歌川芳艶

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「本朝武者鏡 龍王丸]」 ボストン美術館蔵 大判 安政3年(1856年)10月

歌川 芳艶(うたがわ よしつや、文政5年閏1月1日1822年2月22日) - 慶応2年6月22日1866年8月2日))は、江戸時代末期の浮世絵師歌川国芳の門人。月岡芳年落合芳幾など並み居る国芳門弟たちの中に隠れ、名前は殆ど知られていないが、国芳の武者絵の才能を最もよく受け継いだ絵師である。

来歴

本朝武者鏡 二位の尼 ボストン美術館他蔵 大判 安政3年(1856年)10月

姓は甲胡または三輪、名は万吉。歌川を称す。一栄斎、後に一英斎と号す。「歌川芳艶」という歌川姓を冠した落款は今のところ見当たらないため、一英斎芳艶と呼ぶべきだという意見もある。

日本橋本町2丁目の駕籠屋「十ノ字」の子として生まれた。15歳で国芳に入門。17歳の時、髪結床の暖簾に九紋竜魯智深の雪中奮闘の図を描き、その力強い筆法と彩色の艶麗さが評判となり、それを見た国芳は彼に「芳艶」の号を与えたという。天保年間末頃にデビュー(現在確認されている最初作は美図垣笑顔作『花紅葉錦伊達傘』の挿絵)、見世物絵も描いているが、若くして武者絵で才能を発揮し人気を博す。同門の歌川国輝とは良きライバルで、刺青の下絵でと競い、芳艶なら児雷也、国輝なら「狐忠信」と並び評された

ところが30歳を過ぎた頃、賭博を好み色街に入り浸ったため、一時期、弟子仲間から不評を買い国芳から破門され、2,3年の間浮世絵制作からも遠ざかってしまう。しかし、親友で博打仲間だった歌川芳鶴の牢死がきっかけにしてか、安政3年(1856年)頃から再び画業に戻り、師匠の国芳に負けないほどの迫力ある武者絵を次々と世に送り出す。

万延元年(1860年)以降は役者絵や時事風俗画風景画、「蛮国人物図会」などの横浜絵といった武者絵以外のジャンルも手がけた。しかし、これらは武者絵に比べると寡作で、芳艶の個性を感じる作品も少ない。文久3年(1863年)には、将軍家茂上洛源頼朝の上洛になぞらえた合作「御上洛東海道」にも参加、全162点の内16点を担当している。一方、のれんや看板絵などの大きな作品も得意とし、特に江戸浅草奥山の生き人形の看板絵は良く知られている。

亡くなるまで絵筆を取り続けたが、45歳の若さで死去。墓所は東京都台東区谷中の妙円寺。法名は一英斎芳艶居士。過去帳のみ残り墓は不明。現在確認されている版画作品は452点、肉筆画、下絵、版下絵が9点、版本4点。浮世絵画集や展覧会図録などで芳艶の作品が紹介されることは殆ど無く、まだ多くの未確認作品があるとみられる。

門人には2代目 歌川芳艶、歌川一豊、歌川艶長、歌川艶豊、歌川艶政がいる。

作品

  • 「蝦蟇妖術大蛇怪異 児雷也豪傑譚」大判3枚続 石川県立美術館所蔵 弘化3年-嘉永元年(1846年-1848年
  • 川中島大合戦組討尽」大判錦絵 12枚揃 諸家分蔵 安政4年(1857年)
  • 「山うば」 大判錦絵 石川県立美術館所蔵 安政5年(1858年)
  • 「主馬佑坂田金時・靭負尉碓井貞光」大判錦絵 石川県立美術館所蔵 文久元年(1861年)
  • 「花川戸助六之図」 大判3枚続 江戸東京博物館他所蔵 文久2年(1862年) 江戸東京博物館:収蔵品検索に画像あり
  • 「蛮国人物図会 英吉利人」 大判錦絵

ギャラリー

関連項目

参考図書

外部リンク