杜甫
杜 甫 | |
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杜甫・『晩笑堂竹荘畫傳』より | |
プロフィール | |
出生: | 712年(先天元年) |
死去: | 770年(大暦5年) |
出身地: | 唐河南鞏県(中国河南省鞏義市) |
職業: | 詩人、文学家 |
各種表記 | |
繁体字: |
姓: 杜 名: 甫 字: 子美 号: 少陵野老 |
拼音: |
姓: Dù 名: Fǔ 字: Zǐměi 号: Shàolíng Yělǎo |
ラテン字: | Tu⁴ Fu³ |
和名表記: | と ほ |
発音転記: | ドゥー フー(トゥー フー) |
英語名: | Du Fu |
杜 甫(と ほ、712年(先天元年) - 770年(大暦5年))は、中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれている。
略歴
- 712年(先天元年) : 河南鞏県(河南省鞏義市)で生まれる。父は杜閑、母は崔氏。祖籍は襄州襄陽(湖北省襄陽市)。三国時代から西晋の武将であり、「破竹の勢い」で有名な杜預は先祖に当たる。祖父は初唐の宮廷詩人として有名な杜審言である。
- 718年(開元6年) : 初めて詩文を作成する。
- 720年(開元8年) : 初めて大字を習う。
- 725年(開元13年) : 故郷に隣接する洛陽で文人の仲間入りを果たす。
- 730年(開元18年) : 斉に滞在する。
- 731年 - 734年(開元19年 - 22年) : 呉・越に滞在する。
- 735年(開元23年) : 呉、越から洛陽に帰って来て、科挙の進士を受験したが及第せず。
- 736年 - 740年(開元24年 - 28年) : 斉・趙に滞在する。
- 737年(開元29年) : 洛陽に帰り、陸渾荘を造りそこに滞在する。
- 744年(天宝3載) : 洛陽で李白と会う。
- 745年(天宝4載) : 斉に滞在する。そこで再び李白と会い、友好を結ぶがこれが最後の再会になった。
- 747年(天宝6載) : 長安で一芸に通じる者のための試験が行われたが、不合格。
- 750年(天宝8載) : 長男の杜宗文が生まれる。
- 751年(天宝10載) : 玄宗に「三大礼賦」を奉献する。
- 753年(天宝12載) : 次男の杜宗武が生まれる。
- 754年(天宝13載) : この頃、仕官のつてを求めて、高官たちにしばしば詩を献ずる。
- 755年(天宝14載) : 河西の尉に任じられるが断り、右衛率府の胄曹参軍になる。
- 756年(至徳元載) : 安禄山の攻撃により長安が陥落する。霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、長安脱出を試みるが、反乱軍に捕まり幽閉される。
- 757年(至徳2載) : 脱出して、粛宗から左拾遺の位を授かる。
- 758年(乾元元年) : 房琯(ぼうかん)を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、華州(陝西省華県)に左遷される。
- 759年(乾元2年) : 関中一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨てて、秦州(甘粛省天水市)に赴く。さらに同谷(甘粛省成県)に移るが、ドングリや山芋などを食いつないで飢えを凌ぐ。蜀道の険を越えて成都に赴く。
- 760年(上元元年) : 成都で草堂(杜甫草堂)を建てる。
- 765年(永泰元年) : 成都を去り長江を下る。
- 770年(大暦元年) : 襄陽を通り洛陽を経由して長安に戻ろうとしたが、相江の舟の中で客死する。死因としては、頂き物の牛肉を食べ過ぎて亡くなった話が有名だが、この話が事実ではないとする意見も多く、確実な死因は不明。
詩の特徴
杜甫の詩の特徴として、社会の現状を直視したリアリズム的な視点が挙げられる。杜甫は当時の士大夫同様、仕官して理想の政治を行いたいという願望から、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、同時代の親友である李白の詩とは対照的な詩風を生み出した。後世「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢は、後の白居易の諷喩(風諭)詩などに受け継がれてゆく。
安史の乱前後、社会秩序が崩壊していくさまを体験した頃の詩は、政治の腐敗や戦乱の様子を悲痛な調子で詳細に綴った内容のものが多い。この頃の代表作として「春望」「三吏三別」「秦州雑詩」がある。
比較的穏やかな生活を過ごせた成都時代では、それまでの悲しみや絶望感に満ちた詩にかわって、自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られている。また諸葛亮を讃えた名作「蜀相」なども詠われている。
