東照宮
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東照宮(とうしょうぐう)とは、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。
概要
徳川家康は今際の際に金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を呼び、次のように遺言したとされる。
元和2年4月17日(1616年6月1日)、家康は駿府城で死去。柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府は同年12月(翌1617年1月)に久能山東照社を創建した。これに伴い、朝廷は翌元和3年2月21日(1617年3月28日)、神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位、さらに、神格化された家康本人に対しても同年3月9日(4月14日)正一位を贈位している。幕府は日光にも建設を進め、家康死去から1周忌にあたる同年4月17日(5月21日)に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立した。
しかしその後も各地の徳川・松平一門大名家、また3代将軍徳川家光による諸大名への造営の進言もあって譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた(廃絶されたものを含めると約700社が確認されている[1])。
1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、東照大権現は東照宮と称するようになった。
しかし明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。
これらの東照宮のうち本宮である日光東照宮、久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」とする東照宮は多い。仙波東照宮、鳳来山東照宮、滝山東照宮などが名乗っているようである。
宣命
贈東照大権現
天皇我詔旨良萬止、故柳營大相國源朝臣爾詔倍止、敕命乎聞食止宣、振威風於異邦之域比、施寬仁於率土之閒須、行善敦而德顯留、身旣沒而名存勢利、崇其靈氐、東關乃奧域爾大宮柱廣敷立氐、吉日良辰乎撰定氐、東照乃大權現止上給比治賜布、此狀乎平介久安介久聞食氐、靈驗新爾天皇朝廷乎寳位無動久、常磐堅磐爾夜守日守爾、護幸給比氐、天下昇平爾、海內靜謐爾、護恤賜倍度、恐美恐美毛申賜者久止申 元和三年二月廿一日 — 日光東照宮文書
- 天皇(すめら=後水尾天皇)が詔旨(おほみこと)らまと、故柳営大相国(もとのりうえいだいそうこく)源朝臣に詔(のら)へと、勅命(おほみこと)を聞食(きこしめせ)と宣(のたま)ふ、威風を異邦(とつくに)の域(さかひ)に振(ふる)ひ、寛仁を率土の間に施す、善を行ふこと敦(あつ)くして徳顕(あらは)る、身既に没(みまか)りて名存せり、其の霊(みたま)を崇(たふと)びて東関(あづまのくに)の奥域(おくつき)に大宮柱(おほみやはしら)広敷立(ひろしきた)て、吉日良辰(よきひのよきとき)を択(えら)び定めて、東照の大権現と上(のぼ)せ給ひ治め賜ふ、此の状(さま)を平(たいら)けく安(やすら)けく聞食(きこしめ)して、霊験(みしるし)新たに天皇(すめら)が朝廷(みかど)を宝位(あまつひつぎ)動くこと無く、常磐(ときは)に堅磐(かきは)に夜守日守(よのまもりひのまもり)に、護(まもり)幸(さきは)ひ給ひて、天下昇平(あめがしたむくさか)に、海内静謐(くぬちおだひ)に、護(まもり)恤(めぐみ)賜へと、恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申す 元和三年(1617年)二月二十一日
贈正一位
東照大權現贈正一位敕宣、仰太政大臣御諱、幼少之從昔敵之囲陣仁閒連、其囲於遁禮、若年之從時心武久、長年志而古代之名將爾越而、武威於日本爾輝志、逆亂於治、庶民安閑之思乎成、是彼朝臣我忠功多利、依而在世之忠義尾感志、神靈登仰、東之守護神多羅旡事尾敕命有而、宣旨尾宣給布 元和三年二月廿一日 — 日光東照宮文書
- 東照大権現に正一位(おほいひとつのくらゐ)を贈る勅(おほみこと)宣(のたま)ふ、仰(そも)太政大臣(おほいまつりことのおほいまちきみ)御諱(おんいみな)、幼少(おさな)き昔より敵の陣に囲まれ、その囲(かこみ)を遁(のが)れ、若年(わかきよはひ)の時より心武(たけ)く、長年(ながきとし)にして古代の名将に越えて、武威(たけきいかしきさま)を日本(ひのもと)に輝(かがやか)し、逆乱(あらがひみだるるよ)を治め、庶民(あをひとぐさ)安閑(うらやすし)の思(おもひ)を成す、是(これ)彼の朝臣が忠功(まめなるいさをし)たり、依って在世(うつしよ)の忠義(まめなるつかへ)を感じ、神霊(みたま)と仰ぎ、東の守護神(まもりのかみ)たらむ事を勅命(おほみこと)有りて宣旨を宣給(のりたま)ふ 元和三年(1617年)二月二十一日
