を踏襲する形で書かれている。また、北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」を、応為の筆とする説もある[5]

作品一覧

作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款・印章 備考
月下砧打美人図げっか きぬたうち びじんず 紙本[6]著色[7] 1幅 東京国立博物館 款記「應為栄女筆」/「應」白文方印 満月に照らされ女性がを打つ場面。月夜に砧を打つ図は白居易の詩「聞夜砧」に由来し、夫を思いながら砧を打つ妻の情愛を象徴的に表す。なお、本図の落款部分は後人が一度削り取ろうとして途中でやめた痕跡があり、新たに北斎の落款を入れて売ろうと企図していたと想像される。
吉原格子先図(よしわら こうしさきのず 紙本著色 1幅 浮世絵 太田記念美術館 無款(画中3つの提灯に「應」「為」「榮」)
春夜美人図(しゅんや びじんず 絹本[8]著色 1幅 メナード美術館 無款 無款だが、北斎派風の女性描写や、明暗の付け方、灯籠などの細部の描写が他の応為作品と共通することから、応為筆だとほぼ認められている作品。元禄時代に活躍した女流歌人・秋色女を描いた作品だと考えられる[9]
百合図(ゆり ず 絹本著色 1面(貼交屏風一隻のうち) 個人(北斎館寄託 款記「應ゐ栄女筆」/「應」白文方印
竹林の富士図(ちくりん のふじ ず 絹本著色 1幅 個人 款記「應為栄女筆」/「富士山」形印 元々知られていた伝北斎・伝応為の「竹林の富士図」双幅[10]とは別作品。図柄は殆ど同じで落款がなければ区別できないが、本図の款記の文字はしっかりしているのに対し、双幅の方は書体が雑で、富士山形の印も似せているが別印である。
三曲合奏図さんきょくがっそう ず英語題名 "Pictorial evidence for sankyoku gassou") 絹本著色 1幅 ボストン美術館米国 款記「應ゐ酔女筆」/「應ゐ」白文方印 中央の遊女が、右側の芸者が三味線、左側の町娘が胡弓をひく。「三曲」とは、「琴・三味線・胡弓(または尺八)のこと、またその合奏」の意味だが、浮世絵ではもっぱら尺八ではなく胡弓で描かれ、複数の絵師が同画題を手がけている。身分が異なる女性が一度に合奏するという現実ではなかったであろう場面だが、これは中国の伝統的な画題である「三酸図[11]」にならったとも考えられる。見事な彩色もさることながら、横長の絹本に、3人の女性に楽器を持たせ、破錠無く画面全体を作り上げており、応為の高い画力を見て取ることが出来る。なお、イタリアキヨッソーネ東洋美術館にも伝応為の同名作品(英語題名 "Trio of women playing the shaminen,kokyu andkoto")が所蔵されているが、全体に雑で、女性の帯や衣などが異なり、琴の弦の数が1、2本多い(ボストン本は13弦)ことから、本図の模倣品とする説がある[12]
関羽割臂図かんう かっぴ ず、英語題名 "Operating on Guan Yu's Arm") 絹本著色 1幅 クリーブランド美術館(米国) 款記「應為栄女筆」/「葛しか」白文方印 現在知られる応為落款の作品中、最も大きい作品。右腕に毒矢を受けた関羽を、名医・華陀が小刀で骨に付いた毒を削り取って治療する場面。応為の落款がなければ女性が描いたとは思えないほど力強く、男たちの表情や滴り落ちる血の描写は生々しさに満ちている。元々は松代藩にあった作品とされるが、昭和初期には東京にもたらされていたようだ。その後、金子孚水ら複数人の手を経て麻生美術工芸館の所蔵となるが、同館は閉館し平成10年(1998年)10月ニューヨークオークションにかけられる。この時の予想落札価格は4~6万ドルだったが、実際には16万7500ドルで落札された。その後一時所在不明だったが、現在はクリーブランド美術館に収まっている。

応為が登場するフィクション

脚注・出典

  1. ^ 」は正確には正字である「葛#中国語)」が用いられたが、表記システム上の都合により、以降の記述では省略する。同じく「応」は正字「應」が用いられたが、基本的に省略する。
  2. ^ a b c d e f g h i j 飯島虚心 『葛飾北斎伝』 第2巻。
  3. ^ 久保田(1995)など。美術史家小林忠もこれを支持している(『江戸の浮世絵』 藝華書院、2009年、p.362、ISBN 978-4-9904055-1-9)。
  4. ^ 久保田(1995)。これらは中国画題に多い。
  5. ^ この本は序一丁・付文二丁を付した大錦横版12図1帖の組物。このうち、炬燵の中で戯れる男女図に描かれた書物の表紙に、『陰陽和合玉門榮(改行)紫色雁高作・女性陰水書』とある。「紫色雁高」はかつて北斎が名乗った隠号で、この本の作者である渓斎英泉が譲り受けた号。「女性陰水書」の書は画の誤記あるいは誤刻だと考えられ、画工が女性であることを意味し、「陰陽和合」は作者の男性と画者の女性の合著であり、「玉門榮」はお栄こと応為を指すと解釈できる(林美一 「春画を描いた女浮世絵師 葛飾應為と「陰陽和合玉門榮」」『プリンツ21』1993年10月号)。
  6. ^ 日本画用語] しほん。書画を描くための地の素材としてを使っているものを言う。
  7. ^ [日本画用語] ちゃくしょく。「着色」と同義。現代風に「着色」と記されることも多いが、本来、「着」と「」は新字体正字体の関係。
  8. ^ [日本画用語] けんぽん。書画を描くための地の素材としてを使っているもの。そのうちの、生糸(きいと)で平織りされている通常のものを言う。上質で光沢のあるものは「本(こうほん)」。
  9. ^ 秋田達也 「応為筆「春夜美人図」をめぐって」『フィロカリア』21号、大阪大学大学院文学研究科芸術学・芸術史講座、2004年3月、pp.69-89。
  10. ^ 金子孚水監修 『肉筆 葛飾北斎』 毎日新聞社、1975年11月。
  11. ^ 同じ瓶に入った酢を舐め、孔子は酸っぱし、老子は甘し、釈迦は苦しと言った場面を描いた画題。儒教道教仏教の言説は異なるが、帰するところは一つという寓意
  12. ^ 久保田(2015)p.26。

参考文献

史料
研究書
  • 久保田一洋編著『北斎娘・応為栄女集』藝華書院、2015年4月24日。ISBN 978-4-904706-11-4 
論文
概説書・事典
展覧会図録・画集
  • 江戸文化シリーズ11回 江戸の閨秀画家』 板橋区立美術館、1991年
  • 高井蘭山編 葛飾応為画 「絵入日用女重宝記」(『江戸時代女性文庫 58』 大空社、1996年)
  • 林美一 『江戸艶本集成 第10巻 溪斎英泉・葛飾応為(お栄)』 河出書房新社、2012年3月29日
  • 太田記念美術館編 『葛飾応為鑑賞ガイドブック』 太田記念美術館、2015年5月

関連項目

外部リンク