平泉澄

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平泉 澄
人物情報
生誕 1895年(明治28年)2月15日
日本の旗 日本 福井県大野郡平泉寺村
死没 1984年(昭和59年)2月18日(満89歳没)
日本の旗 日本 福井県勝山市
出身校 東京帝国大学文科大学国史学科
学問
研究分野 歴史学
研究機関 東京帝国大学
青々塾
国史研究室
学位 文学博士(東京帝国大学)
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平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年明治28年)2月15日 - 1984年昭和59年)2月18日)は、日本歴史学者。専門は日本中世史。東京帝国大学教授平泉寺白山神社第4代宮司、名誉宮司。玄成院第二十四世。皇學館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士[要出典]

国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれており[注 1]、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。

人物

福井県大野郡平泉寺村(現在の福井県勝山市)生まれ。名前の「澄」の一字は、白山の開祖泰澄に由来する。

近衛文麿など[注 2]政界とのつながりも深かった[3]日本を守る国民会議の結成に際して、発起人として参加している[4]

著作に『中世に於ける社寺と社会との関係』(1926年11月15日)、『国史学の骨髄』(1932年9月18日)など。

略歴

家族・親族関係

関連文献

著作

平泉の著作の全容は、田中卓によって以下の文献にまとめられている。

  • 『平泉史学と皇国史観』田中卓著、青々企画、2000年。
  • 『平泉澄博士全著作紹介』田中卓編著、勉誠出版、2004年。
    • 肖像と略歴、著作年譜のほか研究文献目録も収められている。
    • ほかに錦正社で、約十冊が新版再刊されている

評伝

  • 神道史學會(神道史学会)『神道史研究・平泉澄博士と神道』 1985年1月
  • 日本学協会『日本・平泉澄先生を偲ぶ』 1985年2月
  • 藝林会『藝林・平泉澄先生追悼』 1986年3月
  • 今谷明「平泉澄」(今谷明・大濱徹也ら編『20世紀の歴史家たち』(1)所収。刀水書房、1997年7月)
  • 田々宮英太郎『神の国と超歴史家・平泉澄』 雄山閣出版、2000年11月
  • 田中卓『平泉史学と皇国史観』 青々企画 2000年12月
  • 植村和秀『丸山眞男と平泉澄』(パルマケイア叢書)柏書房 2004年10月
  • 若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ日本評伝選ミネルヴァ書房 2006年4月
  • 田中卓『平泉史学の神髄』 国書刊行会 2012年12月
  • 立花隆『天皇と東大-大日本帝国の生と死 下』文藝春秋、2005年
  • 坂口太郎『大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄―その史学史的考察―』北九州市立松本清張記念館、第19回松本清張研究奨励事業研究報告書、2019年

脚注

注釈

  1. ^ 平泉自身は、自ら皇国史観を称したことはない[1]
  2. ^ 近衛は内大臣湯浅倉平を通して平泉を昭和天皇に近づけようとしたが、建武の中興の進講で後醍醐天皇を讃えて不快にさせたことから反対したと原田熊雄に語っている[2]
  3. ^ とある教師の追放を謀ったもので、この文章によると、授業で皇室を軽侮したり、学生の質問や議論を抑圧したりなどするような人物であったという[5]
  4. ^ 同年12月、東大内の山上御殿で開催された国史談話会で越前国の郡数増加と僧天海の名の起源の研究発表[6]。その後、「頼朝と年号」(黒板勝美へのリポート)、「座管見」、「中世に於ける兵農僧の区別」を『史学雑誌』に発表[7]
  5. ^ この席にて「余は国家主義者なり」と明言し、「五体に満ちた元気を持って国家生活を説き、同じ学窓に育って同じ道を歩み行く者、まず集まり団結するはやがて真の偉大なる国家を築き成す基である」と歓迎会を讃美したという[8]
  6. ^ 卒業論文は「中世に於ける社寺の社会的活動」。大正天皇より恩賜の銀時計を受けた。平泉は最後の銀時計組であった[9]
  7. ^ 当時の大学院は、講義などがあるわけでもなく、自分の研究課題が書かれている本を自分で読むのが日課とされているなど、院生が自由に研究する存在だったという[10]。史料編纂掛や図書館を中心に勉学に励む一方、史学会委員として『史学雑誌』の編纂に従事したり、日光東照宮社史の編纂や帝国学士院の推薦によって五辻宮守良親王亀山天皇第五皇子)の事蹟の研究、宗教制度調査嘱託となる[11]
  8. ^ 三年後、この論文により文学博士学位を授与される。
  9. ^ 二・二六事件事件直後、秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王に対し事件が鎮静化するまで、昭和天皇を補佐することを述べ、近衛文麿を中心に荒木貞夫末次信正を補佐として、事態を収拾すべきであるという考えを示した[12]
  10. ^ ドイツではハインリッヒ・リッケルトベネデット・クローチェを訪ね、フランスではフランス革命の研究、イギリスでは、エドマンド・バークの思想研究や、エドマンド・ブランデンを訪ねた[13]
  11. ^ 特別講師として全国の高等学校や専門学校で「日本精神の復活」や「神皇正統記と日本精神」と題した講義を行う[14]
  12. ^ 東條内閣が倒れ、小磯内閣が成立後、平泉は国家総力戦に備えるべく、陸海軍を統合して皇族を総参謀長にする体制作りと、特攻作戦の実施を門下の島田東助に伝え、1945年(昭和20年)になると、陸軍大臣阿南惟幾に昭和天皇の松代大本営行幸案に対して反対の意を示し、アメリカ本土への空爆を主張[15]ポツダム宣言が受諾された8月10日以降は「承詔必謹」(天皇の命令には必ず従わなければならない、という意味)を唱えた[16]
  13. ^ 辞表の日付は昭和20年8月15日[17]
  14. ^ 解除は1952年(昭和27年)4月[18]
  15. ^ 1974年(昭和49年)に閉鎖[19]

出典

  1. ^ 田中卓『平泉史学と皇国史観』p24
  2. ^ 筒井清忠『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』岩波現代文庫、p139
  3. ^ 立花隆『天皇と東大』下巻第48章
  4. ^ 朝日新聞社会部『政治の風景』p132
  5. ^ 若井敏明『平泉澄』p12
  6. ^ 若井敏明『平泉澄』p22
  7. ^ 若井敏明『平泉澄』p28-29
  8. ^ 若井敏明『平泉澄』p39
  9. ^ 若井敏明『平泉澄』p30
  10. ^ 若井敏明『平泉澄』p36
  11. ^ 若井敏明『平泉澄』p37
  12. ^ 若井敏明『平泉澄』p219
  13. ^ 若井敏明『平泉澄』p110-121
  14. ^ 若井敏明『平泉澄』p175-176
  15. ^ 若井敏明『平泉澄』p270
  16. ^ 若井敏明『平泉澄』p276-277
  17. ^ 若井敏明『平泉澄』p290-291
  18. ^ 若井敏明『平泉澄』p300
  19. ^ 若井敏明『平泉澄』p301

外部リンク