宮号宣下
天皇我詔旨度、掛畏岐日光乃東照大權現乃廣前爾恐美恐美毛申賜者久止申左久、元和三年勸請世留良辰爾奉授正一位禮留以降、海內安全爾之氐、年序毛積禮利、殊朕以薄德氐天之日嗣尾承傳給布、又武運毛延長爾之氐、子孫相續之、公武繁榮奈留者、偏是權現之廣御惠美、厚御助奈利、故是有所念行事氐、今改社氐宮止崇奉留、吉日良辰乎撰定氐、正二位行前大納言兼前右近衞大將藤原朝臣經季乎差使氐、古御位記乎改氐、令捧持氐、奉出給布、權現此狀乎平久安久聞食氐、天皇朝廷乎寳祚無動久、常磐堅磐爾、夜守日守爾、護幸賜比氐、一天安穏爾萬國豐稔爾、護恤賜倍度、恐美恐美毛申賜者久止申 正保二年十一月三日 — 日光東照宮文書
- 天皇(すめら=後光明天皇)が詔旨(おほみこと)らまと、掛けまくも畏(かしこ)き日光の東照大権現の広前(ひろまへ)に恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申さく、元和三年勧請(くわんじやう)せる良辰(よきとき)に正一位(おほいひとつのくらゐ)を授げ奉(たてまつ)れるより以降(このかた)、海内安全(くぬちおだひ)にして年序(としつき)も積もれり、殊(こと)に朕薄徳を以(も)て天之日嗣(あまつひつぎ)を承(う)け伝へ給ふ、又武運も延長にして、子孫相続(うみのこのつづき)し、公武繁栄なるは、偏(ひとへ)に是(これ)権現の広き御恵(おんめぐみ)、厚き御助(おんあなない)なり、故是(かれここ)に所念行(おもほす)の事有りて、今、社を改めて宮と崇(たふと)み奉(まつ)る、吉日良辰(よきひのよきとき)を択び定めて、正二位(おほいふたつのくらゐ)行(ぎやう)前大納言(さきのおほいものまうすつかさ)兼(かねて)前右近衛大将(さきのみぎのちかきまもりのつかさのかみ)藤原朝臣経季(=今出川経季)を差し使はして、古き御位記を改めて捧げ持たしめて、出(いだ)し奉(たてまつ)り給ふ、権現此の状(さま)を平(たひらけ)く安(やすらけ)く聞食(きこしめし)て、天皇(すめら)が朝廷(みかど)を宝祚(あまつひつぎ)動き無く、常磐堅磐(ときはかきは)に夜守日守(よのまもりひのまもり)に護幸(まもりさきは)に賜ひて一天安穏(あめのしたおだひ)に万国豊稔(よろづみのりゆたか)に護(まも)り恤(めぐ)み給へと、恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申す 正保二年(1645年)十一月三日
全国の東照宮
- 弘前東照宮 - 青森県弘前市
- 仙台東照宮 - 仙台市青葉区
- 水戸東照宮 - 茨城県水戸市
- 前橋東照宮 - 群馬県前橋市
- 世良田東照宮 - 群馬県大田市。かつては長楽寺境内にあった。
- 徳川東照宮 - 群馬県太田市。世良田宮が建てられたのを機に地元郷士が私邸に建てたもの。
- 忍東照宮 - 埼玉県行田市。家康の長女であった亀姫が家康像を受領し、姫の死後に安置したのに始まるとされる。
- 船橋東照宮 - 千葉県船橋市、日本一小さい東照宮を自認する
- 上野東照宮 - 東京都台東区。池の端参道にある石製の不忍口鳥居は、かつて江戸城内の紅葉山にあった東照宮から明治6年に移築したもの。
- 芝東照宮‐東京都港区。元は増上寺の管轄であったが、神仏分離令により明治6年に独立の神社となる。御神体の家康像は、家康が還暦になった時に作らせた物で都指定有形文化財になっている。
- 元城町東照宮 - 浜松市中区。浜松城内のかつての曳馬城跡に明治になり旧浜松藩幕臣が建てたもの。
- 大樹寺東照宮 - 愛知県岡崎市。松平家菩提寺。東照宮は現存せず不明。
- 松平東照宮 - 愛知県豊田市
- 岡崎東照宮 - 愛知県岡崎市。かつて岡崎城内にあった。現在の龍城神社。
- 岡崎本宿東照宮 - 愛知県岡崎市。法蔵寺境内。
- 名古屋東照宮 - 名古屋市中区
- 飛騨東照宮 - 岐阜県高山市。
- 日吉東照宮 - 滋賀県大津市。「関西の日光」と呼ばれている。
- 越前東照宮 - 福井県福井市、現・佐佳枝廼社
- 金地院東照宮 - 京都市左京区。幕府の公式記録に残る家康の遺言により建てられた3社の内の一社。家康の遺髪を祀る。
- 東本願寺東照宮 - 京都市下京区東本願寺境内にあったが焼失し現存しない。
- 堺東照宮 - 大阪府堺市。南宗寺境内。大戦の戦災により焼失し、以降に再建された「東照宮 徳川家康墓」が残る。
- 紀州東照宮 - 和歌山県和歌山市
- 玉井宮東照宮 - 岡山市中区、明治になり合祀された神社
- 鳥取東照宮 - 鳥取県鳥取市、別名 因幡東照宮、旧 樗谿神社
- 広島東照宮 - 広島市東区
- 石見銀山東照宮 島根県大田市、勝源寺境内
脚注
- ^ 地形把握も兼ねていた家康のタカ狩り 遷霊行列は中原と府中で「御殿」に宿泊産経新聞、2015.1.25
- ^ 国宝指定久能山東照宮社殿特設ページ