石田捨雄
石田 捨雄 | |
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生誕 |
1916年4月 日本 愛知県 |
死没 |
2002年7月20日 日本 神奈川県 |
所属組織 |
大日本帝国海軍 海上保安庁 海上警備隊 警備隊 海上自衛隊 |
軍歴 |
1937 - 1945(日本海軍) 1952 - 1973(海自) |
最終階級 |
海軍少佐(日本海軍) 海上幕僚長たる海将(海自) |
石田 捨雄(いしだ すてお、1916年(大正5年)4月 - 2002年(平成14年)7月20日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官である。海軍兵学校卒業(64期)。第9代海上幕僚長。妻は有馬正文中将の長女百合子である。
人物
海軍時代に特筆される戦功はキスカ島撤退作戦がある。この作戦において軽巡洋艦「阿武隈」の水雷長として乗り組み(同じ「阿武隈」には第12代海上幕僚長となる大賀良平少尉(当時)も乗り組んでいた)キスカ島守備隊5,600名の救出に成功した。
海上幕僚長時代には、防衛研究所に入校中の学生が発表した論文が問題となる一幕があった。これは当時、バイカル・アムール鉄道(第2シベリア鉄道)の建設に日本政府が援助をするかどうかの問題について、防衛上の見地から資材等の援助には慎重であるべき、との内容であった。これを当時の防衛庁長官は問題視し石田海幕長を呼び出して当該人物を処分せよと迫ったが、これは学生の研究成果であるとして拒否。なおも長官から処分を求められるも断固として拒否の姿勢を示し続け、政治家による人事への不当な介入と防衛上の研究に対する政治の過度の干渉または妨害から文民統制のあるべき姿を守ろうとした。
略歴
- 海軍兵学校教官兼監事
- 1944年(昭和19年):海軍対潜学校教官兼研究員
- 1945年(昭和20年):海軍少佐で終戦を迎える
- 1952年(昭和27年)1月:海上保安庁入庁(第4管区海上保安本部)
- 5月:海上警備隊転官(三等警備正)
- 1953年(昭和28年)8月:二等警備正
- 1954年(昭和29年)4月:警備艦くす艦長
- 1958年(昭和33年)2月:1等海佐
- 1959年(昭和34年)2月:在アメリカ合衆国防衛駐在官
- 1963年(昭和38年)2月:海上幕僚監部防衛部防衛課長
- 1965年(昭和40年)1月:海将補
- 3月:第10代第1掃海隊群司令に就任
- 1965年(昭和41年)5月:海上幕僚監部総務部長
- 1968年(昭和43年)7月:海将、第10代大湊地方総監に就任
- 1969年(昭和44年)7月:第9代海上幕僚副長に就任
- 1972年(昭和47年)3月:第9代海上幕僚長に就任
- 1973年(昭和48年)12月:退官。
- 1986年(昭和61年)4月:勲二等瑞宝章受章
- 2002年(平成14年)7月:神奈川県鎌倉市内の病院で死去(享年86)、叙・正四位
栄典
参考文献
- 『世界の艦船』2002年5月増刊号 海上自衛隊の50年(海人社)