妙見島
妙見島 | |
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所在地 | 東京都江戸川区東葛西3丁目 |
所在海域 | 旧江戸川(中州) |
座標 | 北緯35度40分4秒 東経139度53分8秒 / 北緯35.66778度 東経139.88556度座標: 北緯35度40分4秒 東経139度53分8秒 / 北緯35.66778度 東経139.88556度 |
最高標高 | 3 m |
プロジェクト 地形 |
妙見島(みょうけんじま)は旧江戸川の島(中州)。南北の幅は約700m、東西の幅は約200m。東京都江戸川区東葛西3丁目の一部。
東京23区唯一の自然島である。
概要
島の周囲はすべて壁のようにコンクリート護岸で囲まれている。護岸工事が行われるまでは「流れる島」と呼ばれ、徐々に移動していた。島にある建物のほとんどは工場だが、住人もいる。北部に妙見神社[1]がある。浦安橋から島に降りることができる。
歴史
最古の記録は南北朝時代の1362年(貞治元年)。島に妙見堂が建立されたという記録がある[2]。近辺の猫実(浦安市)も、1417年(応永24年)頃には陸地化していたとされる[3]。14世紀後半のパリア海退などにより、河口の陸地化が進んだものと思われる。
下総国の国府を流れる太日川の河口であり、交通の要所だった。付近には長島高城があったという説がある[4]。長島には長島湊があり、国府の外港の1つとして栄えた。また長島には1372年(文中元年/応安5年)に、香取神宮の河関(灯油料所)があったことが知られている[5]。
江戸時代、下総国欠真間村の飛び地だった。島の北は行徳船の航路になっており、江戸の庶民にとってなじみ深い地域だった。曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の舞台として登場した。
1895年(明治28年)、千葉県から東京都に編入された。明治時代後半より工場が建ち始め、第一次世界大戦後の昭和初期には工業地帯化した。なおその頃の浦安周辺の様子は、山本周五郎『青べか物語』が詳しい。1940年(昭和15年)、浦安橋が開通した。
2011年10月14日放送のタモリ倶楽部 にて妙見島が取り上げられ、島内にある業務用マーガリンを主に生産する「月島食品工業東京工場」、妙見島の名前の由来ともなったとも言われる「妙見神社」、都内でも最大の会員制マリンクラブである「ニューポート江戸川」などが紹介された。
島名の由来
妙見とは千葉氏の守護神である妙見菩薩のこと。妙見信仰は千葉氏が信仰していた日蓮宗とも密接に関わる。日蓮宗は中山法華経寺を中心に布教が行われていた。妙見堂の建立は千葉氏が葛西地区へ進出する足がかりだったという説もある[6]。
なお初代の妙見堂は、東一之江村(現・江戸川区一之江)の妙覚寺に移されている。
脚注
- ^ 妙見神社(妙見島) - 神社散歩
- ^ 新編武蔵國風土記稿 葛飾郡東一之江村 妙見堂.
- ^ 湯浅治久によると千葉県市川市の『法宣院文書』に「猫眞講」の記述がある。
- ^ 『小田原衆所領役帳』の解釈。『葛飾記』の城館説。
- ^ 『旧大禰宜家文書』「藤原長者二条師良宜写」
- ^ 湯浅治久の説
参考文献
- 江戸川区教育委員会編『江戸川区の民俗4 葛西地区の民俗』
- 葛飾区郷土と天文の博物館『東京低地の中世を考える』(1995年(平成7年))ISBN 978-4626015082
- 湯浅治久「東京低地と江戸湾交通」
- 蘆田伊人編 編「巻ノ28葛飾郡ノ9東一之江村」『大日本地誌大系』 第6巻 新編武蔵國風土記稿2、雄山閣、1929年8月、101頁。NDLJP:1214842/58。
外部リンク
- 江戸川に浮かぶ妙見島(デイリーポータルZ)
- 湯浅治久 「東京低地と江戸湾交通」(後半) - ウェイバックマシン(2006年10月6日アーカイブ分)
- 産廃・ラブホテル・マリンクラブの奇妙な共存 旧江戸川の中州「妙見島」を歩く | アーバン ライフ メトロ - URBAN LIFE METRO - ULM
- ニューポート江戸川
- 月島食品工業株式会社