大隅石井氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Blue network18 (会話 | 投稿記録) による 2016年3月27日 (日) 07:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎概要: 曖昧回避のため修正)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

大隅石井氏
家紋
丸に三引両(代表家紋)
丸に違い鷹の羽・丸に橘・五つ松皮菱
本姓 桓武平氏三浦氏流
家祖 石井義継
種別 武家
士族
出身地 相模国
主な根拠地 大隅国
鹿児島宮崎(佐土原)
著名な人物 石井隼太
支流、分家 波須和氏
井上氏
凡例 / Category:日本の氏族

大隅薩摩石井氏(おおすみ/さつま いしいし)は、桓武平氏三浦氏の一族。相模から大隅に下向し、鎌倉時代末期・南北朝時代室町時代戦国時代に活躍した武士島津氏の重臣。


概要

大隅国大隅郡垂水中俣・海潟(垂水市)の領主に石井氏があった。石井氏は相模の豪族で源頼朝をたすけ、鎌倉幕府の創立に尽力した三浦義明の子孫である。三浦氏は宝治元年(1247年)に法華堂にて一族のほとんどである五百余人が自害して滅亡したが(宝治合戦)、三浦員村(自害)の次男盛明は無事であり、その子義継は相州三浦郡石井庄(現在の神奈川県横須賀市平作町に小字石井がある)に居城し石井と号した。石井氏は宝治合戦を生き延びた三浦氏の一族であるが、建久3年(1292年)、大隅守護職は千葉氏から北条氏に代わっていることから、北条氏の御内人となり垂水地頭として赴任してきたものと考えられる。

鎌倉時代末期(1330年頃)、義継の子石井重義が下大隅に下向。垂水城を再興し、石井氏を名乗りここを居城とした。

南北朝時代は北朝に属し、貞和5年(1349年石井中務丞重信(重義の子)を南朝肝付兼重が攻めたが、石井氏は救援を鹿児島の島津氏5代当主貞久に求めた。貞久は比志島範平、伊地知季随を遣わし救出している。この合戦で重信の弟次郎が戦死。

文和4年/正平10年(1355年)、肥後種顕種久兄弟が畠山直顕崎山城に入れて謀反したが、石井氏は貞久の4男で島津氏6代当主氏久に味方しこれを退けている。

永和3年/天授3年(1377年)、九州探題今川了俊の5男満範が南九州の国人63人をまとめ大軍で都之城に攻め寄せてきた。島津氏久はこれを迎え大激戦となった。石井氏も島津方の武将として出陣。この戦で肥後兄弟が戦死したが、この報を聞くや石井某は前日の戦で負傷し病床にあったが「吾は肥後兄弟とは生死の契りを結んでいた。吾独り生きているのに忍びない」と言いながら傷をえぐって死んだという。このことから崎山城の合戦以来、肥後氏は氏久に従うようになり、石井氏と同盟関係にあったと考えられる。

石井中務少輔義忠入道旅世の頃が石井氏が最も盛んな時代で、諸家大概によると島津氏9代忠国、10代立久、11代忠昌、12代忠治4代の家老を務めたとなっている。5代元義(忠義)の後継者である義仍(中務少輔義忠)が島津氏9代忠国の晩年の頃に家老職となり、10代立久、11代忠昌、12代忠治の代まで務め、13代忠隆、14代勝久の代に家老職にあったのは、義治であったろうと推定される。

三国名勝図会第四十四巻十七に「諏訪大明神上社神体の背に文明十年(1478年)石井源左衛門義仍寄進の旨を記す、義仍は大岳公(島津忠国)の国老なり」と記述されている。同神社の文明三年(1473年)三月の棟札には大願主頭領 石井源左衛門 平義仍 奉為武久公修造云々とあり、長享三年(1489年)の棟札には、大檀那 平義仍と記されている。義仍に関しては、今宮神社にも明応二年(1493年)の棟札が残っており、「大檀那 平朝臣義仍並大願主平義諸以下」とあり、「義仍は石井氏也」と注が入っている。

石井家は仏教帰依しており、元義(後に忠義と改める。官位は丹後守)は永享十年(1438年)福昌寺造営の際、馬一疋、青銅百疋奉加。垂水市中俣の市指定史跡岩屋観音[1]は、石井氏七代までの菩提寺とされ多数の石塔があるが、堂内の釈迦像に文正2年(1465年)平義忠[2]阿弥陀像に明応6年(1496年)平義直[3]と書付あり、いずれも石井氏の造立とされる。9代義辰は垂水海潟井之上に松岳寺を開いた。

