侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 | |
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各国語で"犠牲者300000"を強調 | |
各種表記 | |
繁体字: | 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 |
簡体字: | 侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆 |
拼音: | Qīnhuà Rìjūn Nánjīng dàtúshā tóngbāo Jìniànguǎn |
英文: | The Memorial for compatriots killed in the Nanjing Massacre by Japanese Forces of Aggression |
南京大虐殺紀念館(なんきんだいぎゃくさつきねんかん)は、中華人民共和国の博物館。中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」。日本では、屠殺と虐殺を同意と考えて南京大虐殺紀念館と呼ばれるが、本来の意味は異なる。抗日記念館の代表格として中国共産党により愛国主義教育基地に指定されている。
概要
当館では「南京大虐殺」の犠牲者を300000人以上として掲示(最上部写真参照)し、公式見解として世界に発信している[1]が、張連紅(南京師範大教授)が東京財団主催の講演で、「30万人は学術的に根拠はなく、中国の研究は、日本で高まった南京事件否定説に対抗するイデオロギー的なもので、自分が当館を経営していれば、この数字は使わない」と述べる[2]など、その展示物や犠牲者数について疑義も呈されている。
建設の経緯
日本からの要請と寄付
日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された[3]。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計は日本人が手がけた[4]。
建設
1982年、田辺の再三の建設要求と破格の資金提供に対し、中国政府の鄧小平ならびに中国共産党中央委員会が、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。この支持を受けて、1983年、中国共産党江蘇省委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館を設立することを決定し、中国共産党南京市委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。鄧小平は1985年2月に南京を視察に訪れ、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、鄧小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争終結40周年に当たる同年8月15日にオープンした[5]。
拡張工事
2006年6月25日を最後の開館日にして、2006年6月26日から南京大虐殺70周年の2007年12月13日落成を目指し拡張工事が開始され一時閉館となった。完成後の敷地面積は2.2ヘクタールから4.7ヘクタールに大きく拡張される。敷地内の構成は東部地区に新資料館が建設され、中部地区に旧資料館、西部地区には和平公園が建設される。新資料館は地上1階、地下2階で構成され屋上と旧資料館の広場を使用すると3万人規模の集会が開催できる広場となる。拡張工事では華南理工大学建築設計研究院の何鏡堂が設計責任者を担当する。総建築面積23万平方メートル、総工費4.78億元であった。2007年度に完成し、12月に開館した。
2008年1月16日、この新たな南京大虐殺紀念館に対し、30万人という犠牲者数を多数表記するなど旧日本軍の「非人道性」を強調しているとして、上海の日本総領事館総領事が日本政府の「問題意識」として「事実関係に疑義がある展示がある」と南京市幹部らに見直しを求める申し入れを行った。しかし朱成山館長は「配慮すべきところは配慮し、良いものができたと思う」と答え、そのままの状態で公開するに至っている。[6][7]
展示
紀念館は広場陳列、遺骨陳列、資料陳列からなる。広場には犠牲者名を記したものなどの様々な記念碑や虐殺を描いた彫刻などが置かれている。外形が中国の棺桶のような遺骨陳列室には虐殺後に遺骸が棄てられたとされる「万人坑」から掘り出された人骨の一部が展示されており、線香や花束を供える場所もある。資料館には旧日本軍の南京大虐殺や抗日戦争に関するパネル展示や資料展示がある。
