司馬氏

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司馬
各種表記
繁体字 司馬
簡体字 司马
拼音 Sīmǎ
注音符号 ㄙㄇㄚˇ
ラテン字 Sihma
広東語発音: Si1maa5
上海語発音: Sy1ma2
台湾語白話字 Su-má
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司馬氏(しばし)は、中国ののひとつ。著名な者に西晋東晋)の国姓となった河内郡温県孝敬里のものがある。

司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。この司馬の職にあった者の子孫が司馬の氏を使うことが多い。[要出典]

司馬錯の一族

の将軍司馬錯の家系からは、白起に属して長平の戦いで活躍した司馬靳、その子孫である学者の司馬談、そして談の子で『史記』の著者である司馬遷が出ている[1]。 司馬遷は宮刑に処されたが、その前に娘を一人もうけており、娘は丞相の楊敞に嫁いで、後漢の名門貴族である弘農楊氏の遠祖となった。

司馬卬の一族

楚漢戦争を打ち破った項羽により王に封じられるが、項羽に反旗を翻して陳平に鎮圧され、その後劉邦に破られた司馬卬の家系が有名であり、以後に名を上げる司馬氏は殷王・司馬卬の子孫を称している[2]

晋の国姓

後漢代に至り、司馬卬の末裔と称して、河内郡温県孝敬里の名門として家名を存続した司馬氏[3] では、司馬防の男子8人の評判が高く、全員が字に「達」の字を持っていたため「司馬の八達」と呼ばれた。

中でも次子の司馬懿が聡明さを以って知られ、曹操より腹心として迎えたいという要請を受けている。司馬懿は最初、曹氏に勝る名門としての誇りから仕官を断ったものの、後に求めに応じてその配下となった。曹操の嫡子曹丕と親しかった司馬懿は220年に曹丕が魏の初代皇帝となると重用され、その地位を固めた。

226年、2代皇帝曹叡の代になると、諸葛亮の北伐が開始され、司馬懿と諸葛亮の知恵比べとも言われる戦いが始まる。魏は武将の張郃が討たれるなど苦戦するが、諸葛亮が234年の五丈原の戦いで病死し、戦いは終わった。3代皇帝曹芳の代になると、曹爽によって司馬懿は一時、名誉職に追いやられるが、息子の司馬師司馬昭とクーデターを起こし、政敵を誅殺した上で全権を握った(高平陵の変)。蜀漢滅亡後の264年に司馬昭は晋王の爵位を授かる。司馬昭の死後、265年には司馬昭の息子司馬炎は魏の曹奐より禅譲を受けてを興す。

しかし、晋は皇族らの起こした八王の乱を契機として短期間のうちに衰退する。これに乗じた匈奴の大首長劉淵が晋より自立して匈奴大単于を称し、漢(後の前趙)を建国する。匈奴の軍勢は、311年に劉淵の跡を継いだ劉聡洛陽を陥落させ、懐帝を捕らえた(永嘉の乱)。懐帝は劉聡により、酒宴で酒を注ぐ役をさせられるという屈辱を与えられた後、313年に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて、長安にいた司馬鄴(愍帝)は即位して漢(後の前趙)に抵抗するが、316年、長安が陥落して晋は滅亡した。愍帝は懐帝同様の扱いを受けた後に殺される。

皇族の有力者のうちの一人である琅邪王司馬睿(元帝)は一部の皇族と共に江南に逃れ(五馬渡江)、愍帝が殺された事を受けて即位し、建康に都して晋を再興した。江南に建国された晋を東晋、それ以前の晋を西晋と呼ぶ。

しかし、東晋も廷臣の劉裕の力が強くなり、420年に恭帝が劉裕に禅譲し、劉裕から零陵王に封じられた事により、晋の皇族としての司馬氏は滅亡したが、翌年恭帝が殺された後も零陵王を一族の司馬元瑜が継ぎ、南朝宋の時代まで諸侯王として存続した。東晋滅亡の前後で、司馬叔璠司馬文思司馬楚之などの一部の皇族は華北へ亡命し、この中には北魏の貴族として栄えた家系もある。

また、一部には八王の乱の混乱に紛れて華北に残った皇族もおり、この子孫の中には、司馬子如司馬消難などが居り、この家系の中からは北周皇后を出すなど繁栄している。

黄巾

魏志夏侯淵伝によると、黄巾党に司馬倶という人物の名がある。

その他

脚注

  1. ^ 史記』太史公自序「錯の孫は靳(略)靳の孫は昌(略)昌は無澤を生む(略)無澤は喜を生む(略)喜は談を生む。談は太史公となる」とあり、司馬遷からは司馬錯が8代前の先祖にあたるとしている。太史公自序第七十
  2. ^ 晋書』宣帝紀。s:zh:晉書/卷001
  3. ^ 司馬懿(宣皇帝)に関して記述している晉書卷一帝紀第一では祖先については高陽の子重黎とし、夏官祝融となり、唐、虞、夏、商でその職を世襲、で夏官は司馬となり、宣王の代に休父徐州を平定したことで官名を姓として与えられたとしている。史記太史公自序第七十でも司馬氏の祖は程伯休甫で、周の宣王の代に司馬氏となったとしている。

関連項目