大永6年(1526年)、太守島津勝久下之城主伊地知重貞(伊地知重武の誤りと考えられる)、田上城梶原昌豊をして石井を攻略、垂水城陥落と旧記にあり。当時、石井氏は島津実久方(薩州家)に属していたので、勝久方の伊地知氏に攻められ、約200年間城主であった垂水城を去り、海潟に移住した。

おそらく、天文年間末期(1550年代)と推定されるが、9代石見守義辰が殺害され石井氏は滅亡した。石見守最後の記録は旧記に「中古海潟井之上の上元屋敷に居す。或時いかなる故かしらず馬上にて馳せ行き、小浜塩木山に於て害に逢う。寺山比良に葬る。石塔あり、法名松岳玄等大居士」とある。

その後、石井氏の子孫は一部は大隅に残り、一部は島津氏に仕え鹿児島等薩摩半島日向国佐土原に移住した。

平姓石井氏略系図

桓武天皇葛原親王高見王高望王(平姓)─良文忠通為通(三浦姓)─為継義継義明義澄義村―朝村─員村─盛明─義継(石井太郎)─1.重義(大隅下向)─2.重信─3.久義─4.孝義─5.元義─6.重義─7.義春─8.義定─9.義辰─10.義高─11.義泰(鹿児島移住)─12.義知─13.義家─14.義教─15.元明……才援─元亭(医師)─元信(教育家)

  • 佐土原流
    • 義次(佐土原島津家初代以久に随従して佐土原に移住)─義辰─義真─義知─義見・・・・義次─平三─隼太
  • 七郎兵衛流
    • 石井七郎兵衛(石井石見守の支族で兵道家[4])─源六左衛門─八郎四郎─十右衛門─助八─十助─助八

系図考察

義継以前は三浦氏嫡流系図を参照のこと

義継(石井太郎)
 
 
 
重義(大隅下向)1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重信(中務丞)2次郎三郎四郎五郎六郎七郎女子女子無極
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(嫡男家)(波須和)(市木)(中俣)(奈良迫)(久見木)(濱田)(田代氏室)(肥後氏室)(清水寺和尚)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久重3嫡男義次
 
 
 
 
 
孝義4義長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元義(忠義)5五郎右衛門女子常陸(井上氏)女子女子重義
 
 
 
 
 
 
 
義仍(義忠)6玄蕃允義春
 
 
 
 
 
 
 
義治7藤七兵衛義定
 
 
 
 
 
 
 
子孫不明小五郎義辰(石見守)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義高平次郎義次(佐土原石井祖)


  • 石井氏は辺田七人衆(内海に面して辺田の七人の豪族を指したもの。石井、肥後、伊地知、池袋、廻、敷根、上井を指す)の一人として、約二百年間、垂水城主として在ったことなどから庶流もかなりあったと考えられるが、系図からは庶流として波須和氏、井上氏しか確認できない。つまり、石井氏系図には、三代久義から六代重義までが、直系しか記載されていないため、詳細を知ることが出来ないためである。家系図によっては、石井氏嫡男家は5代元義で途絶え、6代重義を肝付兼重との合戦で戦死した2代重信の弟次郎(波須和氏)の曾孫に記載してあるものがある。後に小浜合戦で死亡した平次郎や佐土原藩士となった義次が波須和姓を名乗っていることや文献等に登場する義仍、義治等の嫡流と思われる名前が系図に見当たらないことから、おそらく、現在公表されている石井系図は二男家のものであろうかと思われる。嫡家系譜は、総州家奥州家薩州家の家督争いに巻き込まれ没落した石井氏の歴史を考えると、その筋の検閲を受け削られた可能性もある。あるいは、未公表だが鹿児島県内の石井姓を名乗る家の中に嫡家の家系図が伝来しているのかも知れない。
  • 系図から、高城の城主である肥後氏や禰寝氏の分出支族である田代氏と婚姻関係があったことが分かる。次郎は波須和、三郎は市木を知行。四郎は中俣、七郎は浜田を号しているが、それぞれ、中俣氏(石井氏以前に中俣を治めていた豪族)、浜田氏(藤原姓禰寝氏冨山氏一門で大姶良城の支城である浜田城城主)に養子に行ったのか、石井氏流中俣氏、浜田氏が別系統で存在したのか不明である。また、五郎の奈良迫、六郎の久見木は割譲地の名称と思われるが、どこに在ったのか不明である。いずれにせよ禰寝氏の一族である田代氏や浜田氏と婚姻関係があることから、下大隅下向の初期の段階で、禰寝氏領内に進出した石井氏があったことが推定される。なお、伊地知氏の家譜に「重持弟筑前守持季室は垂水の石井殿の女子」と記載があり、伊地知氏と婚姻関係があったことが確認できる。
  • 5代「元義」は島津忠国の一字をもらったものと思われるが、「忠義」と改名している。鹿児島県の第三部中世関係史料(古文書)に掲載されている永享六年(1434年)の福昌寺の文書に「石井忠義寄進状」があるが、この文書の中で父道享とあり、系図によると道享は元義の父孝義の法名であることから忠義と元義は同一人物であることが分かる。なお、元義は永享十年(1438年)福昌寺造営の奉加帳に石井 平 元義(花押)と署名しているが、「石井忠義寄進状」では平石井平次郎忠義(花押)と署名している。
  • 諸家大概に「石井中務少輔義忠入道旅世は忠国公より立久公忠昌公忠治公迄は四代御家老にて候」という記述があるが、中務少輔義忠(入道して旅世と号す)とは「義仍」のことであると考えられる。永正十一年(1514年)から十三年(1516年)にかけての犬追物手組に石井中務少輔は頻繁に登場し、石井旅世は永正十八年(1521年)の島津家老臣連署式日次第(坊津での三宅国秀事件の影響か琉球紋船の事、琉球より進物の事等記載がある)に老臣の一人として連署している。

