向山一人

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向山 一人
むかいやま かずと
生年月日 (1914-02-10) 1914年2月10日
出生地 日本の旗 日本 長野県上伊那郡中箕輪村
(現箕輪町
没年月日 (1995-12-21) 1995年12月21日(81歳没)
出身校 早稲田大学附属高等工学校
所属政党無所属→)
自由民主党
称号 正四位
勲二等旭日重光章
紺綬褒章

選挙区 長野県選挙区
当選回数 1回
在任期間 1986年7月8日 - 1992年7月7日

選挙区 長野県第3区
当選回数 2回
在任期間 1969年12月28日 - 1972年11月13日
1976年12月10日 - 1979年9月7日

選挙区 伊那市選挙区
在任期間 1959年 - ?

当選回数 1回
在任期間 1955年 - ?
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向山 一人(むかいやま かずと、1914年2月10日 - 1995年12月21日)は日本実業家政治家衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。

来歴[編集]

長野県上伊那郡中箕輪村(後の中箕輪町、現在の箕輪町)生まれ。旧制長野県伊那中学校(現長野県伊那北高等学校)を経て、早稲田大学附属高等工学校卒業。古河電工無線研究所研究課長を退職して、1940年東京市荏原区(現品川区)に「興亜工業社」(現コーア) を設立した。1955年伊那毎日新聞設立。1963年には建設省の専門委員、1964年興亜ソリッド社長[1]1967年には日本経済団体連合会常任理事を歴任した。1977年コーア会長に就任。

1962年紺綬褒章受章[1]。1962年5月長野県箕輪町教育施設費のため100万円寄付により1963年2月2日紺綬褒章受章(飾版)、寄付の功績顕著として木杯一組台付を賜った[2]。1962年11月伊那市伊那商工会館建設資金として250万円寄付により1964年4月4日紺綬褒章受章者(飾版)、木杯一組台付を賜る[3]。1962年10月伊那市立伊那中学校体育施設としてバックネット1基寄付により1965年6月12日紺綬褒章受章(飾版)[4]。1964年4月伊那農業高等学校施設として正式籠球板などを寄付により1965年8月14日紺綬褒章受章(飾版)、木杯一組台付を賜る[5]。1959年5月伊那北高等学校建設費として10万円寄付により1966年7月16日紺綬褒章受章(飾版)[6]

政治家として[編集]

1955年伊那市議会議員、1959年長野県議会議員に当選。その後は国政に転じ、1969年第32回衆議院議員総選挙長野県第3区から出馬し初当選。1972年第33回に落選するも、1976年第34回で返り咲きで当選し、衆議院議員を通算で2期務め、福田赳夫改造内閣労働政務次官を務めた。1979年の第35回衆院選には落選して一旦国政から離れるも、1986年第14回参議院議員通常選挙参議院議員長野県選挙区)に当選し、労働・地方行政委員長を務め、1992年の第16回参院選には出馬せず政界引退。同年、秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章[7]

1995年12月21日死去、81歳。死没日をもって正四位に叙される[8]

出典[編集]

  1. ^ a b "向山 一人". 新訂 政治家人名事典 明治~昭和. コトバンクより2023年2月19日閲覧
  2. ^ 『官報』第10838号90-93頁 昭和38年11月28日号
  3. ^ 『官報』第11192号22-24頁 昭和39年4月7日号
  4. ^ 『官報』第11553号14-18頁 昭和40年6月18日号
  5. ^ 『官報』第11607号14-17頁 昭和40年8月20日号
  6. ^ 『官報』第11883号11-14頁 昭和41年7月23日号
  7. ^ 「92年秋の叙勲=勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、外国人受章者」『読売新聞』1992年11月3日朝刊
  8. ^ 『官報』第1820号9-10頁 平成8年1月30日号

参考文献[編集]

  • 『現代信濃人物誌 6』1972年
議会
先代
新設
日本の旗 参議院労働委員長
1991年 - 1992年
次代
田辺哲夫
先代
谷川寛三
日本の旗 参議院地方行政委員長
1988年 - 1989年
次代
渡辺四郎