単国璽

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猊下 (en
単国璽
司教区 カトリック花連司教区
着座 1980年2月14日
前任 賈彦文
後任 銭志純
他の役職 カトリック高雄教区名誉司教
輔仁カトリック大学理事長
カトリック明誠高等学校理事長
聖職
司祭叙階 1955年
司教叙階 1980年
枢機卿任命 1998年2月21日
個人情報
出生 (1923-12-02) 1923年12月2日
中華民国中華民国 河南省濮陽県
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単国璽
各種表記
繁体字 單國璽
簡体字 单国玺
拼音 Shàn guóxǐ
ラテン字 Shan Kuo-Hsi
和名表記: ぜん こくじ
発音転記: シャン・クオシー
英語名 Paul Shan Kuo-Hsi
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単国璽英語Paul Shan Kuo-Hsi, S.J., 1923年12月2日-)は、中華民国台湾) のカトリック教会の聖職者で枢機卿

イエズス会士で二度 輔仁大学理事長に就任し、後に輔大の名誉理事長と名誉博士となり、現在はカトリック高雄教区の名誉司教を務めている。台湾が生んだ初の枢機卿でもある[1]

経歴

1923年12月2日河南省濮陽県で生まれた。本人によれば、12歳の頃に日射病により呼吸が十分間止まって「別の空間に入り、イエズス聖母マリア、天使及び聖人がいる」という臨死体験をし、自分が有用な人物になることを願うようになったと語っている[2]

当初は医者を志していたが、当地に派遣されたドイツハンガリー人イエズス会のガスパー・リシェロン神父(Msgr. GASPER LISCHERONG, S.J., 中国名:隆其化)の中国文化や教育の尊重、災害救助活動や日中戦争時に教会や学校に避難してきた難民を守るために、日本の軍人が銃剣で脅しても退かずにその侵入を食い止めた勇気に影響を受けたという [3]。日中戦争後に北平(今の北京)でイエズス会に入るが、その前に彼が18歳の頃に両親が彼の為に婚約の取り決めをした時は、修道生活を志していたために絶食して抗議し、両親は婚約を解消した[4]1955年フィリピンバギオで叙階された。

1980年カトリック花蓮教区司教に任じられ、1991年6月カトリック高雄教区司教に就き、なおかつ天主教台湾地区主教団主席を多く担当した。1998年に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世に枢機卿に挙げられ、中国人で五人目、台湾では初の枢機卿になった。

67歳から三度書面で、そして一度は口頭で教皇に対して教区の牧職の辞職を願っていたが、教皇は彼に教会の服務の継続を望んだので、許可が得られなかった。教皇庁は、2006年1月5日ベネディクト16世が83歳の単枢機卿の引退を認可をしたことを公布した。同年4月、ベネディクト16世はカトリック香港教区司教の陳日君を枢機卿の位に挙げ、これは陳司教が単枢機卿的職務の「代理」をすることを意味した。72歳の時に前立腺炎の二期を患い、2006年8月に単枢機卿が身体検査を受けているときに、肺腺癌に患っているのが判明し未だ広がってはいないが、既に台湾各界の関心が寄せられている[5]。一年休養して後、2007年11月から単枢機卿は台湾7つの教区の「生命告別之旅─人生思維巡迴講座」を進めている[6]、各界の人と対談する方式を通じて、社会大衆に対して単枢機卿自身の歩いてきた信仰の軌跡を語っている。

2009年、世界平和と族群の調和に力を尽くし、並びに自身の病と痛みを人の心を励ます力に転化したため、第五回総統文化賞「平和賞」を獲得した。

また、領導学を研鑽し、「献身と領導」を著してイエズス会に所属する光啓出版社から出版した。

思想

死刑に対して反対の立場を取っている。2010年4月13日に台湾地区主教団が死刑反対の声明を発表したときにメディアの取材を受けて、使役を廃止する重大な意義を強調した[7]

脚注

関連項目

外部リンク

先代
賈彦文
カトリック花蓮教区司教
1980年–1991年
次代
銭志純
先代
鄭天祥
カトリック高雄教区司教
1991年–2004年
次代
劉振忠