水久保澄子

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みずくぼ すみこ
水久保 澄子
水久保 澄子
本名 荻野 辰子 (おぎの たつこ)
生年月日 (1916-10-10) 1916年10月10日(107歳)
出生地 日本の旗 日本東京府荏原郡目黒村(現在の東京都目黒区
職業 女優
ジャンル 歌劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1932年 - 1935年
活動内容 1932年 松竹蒲田撮影所
1934年 日活多摩川撮影所
1935年 解雇
配偶者 あり
主な作品
嵐の中の処女
チョコレート・ガール
君と別れて
若夫婦試験別居
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水久保 澄子(みずくぼ すみこ、1916年10月10日 - 生死不明)は、日本の女優である。松竹蒲田撮影所日活多摩川撮影所に所属した。本名は荻野 辰子(おぎの たつこ)。愛称はミミ。

人物・来歴

1916年(大正5年)10月10日東京府荏原郡目黒村(現在の東京都目黒区上目黒日向に生まれる[1]洗足高等女学校を家庭の事情で中退後の1930年7月、東京松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団(第6期生)[1]。同期に同じく女優となった逢初夢子大塚君代渋谷正代がいる。1932年1月、大塚君代や渋谷正代ら七人と優秀新人グループとして結成されたジェルモン・シスターズに加えられ、レヴューに活躍するが、同年4月、映画界入りを希望し松竹蒲田撮影所に採用される[1]。なお、逢初は二カ月早くに同所へ入社していた。

1932年当時の水久保澄子

それから間もなく成瀬巳喜男の「蝕める春」(1932年)に出演し三女役を演じ、次女を演じた逢初と共に評価を高めた。次いで出演した島津保次郎の「嵐の中の処女」(1932年)でアイドル的な人気を獲得[1]。以後も立て続けに「チョコレート・ガール」(成瀬・1932年)、「君と別れて」(成瀬・1933年)などに主演した。また「非常線の女」(小津安二郎・1933年)ではレコード店の店員・和子役を演じて、主演の田中絹代にひけを取らない存在感を示した。

1934年3月に松竹蒲田から松竹下加茂撮影所に移り[1]林長二郎主演の時代劇『月形半平太』に出演するが[1]、突然自殺未遂事件を起こし[注 1]1934年6月にはダンサーをしていた水久保の姉の田川清子と一緒に日活多摩川に電撃移籍してしまう[1][注 2]。この事件は当時マスコミの格好の餌食となり、興味交じりのゴシップとして大々的に報道された。

スキャンダルにめげず「若夫婦試験別居」(阿部豊・1934年)に主演、さらに滝口新太郎との共演「巌頭の処女」などハイペースで映画に出続けるが、1935年9月、「緑の地平線」(阿部豊・1935年)撮影中にフィリピンから留学してきた慈恵医大の医学生を名乗るバレンティン・エディ・タンフツコと電撃結婚、作品を途中降板し渡航してしまう[2]。怒った日活は水久保を解雇後(姉も同時に退社)、代役に星玲子を立てる。水久保とは松竹蒲田時代から知り合いだったこの男は、南洋の王子様で大邸宅に住んでいるようなことを言っていたが、その実フィリピンの実家は単なる掘っ建て小屋、水久保はこの婚家で日本人というより、当時差別のひどかった中国人女中とみなされこき使われた。騙されたことに気づいた水久保は一年ともたずに逃げ出したが、その際、一児を残してきたと伝えられている[3]

帰国を果たした水久保だったが、度重なるトラブルを引き起こした彼女を起用しようという映画人はもはやおらず、業界から完全に追放される。その後は各地のダンスホール踊り子をやったり、吉本興業のショーに参加するなどしていた。1941年神戸でダンサーとして舞台に出ていたのを最後に消息不明となる。

なお、映画評論家筈見恒夫は、戦時中満州で彼女を見かけたという。かつての初々しい少女が妖艶に変身していたと語った。

その筈見の語った通り、2008年に出版された「堀田善衛上海日記」(紅野謙介編)に李香蘭に言及した内容が記されており、その中に水久保のことも語られている。

1945年10月24日、この日記の筆者堀田善衛が、会田という知人が収容されている住宅を尋ね、夕食を一緒に食べ少し飲んだ時の話である。

以下引用

その時の話に、緑苑荘の川喜多さんのところにいる李香蘭について、「李香蘭」は捕まった、山口淑子は捕まらぬのだ、という話あり。なるほどという訳で大いに笑った。又水久保澄子が大陸新邨(たいりくしんそん・現在は魯迅故居(ルーシュン・グージュー)とも呼ばれている)にいることや、高見順の先の女房の石川アイ子という人も上海にいるという話だった。一昔ならしたのが、いろいろとひっそりと上海にいるらしいと会田氏は何度も云った。

戦後帰国したが、フィリピンに残した子供が母親探しに来日した際には、名乗り出なかったと伝えられている。 なお、1968年9月29日号の週刊アサヒ芸能の『芸能人、あの人は今や!』という記事によると、東京・目黒在住で「ひっそりと暮らしているそう」というコメント入りで消息が掲載されていた。

絶頂期の当時としては非常に都会的、現代的な顔つきで、和製のシルヴィア・シドニーとも呼ばれ、アイドル女優の走りともいうべき存在であった。マキノ正博片岡千恵蔵が彼女のファンだったという。

出演作品

非常線の女(1933年)
映画の友』1933年9月号

脚注

注釈

  1. ^ 緑の地平線の撮影中の、1935年8月29日に自殺未遂事件を起こした説もある
  2. ^ この移籍には家庭内の事情が多分にあり、両親が好条件を出してきた日活と本人達にすら内緒で契約してしまった、という説もある

出典

  1. ^ a b c d e f g 『大日活』1935年8月号、80頁
  2. ^ 翌1936年8月に日本で結婚式をあげた後、1937年3月にフィリピンに渡航したという説もある
  3. ^ 1937年9月中旬にフィリピン人の夫と一児と一緒に日本に帰国したが、同年11月6日に離婚が成立し一児を元夫に引き渡したという説もある

参考文献

外部リンク