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島津豊久

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島津 豊久
時代 安土桃山時代
生誕 元亀元年(1570年6月
死没 慶長5年9月15日1600年10月21日
改名 豊寿丸、忠豊、豊久
別名 :又七郎
戒名 天岑昌運
墓所 天昌寺
官位 侍従中務大輔
主君 島津義弘
氏族 島津氏
父母 父:島津家久、母:樺山善久
兄弟 豊久忠仍、女(禰寝重張室)、
女(佐多久慶室)、
女(島津久信室、相良頼安室)
島津忠長
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島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代武将

生涯

天正12年(1584年)3月の沖田畷の戦いに初陣し、このときに敵一人を討ち取った。その翌月14日に、肥後国にて元服を果たす。

父の家久は、島津氏豊臣秀吉に降伏した年に死去。秀吉の陣中に赴いて俄かに没したため、暗殺や毒殺ともいわれるが、逆にあらぬ疑いを避けるためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう島津義弘に命じたといわれる。父亡き後は伯父の義弘が引き取り、実子同様に養育し扱われたという。そのために義弘に恩義を感じていたという説もある。

父の後を継いで日向佐土原城宮崎市佐土原町)の城主となる。豊臣秀吉に従い小田原征伐文禄・慶長の役など各地を転戦。

関ヶ原の戦いでの島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町)

秀吉死後、慶長4年(1599年)に起こった庄内の乱に出陣し武功を上げる。また翌年(1600年)に関ヶ原の戦いが起ると伯父の義弘と共に西軍として参陣した。しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加せず、豊久も積極的な戦闘を起こさなかった。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めるが、豊久に撤兵を促されて、結局義弘以下の島津隊は家康本陣を霞める形で伊勢街道方面に撤退する(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において先陣を務めたが、東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出し、豊久も義弘の身代わり(捨て奸)となって討死した。

戦後、領地の佐土原は無嗣断絶の扱いでいったん徳川家に接収された後、一族の島津以久が入った。豊久には子供が無く、家は姪の婿である喜入忠栄が相続した。しかしその系統も寛永元年(1624年)に断絶。後に18代当主・島津家久(豊久の父とは別人)の子・久雄が継嗣に入り、永吉島津家として残る。

人物

  • 15歳で初陣した沖田畷の戦いの際、この合戦は激戦が予想されたため、父・家久は本国へ帰還するように命じたが、「本国にいたとしても、父の苦戦を聞けば駆けつけようものを、陣中にいながらにして撤退したとあっては末代までの恥」と撤退を拒否し、合戦場に留まり、見事初陣で武者1人を討ち取る手柄を挙げたという逸話がある。

墓所

通説で戦死した場所といわれる岐阜県大垣市上石津町烏頭坂には、島津忠重揮毫による豊久の石碑がある。また、同町上多良地区にある通称「島津塚」は豊久の墓と伝えられる。

また、現地には豊久の死について異説が伝わっている。一つは、落ち延びてきた豊久一行を村人が拒絶したため豊久は無念の死を遂げ、その祟りのために墓所には草木も生えなくなったという話である。もう一つは全く逆で、必死に豊久を看病する村人に嫌疑が掛かるのを忍びなく思い自刃したという話である。

更に宮崎県佐土原町、及び鹿児島県日置市の双方にあった天昌寺にも祀られており、寺は共に廃寺となったが墓は現存している。

島津豊久の登場する創作物

テレビドラマ
コミック
ゲーム

関連

外部リンク