成都を去った以後の最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証であり、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地に達した。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇あるいは国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なる、ある種の荘厳な趣を持つようになる[1]。この時期の代表作としては「秋興八首」「詠懐古跡五首」「登高」「登岳陽楼」などがある。
杜甫の詩人としての評価は必ずしも没後短期間で確立したものでない。没後数十年の中唐期に、白居易・韓愈らによってその評価は高まったものの、北宋の初期でさえ、当時一世を風靡した西崑派(晩唐の李商隠を模倣する一派)の指導者・楊億は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼び嫌っていたという[2]。一方、南宋初期の詩人である呉可は『蔵海詩話』の中で「詩を学ぶには、まさに杜(甫)を以て体となすべし」と書いている。
明の胡応麟の『詩藪』ように、絶句を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れているという評価が一般的である。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする[3]。
日本語訳
文庫版での『杜甫詩選』は、岩波文庫で黒川洋一編訳が、同じ編著で、入門書『杜甫 中国の古典』(<ビギナーズ・クラシックス>角川ソフィア文庫)がある。
また選書版で、石川忠久『漢詩をよむ 杜甫一〇〇選』(NHKライブラリー・日本放送出版協会)もある。なお集大成の『杜詩』(鈴木虎雄訳注・黒川洋一補訳、岩波文庫全8巻)が、近年復刊された。
著名な作品
春望 | ||
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原文 (拼音) |
書き下し文 | 訳 |
國破山河在 (guó pò shān hé zāi) |
国破れて山河在り | 国家(唐の国都当時は長安)は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、 |
城春草木深 (chéng chūn cǎo mù shēn) |
城春にして草木深し | 城内(長安)では春が訪れ草木が青く茂っている。 |
感時花濺涙 (gǎn shí huā jiàn lèi) |
時に感じては花にも涙を濺ぎ | 時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、 |
恨別鳥驚心 (hèn bié niǎo jīng xīn) |
別れを恨んで鳥にも心を驚かす | 家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。 |
烽火連三月 (fēng huǒ lián sān yuè) |
烽火 三月に連なり | 幾月[※ 1]が経ってものろし火(安禄山の乱による戦火)は消えることはなく、 |
家書抵萬金 (jiā shū dǐ wàn jīn) |
家書 万金に抵る | 家族からの手紙は万金にも値する。 |
白頭掻更短 (bái tóu sāo gèng duǎn) |
白頭掻けば更に短く | (心が痛んで)白い頭を掻けば掻くほど髪の毛が抜け落ち、 |
渾欲不勝簪 (hún yù bú shèng zān) |
渾て簪に勝えざらんと欲す | まったくかんざしを挿せそうにもないほどだ。 |
杜甫と松尾芭蕉
日本文学への影響は漢詩以外のジャンルにも大きく、特に松尾芭蕉は杜甫に傾倒していた。『花屋日記』によると、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされており、生涯を通して杜甫を尊敬していたことが窺える。『奥の細道』の冒頭にも杜甫の人生である道中で息を引き取りたいと、述べている。また、同文の有名な一節である
- さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。
- 夏草や 兵どもが 夢の跡
は、「春望」を引用していることが窺える。だがこの詩の観点はどことなく相違が見える。杜甫は幽閉の最中に作った詩であることにより、人の営みが今滅ぼされてゆくを述べているが、芭蕉は滅んでしまった後であることから日本独自の無常観が見受けられる。
脚注
- ^ 吉川幸次郎「杜甫について」、黒川洋一『杜甫』(角川書店<鑑賞 中国の古典17>)、植木久行『唐詩物語 名詩誕生の虚と実と』(大修館書店)などより
- ^ 吉川幸次郎『宋詩概説』(岩波文庫)より
- ^ 高島俊男『李白と杜甫』(新版は講談社学術文庫)では、杜甫の絶句は「律詩の一部分と考えればよくできている」が、「それを四行だけ取り出して『はい、絶句です』といわれても困る」と評している。その一方で「彼の絶句が、絶句の通念と異なっているとしても、そこに律詩の名手としての彼の個性がまぎれもなく刻印されているという意味では、それらの作品もやはりかけがえのない価値を有すると言ってもよいだろう」(松浦友久編『校注 唐詩解釈辞典』「絶句四首 其三」備考「杜甫の絶句」377頁より、執筆担当は宇野直人)とする評価もある。