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小笠原長生

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小笠原長生
生誕 1867年12月15日
死没 1958年9月20日
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1889 - 1921
最終階級 海軍中将
戦闘 日清戦争
日露戦争
除隊後 宮中顧問官
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小笠原 長生(おがさわら ながなり、慶応3年11月20日1867年12月15日) - 昭和33年(1958年9月20日)は、佐賀県出身の海軍軍人。位階勲等は、海軍中将正二位勲一等功四級子爵。幼名は賢之進。忠知系小笠原家14代。

経歴

老中小笠原長行の長男として江戸で生まれる。明治6年(1873年)9月、祖父・長国の隠居により、家督を相続した。明治13年(1880年)、学習院に入学。攻玉社を経て明治17年(1884年)9月、海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。

明治22年(1889年)10月、海軍少尉に任官し「日進分隊士となる。「天城」乗組を経て、明治24年(1891年)7月から翌年8月まで海軍大学校で丙種学生として学んだ。「八重山」乗組を経て、明治26年(1893年)11月、「高千穂」分隊長に就任し、日清戦争に出征。黄海海戦に参加。明治28年(1895年)7月、「天城」分隊長に移り、その後、軍令部に出仕し日清戦史編纂委員となり、軍事史に関する文筆活動を積極的に展開し始める。

明治29年(1896年)4月、軍令部諜報課員に就任し、軍令部出仕に移る。明治32年(1899年)9月、海軍少佐に昇進。明治35年(1902年)3月、「浅間」分隊長に移り、「千代田」副長を経て、明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任し日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐、明治41年(1908年)9月、海軍大佐に昇進。明治44年(1911年)2月から大正4年(1915年)4月まで学習院御用掛を兼務。

明治44年(1911年)9月、軍令部出仕兼参謀に発令され、「常磐」「香取」の各艦長、軍令部出仕兼参謀を歴任。大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで東宮御学問所幹事を務める。大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に昇進し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任。昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて、伊豆に閉居した。

逸話

小笠原と東郷平八郎
  • 日露戦争後、東郷平八郎に傾倒し、持ち前の文才で「東郷元帥詳伝」を著し、その神格化につとめた。
  • 海軍部内では、「東郷さんの番頭」、「お太鼓の小笠原」などと蔑称されていたと伝わっている。東郷は長生を身近に置いて重用したが、一方で軍縮問題について加藤寛治と懇談した際には、「あの人は現役ではないから、こういう話に加えてはならない」と見下すような発言を残している。長生は戦後公開された加藤の手記によってこの事実を知りショックを受けたと伝わっている。
  • 昭和5年(1930年)、自身の原作による日本海海戦を描いた映画『撃滅』(日活)が製作される。同映画の監督は長男・小笠原明峰、また二男・小笠原章二郎が小笠原長生を演じた。
  • 二・二六事件発生の朝、伏見宮博恭王加藤寛治真崎甚三郎は伏見宮邸で協議を行っている。長生も伏見宮邸に駆けつけており、後に反乱軍幇助の疑いで憲兵隊の尋問を受けている[1]

著作

  • 『海戦日録』春陽堂、明治28年(1895年)。
  • 『日本帝国海上権力史講義』海軍大学校、明治35年(1902年)。
  • 『東郷元帥詳伝』春陽堂、大正10年(1921年)。
  • 『撃滅 - 日本海海戦秘史』実業之日本社、昭和5年(1930年)。

※他多数

親族

文献

脚注

  1. ^ 『父と私の二・二六事件』P266~270に所収の憲兵司令部資料

外部リンク