緒方四十郎

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おがた しじゅうろう
緒方 四十郎
生誕 1927年11月16日
日本の旗 東京府
死没 (2014-04-14) 2014年4月14日(86歳没)
日本の旗 東京都港区
墓地 青山霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学法学部卒業
フレッチャー法律外交大学院修了
配偶者 緒方貞子(妻)
子供 緒方篤(子)
緒方竹虎(父)
親戚 犬養毅(義曾祖父)
芳澤謙吉(義祖父)
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緒方 四十郎(おがた しじゅうろう、1927年昭和2年)11月16日 - 2014年平成26年)4月14日)は、日本銀行家

日本銀行理事日本開発銀行副総裁などを歴任した。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1927年東京府にて緒方竹虎の三男として生まれた[1][2][3]

東京女子高等師範学校付属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園[4]成蹊小学校旧制・成蹊高等学校(文科乙類)を経て[5]1950年東京大学法学部を卒業した[6]。同年、日本銀行に入行した[6]

銀行家として[編集]

2013年12月14日フィリピン大統領ベニグノ・アキノ3世(中央)、妻の緒方貞子(左)と

日本銀行においては、アメリカ合衆国研修にて1954年フレッチャー法律外交大学院修士課程を修了し、ロンドン駐在などを経て、1971年に岡山支店の支店長に就任した。同年8月のニクソン・ショックの際には、外国局の総務課にて課長を務めており、混乱する市場への対処にあたった[1]。その後、外国局の次長を経て、1975年にはニューヨーク駐在参事となった。

1979年、日本銀行の外国局にて局長に就任した。1981年、日本銀行の理事に就任し、国際関係を統括した。1985年9月にアメリカ合衆国で開催された先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議においては、日本銀行総裁澄田智に随行した[1]。なお、このときの先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議において、プラザ合意が発表された[1]

日本銀行退職後は[1]1986年より日本開発銀行の副総裁を務めた[6]。その後、1991年に副総裁を退任した[6]

1991年より山一證券富士ゼロックスなどの取締役を歴任した。また、国際連合の財政諮問委員会にて共同議長も務めた。

2014年4月14日午後0時55分、心不全のため東京都港区の病院で死去した[1][2][3]。86歳没。

家族・親族[編集]

2013年12月14日フィリピン大統領ベニグノ・アキノ3世(左)からシカツナ勲章を授与される妻の緒方貞子(中央)とともに

である緒方竹虎は、政治家として要職を歴任し、第4次吉田内閣第5次吉田内閣ではいわゆる副総理を務めた。妻である緒方貞子政治学者であり、国際連合難民高等弁務官国際協力事業団理事長などを務めた。子の緒方篤映画監督となった[7]。そのほか、縁戚関係のある著名人は多数いるが、ここでは親族に該当する者のみを記載した。

略歴[編集]

著書[編集]

単著[編集]

共著[編集]

翻訳[編集]

執筆等[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 「緒方四十郎氏死去=プラザ合意時の日銀理事」『時事ドットコム:緒方四十郎氏死去=プラザ合意時の日銀理事時事通信社2014年4月16日
  2. ^ a b 「元日銀理事の緒方四十郎さん死去――緒方竹虎氏の三男」『元日銀理事の緒方四十郎さん死去 緒方竹虎氏の三男:朝日新聞デジタル朝日新聞社2014年4月17日
  3. ^ a b 「緒方四十郎氏――元日本開発銀行<現日本政策投資銀行>副総裁、緒方貞子元国連難民高等弁務官の夫」『東京新聞:緒方 四十郎氏 元日本開発銀行<現日本政策投資銀行>副総裁、緒方貞子元国連難民高等弁務官の夫:おくやみ(TOKYO Web)中日新聞社2014年4月17日
  4. ^ 歴史に学ぶ 講師:緒方四十郎 大阪大学グローバルリーダーシップ・プログラム(GLP)事務局/交渉教育支援センター
  5. ^ 緒方 四十郎氏 逝去 一般社団法人成蹊会
  6. ^ a b c d 「著作一覧」『緒方 四十郎 ― おがた しじゅうろう |日本経済新聞出版社日本経済新聞社
  7. ^ 石合力「緒方篤――コメディーは国境を超せるか。世界に発信目指すトリックスター」『朝日新聞グローブ (GLOBE)|Breakthrough -- 突破する力 緒方篤朝日新聞社2010年5月24日

関連項目[編集]