橘智恵子
橘 智恵子(たちばな ちえこ[1][2][3]、1889年(明治22年)6月15日[1][2][3] - 1922年(大正11年)11月1日[1][2][3])は、日本の明治期から大正期にかけての女性。
北海道函館市の弥生尋常小学校の元教員で、歌人・石川啄木の同僚であった[1][2][3]。啄木の数多くの短歌のモデルになったとされる[1][2][3]。
来歴
北海道札幌郡札幌村14番地(現・札幌市東区北11条東12丁目)で[1][2][3][4]、農園主・橘仁[1][2][4][5](富山県射水郡長慶寺村(現・高岡市)出身[4][5])とその妻イツ[4][5](三河国刈谷藩家老・矢野貞胤の三女[4])の長女として生まれる[1][2][3][4]。六男一女の第三子[6](家族の詳しい来歴については「家族・親族」欄参照)。
智恵子は北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、同校補習科で初等教員の資格を得て、1906年(明治39年)に函館区立弥生尋常小学校の訓導(教諭)となる[1][2][3]。石川一(啄木)とは、啄木が同校で代用教員を務めた1907年(明治40年)6月から9月までの数ヶ月の間、同僚の関係であった[1][2][3][7]。智恵子も数年で教職を辞して帰郷し、後に空知郡北村(現・岩見沢市)の農場主・北村謹と結婚した[1][2][3]。北村との間に二男四女があった[8]。1922年(大正11年)11月1日、産褥熱のため33歳の若さで死去[1][2][3]。啄木の死から10年後のことだった。
北村農場は智恵子の没後も営農を続けたが、2017年に遊水池事業の用地となることを理由に廃業となった[9]。
石川啄木と橘智恵子
石川啄木が1907年(明治40年)6月に弥生尋常小学校に赴任した時、同校には8人の女性教師がいたが、啄木は彼女たちの教員生活を具に観察し[3][10]、智恵子については「真直に立てる鹿ノ子百合なるべし」とその印象を自身の日記に記している[3][11]。また、啄木が函館から札幌に移転を決意し、同年9月11日に校長に退職願いを出した際、その場に智恵子がおり、啄木は智恵子から札幌の話を聞いたという[3][12]。さらに翌9月12日(函館を去る前日)、啄木は智恵子の下宿を訪ね、2時間余り親しく語り合った後、自身の詩集『あこがれ』を智恵子に贈った[3][13]。なお、啄木は後に、智恵子が札幌村の実家に戻っていることを伝え聞き、智恵子の実家を訪ねたことがあるが、その時本人は不在で、智恵子の長兄である橘儀一が応対した[14][15][注 1](この訪問の正確な時期(啄木の札幌在住時であるか小樽在住時であるか)は不明[14])。結局その後2人は直接会うことは無かったが、時折手紙や葉書をやりとりすることはあった[3][16]。
啄木の歌集『一握の砂』の「忘れがたき人人・二」の22首は全て智恵子を詠んだものである[2][3][17]。啄木は『一握の砂』を結婚間もない智恵子に献呈し、「そのうちの或るところに収めし二十幾首、君もそれとは心付給ひつらむ、塵埃の中にさすらふ者のはかなき心なぐさみをあはれとおぼし下され度し、」と書き添えた[3][17]。智恵子は『一握の砂』の礼状と[18]、嫁ぎ先の農場で生産されたバター(当時は貴重品でもあった)を送って来た[3][19][20]。また同じ頃、啄木は友人宛ての手紙の中で「今度初めて苗字の変った(年)賀状を貰った、異様な気持であった、『お嫁には来ましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから・・・』と書いてあった、」と記している[3][20]。
智恵子はその生涯において、啄木について人前で語ることはほとんどなかったが、死去の約半年前(1922年(大正11年)5月)に、北海道の歌人・遠藤勝一が智恵子に啄木の記憶について尋ねた時、次のように返答している[21][22]。
嫁ぎ先だった北村には、1999年に啄木の歌碑が建立されている[23]。
橘智恵子を詠んだとされる歌
『一握の砂』「忘れがたき人人・二」より
- いつなりけむ 夢にふと聴きてうれしかりし その声もあはれ長く聴かざり
- 頬の寒き 流離の旅の人として 路問ふほどのこと言ひしのみ
- さりげなく言ひし言葉は さりげなく君も聴きつらむ それだけのこと
- ひややかに清き大理石に 春の日の静かに照るは かかる思ひならむ
- 世の中の明るさのみを吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり
- かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど
- 真白なるラムプの笠の 瑕のごと 流離の記憶消しがたきかな
- 函館のかの焼跡を去りし夜の こころ残りを 今も残しつ
- 人がいふ 鬢のほつれのめでたさを 物書く時の君に見たりし
- 馬鈴薯の花咲く頃と なれりけり 君もこの花を好きたまふらむ
- 山の子の 山を思ふがごとくにも かなしき時は君を思へり
- 忘れをれば ひょっとした事が思ひ出の種にまたなる 忘れかねつも
- 病むと聞き 癒えしと聞きて 四百里のこなたに我はうつつなかりし
- 君に似し姿を街に見る時の こころ躍りを あはれと思へ
- かの声を最一度聴かば すっきりと 胸や霽れむと今朝も思へる
- いそがしき生活のなかの 時折のこの物おもひ 誰のためぞも
- しみじみと 物うち語る友もあれ 君のことなど語り出でなむ