橘氏との関係

義継以前の石井氏の系図をさらに遡ると為通のところに「此時三浦と号し始め」とあり為通三浦氏の初代となっている。その為通の父忠通についてであるが、平良文の末子ということになっているが、父である平良文の没年(天暦6年(953年))と子の三浦為通の生年(寛弘7年(1010年)頃)から推定して、平良文と忠通の間に実の親子関係があった可能性はほとんどないものと思われる。系図には忠通のところに源頼光朝臣四天王也と記載されている。源頼光四天王の一人に碓氷貞光という人がいるが、最近の研究で、この人物が忠通又はその父親であったといわれている。碓氷貞光(橘貞光)は、碓氷貞光霊社の霊社記によると、碓氷周辺を領土とする武将であった橘貞兼の子で、姓橘氏、代々文武の誉れ高い家柄であったという。碓氷峠山中にて生まれ、その後京に出て活躍、源頼光に仕えてその四天王の一人となり、大江山の鬼退治などで活躍した。このことから、宝治合戦を生き延びた数少ない三浦氏嫡流末裔である石井氏は、本来橘氏の子孫で、何らかの事情で平姓を名乗る前は、橘姓であったのではなかろうかと推定される。橘紋を定紋として使用している石井家が現存しており、家紋がより真実を物語っているのかもしれない。また、系図で三浦氏(石井氏)と同じ忠通を祖とする鎌倉氏長尾氏、伊作氏(薩摩平氏)などにも橘紋の使用例が見られる。

幕紋

  • 丸に二引丸に三階菱丸に釘貫

その他の大隅石井氏

  • 禰寝氏の重臣に石井氏あり。下大隅に下向後、垂水の石井家とは初期の段階で分かれたものと考えられる。康暦2年(1380年)鷹栖城での禰寝氏と肝付氏との合戦に従軍した石井大炊助、天正2年(1574年)大隅の国根占の瀬脇城の合戦で肝付氏・伊東氏に攻められ、戦死した石井岩助らの名がある。また、天保10年(1839年)に書かれた「小根占衆中次第系図(小根占郷士の家中で系図を有する84家)」の中に石井三右衛門家が記載されている。明治10年(1877年)2月、田代村の石井勇一が西南戦争に出陣、城山陥落まで戦い抜いた。
  • 姶良郷(現在の鹿屋市吾平町)の郷士に石井家あり。寛永十一年(1634年)頃の姶良衆中に名があり、藩政時代、代々横目、郷士触役、庄屋等の役職を務めた。寛永十五年(1638年)島原の乱に従軍した石井甚左衛門、文久2年(1862年)薩英戦争に出陣した石井郷之進、明治10年(1877年)西南戦争に出陣した石井栄蔵等の名がある。
  • 元和五年(1616年)の国分衆中に石井今兵衛秀次の名が見える。

