由利島
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由利島 | |
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由利島の空中写真。 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1974年撮影) | |
所在地 | 日本(愛媛県) |
所在海域 | 瀬戸内海 |
座標 | 北緯33度51分8秒 東経132度31分27秒 / 北緯33.85222度 東経132.52417度座標: 北緯33度51分8秒 東経132度31分27秒 / 北緯33.85222度 東経132.52417度 |
面積 | 0.45 km² |
最高標高 | 194 m |
プロジェクト 地形 |
由利島(ゆりじま)は、伊予灘に位置し、愛媛県松山市に属する島。松山港の沖合の無人島である。面積0.45平方キロメートルの小島である。
大小二つの島が砂州でつながった形をしており、それぞれ大由利、小由利と呼ばれている。大由利は安山岩でできており、標高194メートル。
歴史
弥生時代の土器が出土しており、この頃から人が住んでいたものと思われる。この頃、既に周防国や安芸国、九州との中継地となっていたと見られている。
かつては由利千軒と呼ばれるくらいたくさんの人家があったといわれているが、弘安年間(13世紀)に地震(津波とする説もあり)により水没したといわれ、海中にそれをうかがわせる石積みも見えるという。
付近の海域は古くから鰯などの好漁場として知られ、高浜港と二神島との漁民の間で漁場をめぐる争いが絶えなかった。また、近世には紀州の塩津村から漁期のみ人が住み着き、今日でいう入漁料を払って漁労を行っていた。後年、忽那諸島の二神島や長師(中島)だけでなく、安芸の瀬戸村や岩城島(越智諸島)などからも出漁し、争いが絶えず、寛文9年(1669年)にとりかわされた取り決め文書が残っている。干鰯として加工していた。
次第に二神島から漁民が移り住むようになり、特に昭和初期には好漁が続き、夏の漁期には数百人が暮らしていたという。太平洋戦争時には日本海軍により、大由利に監視台が置かれていた。
やがて不漁となったため、人口も減り、1960年(昭和35年)には人口6人との記録がある。1965年(昭和40年)にはこの6人も島を離れ、無人島となった。砂州にはかつて集落、漁港があり、魚干し場や井戸の跡が残っている。
その他
- かつて、連絡用に赤電話が引かれ、出作の人や漁民などの連絡用として用いられていた。家屋型の電話ボックスもあり、椎名誠は以前この島を訪ねた際に赤電話を使用したことなどをエッセイで紹介している[1]。無人島時代にも年2000円ほどの公衆電話使用料があったという[1]。利用が少ないため撤去する動きがあり、二神島の住民が費用をもつことで存続されたものの、結局、海底ケーブルの切断により1993年(平成5年)には不通となり、ついに電話機も撤去された。
脚注
関連項目
- 伊号第三三潜水艦 - 由利島近海で事故により沈没。