『産経新聞』は2008年12月17日に、日本の研究者らが南京事件と無関係であると指摘していた写真3枚の展示を紀念館が撤去していたことを報じた。3枚の写真は「連行される慰安婦たち」「日本兵に惨殺された幼児たち」「置き去りにされ泣く赤ん坊」としていたものであり、特に「連行される慰安婦たち」とされる写真はアサヒグラフに「農作業を終えたあと、日本兵士に守られて帰宅する農村の婦子女たち」として掲載された写真であり、この写真はアイリス・チャンの著書『ザ・レイプ・オブ・南京』や本多勝一の『中国の日本軍』等でも日本の残虐行為として紹介されるなど、国内外で誤用されてきたとしている[8][9]。同新聞は18日にも、「日本の外務省は同紀念館が南京事件から70年にあたる昨年12月に再オープンして以降、この3枚を含む複数の写真について、史実に反すると日本の学問状況を非公式に中国へ伝えていた。3枚の問題写真の撤去は、こうした外交努力の成果といえる」と主張した[10]。
この報道に対し紀念館側は19日に「再オープンして以降、1枚の写真の入れ替えも行っていない。産経新聞に対して強く抗議を表す」と主張した[11]。また、朱成山紀念館館長も「3枚は戦争の背景を紹介する写真として使用したことはあるが、南京大虐殺そのものの展示で使ったことはない。置き去りにされて泣く赤ん坊の写真は上海南駅で撮影されたもので、展示会「上海で殺戮行為の日本軍、南京に向かう」で使ったことはある。その3枚の写真そのものは、いずれも歴史の事実に符合するものだ。また、新館にこれら3枚の写真を陳列したことはそもそもなく、オープンから1年経っても1枚の写真も入れ替えておらず、日本外務省からの通知を理由に写真を撤去したような事実は全くない」などと反論した[12]。
所在地
住所:南京市水西門大街418号
- 北緯32度2分7.90秒 東経118度44分36.67秒 / 北緯32.0355278度 東経118.7435194度(GoogleMap航空写真上の位置はさらに500m西北西)
開館時間
拡張工事で閉館前は 8:30~16:30 月曜休館
見学の状況
とりわけ重要な愛国主義教育基地であるため、紅色旅遊百選の対象ともなっている[13]。
2004年3月より無料開放になった。有料当時の入場料は10元であった。入場者数については、2005年度は2187531人であるが、有料だった1月、2月は月4万人弱であり無料開放後は3月に12万人、4月に21万人と急激に変化している[14]。見学者は、中国人観光客が主体であるが、公安部、人民解放軍も観光バスで団体見学に来ている。外国人観光客も見受けられる。施設敷地内での撮影は可能だが、特別展示のある建物(2004年4月当時は旧日本軍の化学兵器の被害に関する展示)、資料館(百人斬りの少尉のパネルがある建物)での撮影は厳禁である。チャンネル桜では大高未貴が訪問した[15]。
- 要人見学者
関連項目
- ユネスコの世界遺産登録を目指している模様[16]。
- 2007年12月13日の南京虐殺事件70周年を前に、前日の12日に中国・南京市の太平門地区で記念碑が除幕された。碑には「中日の青少年よ、2度と悲劇を繰り返すな」と刻まれている[17]。
- 国軍歴史文物館 台湾(中華民国)台北市にある軍事博物館。「南京大虐殺時の日本軍の刀」として刀身に「南京の役 殺一〇七人」と刻まれた日本刀が展示されている。
脚注
- ^ 南京大虐殺論争を参照。
- ^ 日本財団「東京財団主催の中国人学者講演」
- ^ 浜田幸一『日本をダメにした九人の政治家』講談社[要ページ番号]
- ^ 「南京大虐殺記念館は日本人が造った」(H19.1.29)
- ^ 笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』高文研 p308
- ^ 2008年1月16日東京新聞:南京虐殺展示内容で申し入れ 日本政府「事実関係に疑義」
- ^ 南京虐殺館展示に対し遺憾申し入れ2008年1月16日産経新聞
- ^ “南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去”. 産経新聞. (2008年12月17日) 2010年6月15日閲覧。
- ^ この写真を著書で使用していた笠原十九司も誤用を謝罪し、訂正するに至っている。
- ^ “【主張】南京大虐殺記念館 問題写真撤去を第一歩に”. 産経新聞. (2008年12月19日) 2010年6月15日閲覧。
- ^ “南京大虐殺記念館が産経新聞に反発「写真撤去はない」”. サーチナ. (2008年12月20日) 2010年6月15日閲覧。
- ^ “南京虐殺記念館「問題の写真、日中で異なる見解ある」”. サーチナ. (2008年12月21日) 2010年6月15日閲覧。
- ^ 全国一百个“红色旅游经典景区”详细名录
- ^ 記念館サイト内掲載資料
- ^ 南京記念館レポート
- ^ 南京大虐殺記念館、世界遺産への登録は「時期尚早」--人民網日文版--2004.03.15
- ^ 70周年で除幕された南京虐殺記念碑 | 時事ドットコム