薩摩半島の石井氏

鹿児島市

  • 義辰の嫡男義高(石井蔵人)の次弟平次郎はの名人で、元亀3年(1572年)島津と肝付の一戦である小浜合戦で、強弓を引きしぼってよく戦ったが23歳で討死。系図によると義高の子義泰について「明暦二年丙申八月十三日鹿児島にて死去、行年74歳」と記載されていることから、この代より鹿児島に移住したものと考えられる。
  • 明治時代、鹿児島市に石井三兄弟(三人とも医師)がいた。元亭(慶応2年生)は、薩摩藩が明治2年(1870年)英国ウィリアム・ウィリス(William Willis)を招き設立した鹿児島医学校卒で、鹿児島初の皮膚科専門医。鹿児島市東千石町で開業した。元亭の弟玄貞(明治3年生)も同じく鹿児島医学校卒。内科が専門で、垂水と鹿児島市山之口町で開業した。伊佐敷蕾(石井才援三男伊佐敷氏養子)は熊本医専の出身で、鹿児島市西千石町で眼科を開業した。

南さつま市(旧金峰町、旧坊津町

  • 田布施の郷士に石井家あり。元文4年(1739年)[5]石井仲左衛門の名がある。南さつま市歴史交流館金峰の主な展示物に田布施郷絵図(寛政四年(1792年)に作成され、当時の村落、神社・仏閣、城、門名等が細かく描かれている)があるが、同絵図の右下端に絵図の製作を指揮した人物と思われる郷士年寄 石井次郎太の名が見える。また、天保十年(1839年)九月八日の金蔵院(坊津一乗院の末寺)覚文に郷士年寄 石井次郎右衛門の署名がある。
  • 坊泊の郷士に石井家あり。大姶良地方(現在の鹿屋市)より山伏として入り来たり、そのまま居付きたるものと伝えられている。西南戦争に出陣した石井源助、石井松次郎がいる。

日置市(旧日吉町

  • 吉利の郷士に石井家あり。禰寝氏(後に小松氏)の移封に従い大隅から移住してきたものである。文禄4年(1595年)禰寝重張の旧根占領(小根占、大根占、佐多、田代四郷)から吉利郷への移封に従った士に石井舎人、石井吉左衛門、石井周兵衛の名がある。西南戦争に石井盛年が出陣し、熊本県高瀬で戦死している。

日向の石井氏

宮崎市(旧佐土原町

  • 佐土原藩士に石井家あり。義高の末弟義次は垂水城陥落後、伊地知氏の家臣になり、波須和義次と称していた。伊地知氏が天正2年(1574年)島津氏に降伏したことにより、一時的に浪人となったが、慶長4年(1599年)垂水領主となった島津以久に召抱えられた。その後、以久は、慶長8年(1603年)徳川家康の命で、日向国佐土原藩3万石の領主となったことから、義次も佐土原に御供し移住したものである。佐土原分限帳に小姓頭石井として見えて居る。西南戦争時、佐土原隊四番小隊小隊長に石井平三がいた。佐土原石井家第12代当主石井隼太陸軍の軍人で、米国視察の後、フランスイタリアへの留学を経て、日露戦争時は野砲兵第10連隊長で陸軍大佐大正元年(1912年)陸軍中将になった。

脚注

  1. ^ 石塔群のうち鎌倉初期と推定されるものが四基あり、中俣氏のものとされ、それ以外は石井氏の石塔である。また、御堂の下の平地に山伏の修行道場があったので、道場観音とも呼ばれる。
  2. ^ 島津氏の国老平朝臣石井義忠のこと。文正二年に願主平義持、平義秀、平義直等が大檀那平義忠のため釈迦仏像を作り安置したもの。
  3. ^ 三国名勝図会に出てくる義仍の仍も「なお」と読むことから平朝臣石井義仍と同一人物と思われる。
  4. ^ 諸家大概記によると、七郎兵衛は兵道家(武士にして山伏を兼ね、敵を呪詛調伏する役目を担う)であったという。薩摩藩では修験道を重んじ、それらの家筋を諸郷に配置した。郷の重役に任じられた兵道家(山伏)もいた。
  5. ^ 噯「あつかい」と読み郷の最高責任者として庶政を統括する役。郷士の中でも門閥の家柄から選ばれた。天明3年(1783年)からは「郷士年寄」と改められた。

参考文献

諸家大概、三国名勝図会、鹿児島県史料(旧記雑録拾遺)、雲遊雑記、平姓石井氏系図、三浦石井氏系図、島津国史、垂水市史、垂水市史料集、小根占郷土誌、吾平町誌、新編田代町郷土誌、金峰町郷土史、坊津町郷土誌、日吉町郷土誌、薩摩医人群像、「さつま」の姓氏、鹿児島県姓氏家系大辞典、郷土人系

外部リンク