- 死ぬまでに一度会はむと 言ひやらば 君もかすかにうなづくらむか
- 時として 君を思へば 安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
- わかれ来て年を重ねて 年ごとに恋しくなれる 君にしあるかな
- 石狩の都の外の 君が家 林檎の花の散りてやあらむ
- 長き文 三年のうちに三度来ぬ 我の書きしは四度にかあらむ
家族・親族
父・仁は1849年(嘉永二年)生まれ[5]。初名は甚兵衛[5]。上京後、津田仙の学農社に入社し、農業技術を学んだ他、精神的な訓育も受ける[4][5][24]。クリスチャンであった津田夫妻の感化を受け、甚兵衛も1876年(明治9年)に受洗し、名を「仁」と改める[5](娘の智恵子もクリスチャンであった[25])。1884年(明治17年)、北海道に渡り、1886年(明治19年)頃から札幌郡札幌村(旧元村)で、林檎栽培に従事した[4][5]。果樹園芸に生涯を捧げ、1905年(明治38年)の北海道果樹園芸協会主催の果実品評会で、出品した林檎「柳玉」が最高賞を受けた[4]。1930年(昭和5年)没[5][24]。母・イツは、東京府師範学校(現在の東京学芸大学の前身)の出身で、渡道後もいくつかの小学校や北星女学校などで教鞭を取った[4]。次兄・礼次(1886年生まれ)は栃内家の養子となり[5][26]、東北帝国大学農科大学を卒業し[26]、後に国民更生金庫常務理事などを務めた[5]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l 『写真 作家伝叢書 3 石川啄木』、130-131pp
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『石川啄木 近代文学注釈大系』、296p
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『石川啄木事典』、132-133pp「橘智恵子」の項
- ^ a b c d e f g h i j 「石川啄木必携」、110p
- ^ a b c d e f g h i j k 中井宏「高岡ゆかり・橘仁について - 啄木の想い人・橘智恵子の父」、北日本新聞、2000年11月22日、夕刊3面
- ^ 宮崎、112p
- ^ 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』、438p「石川啄木 年譜」
- ^ 川並、44p
- ^ “空知の北村牧場が111年の歴史に幕下ろす”. 酪農乳業速報. (2017年4月6日) 2022年2月13日閲覧。
- ^ 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』、211p「日記・函館の夏」
- ^ 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』、214p「日記」1907年9月4日付
- ^ 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』、216p「日記」1907年9月11日付
- ^ 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』、216p「日記」1907年9月12日付
- ^ a b c 川並、54p
- ^ 北嶋藤郷 (2017). “北の大地の「鹿ノ子百合」ー啄木と千恵子のケースー”. 敬和学園大学研究紀要 26.
- ^ 『啄木全集 第七巻 書簡』、279p「橘智恵子宛書簡」1909年6月2日付, 317p「同上」1910年12月24日付
- ^ a b 『啄木全集 第七巻 書簡』、317p「橘智恵子宛書簡」1910年12月24日付
- ^ 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』、381p「日記」1911年1月6日付
- ^ 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』、 383p「日記」1911年1月16日付
- ^ a b 『啄木全集 第七巻 書簡』、325p「瀬川深宛書簡」1911年1月9日付
- ^ a b 『石川啄木傳』、540p
- ^ a b 今井、507p
- ^ 北村のあゆみ - 岩見沢市(2014年12月10日)2022年2月13日閲覧。
- ^ a b “林檎の碑”. 2020年12月18日閲覧。
- ^ 石川啄木と橘智恵子 - トラベル「愛の旅人」 - 朝日新聞Travel
- ^ a b kaguragawa. “札幌の橘兄弟のことども”. めぐり逢うことばたち. 2020年12月18日閲覧。
参考文献
- 岩城之徳『石川啄木傳』東宝書房、1955年
- 『日本現代文学全集 39 石川啄木集』講談社、1964年
- 岩城之徳(編著)『写真 作家伝叢書 3 石川啄木』明治書院、1965年
- 『啄木全集 第七巻 書簡』筑摩書房、1968年
- 岩城之徳(校訂・注釈・解説)『石川啄木 近代文学注釈大系』有精堂、1969年
- 今井泰子『石川啄木論 (日本の近代作家 2) 』塙書房、1974年
- 司代隆三『石川啄木事典』明治書院、1976年
- 宮崎郁雨『函館の砂: 啄木の歌と私と』洋々社、1979年 ※原著は1960年
- 川並秀雄『啄木秘話』冬樹社、1979年
- 岩城之徳(編)『別冊國文學 NO.11「石川啄木必携」』学燈社、1981年