常磐炭田

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常磐炭田(じょうばんたんでん)とは、20世紀前半に、福島県富岡町から茨城県日立市までに広がって存在した炭田である。夜ノ森久慈川に挟まれた沿岸地域に立地していた。

「常磐」は、律令旧国名の「常陸国」と、明治旧国名の「磐城国」の頭文字を取って付けられた名称で、「常」は水戸藩に、「磐」は磐城平藩に相当する地域である。

歴史

常磐炭鉱に行幸する昭和天皇(1947年)

戊辰戦争が終結した直後、神永喜八、片寄平蔵らにより発見された。1870年代から、茨城県北部(旧水戸藩)から福島県浜通り南部(旧磐城平藩)にかけての海岸線に面する丘陵地帯にかけて、大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。地下水が多く温泉も湧き出すため坑内は暑く過酷な環境で、1tの石炭を採掘するのに4t程度の地下水が湧き出すともいわれ(常磐炭鉱記録映画による)当時世界最大級の排水ポンプを並べるなど採炭コストも高かった。しかし首都圏に最も近い大規模炭田であり、また石炭以外にもを産出する地域(日立銅山)も含まれていたので、第二次大戦前には首都・東京に近い鉱工業地帯として発展した。

ところが、第二次大戦後、特にエネルギー革命高度経済成長が起こった1960年代になると、慢性的なコスト増で産出資源の競争力が失われ、更にマッチ用の、化学工業原料や火薬などの用途があった副産物の硫黄資源も、技術革新により石油の脱硫処理から硫黄がより容易に生産されるようになり、市場から駆逐された。各鉱は採算が次第に悪化。最後まで残った常磐炭礦(1970年より常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985年に撤退した。

常磐炭田地域の現在

常磐興産は、炭鉱の斜陽化による収益の悪化を観光業に転換することで生き残りを図った。かつては炭鉱の坑道から温泉が湧出し、労働者を悩ませただけでなく常磐湯本温泉を湯枯れさせてしまったが(1tの石炭を掘る為に40tの湯を廃棄していた)、その温泉を利用して常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を建設し成功を収めた。また鉱床をボーリングして常磐湯本温泉の安定した源泉を確保している。さらに地場の大手電機企業である日立製作所とその関連企業が石炭産業従事者の大部分を吸収し、自治体としての基盤の維持に貢献した。北海道九州など他の産炭地域の人口の激減・地域振興策の失敗による無惨な状況に鑑みれば、奇跡的とすらいえる。

2006年公開の映画『フラガール』は、閉山前後のこの地域を描いている。

関連項目

外部リンク