僧兵

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僧兵弁慶と源義経
僧兵の古写真

僧兵(そうへい)とは、日本古代後期から中世近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。

概容

法師武者あるいは武装した僧侶を僧衆、悪僧と同時代でいうが、それを江戸時代以降の「僧兵」と呼称した言葉である。ちなみに悪僧の「悪」は悪党の悪と同じで「強い」という意味合いである。主に寺社勢力に所属する武装集団である。その風貌は絵巻物などに描かれ、頭を包む布や、高下駄薙刀などが特徴とされる。髪は剃っていなかった可能性が高い。なお、これに対し、神社に所属する武装集団を神人(じにん)という。また、日本以外にも嵩山少林寺のように僧兵として武装集団を組織する仏教僧の集団がおり、広義には武装した宗教集団を指すこともある。その場合はヨーロッパの騎士修道会も含まれることがある。

僧兵や神人が活躍した時代は社会が乱れる一方で、広大な寺領神領を有して経済的に豊かであった寺社は盗賊のみならず、さまざまな勢力によって狙われる危険性が生じた。このため、こうした動きから寺社を防衛する武力を保持する必要が出てきた。このような時代背景のもとに一見矛盾するように見える「寺院・神社の武装化」が推進される事になった。

京都奈良の大寺院の雑役に服する大衆(堂衆)が自衛武装したもの。平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺延暦寺園城寺東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷摂関家に対して強訴をくりかえした。以仁王の挙兵では平家とも争う。『平家物語』の武蔵坊弁慶などにも、その描写がみられる。特に、興福寺(南都)は衆徒(奈良法師)、延暦寺(北嶺)は山法師と呼ばれた。白河法皇は、自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。

中央から離れた地域でも有力寺社は軍事力を持ったり地元軍事力と結びつき、当時のパワーバランスに大きな影響を及ぼしていた。源平の争乱の時には熊野水軍を取り仕切っていた熊野別当にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。

室町時代に、かつて義円と名乗り天台座主だった足利義教が、僧兵の軍事力と粗暴さを熟知しているため、延暦寺討伐に動き出して大規模の弾圧を実施した(後年の織田信長も同様のことをやっている)。

各地の有力寺社が軍事力を保持する傾向は豊臣秀吉による刀狩まで続いた。戦国時代の有力僧兵団として以下の例がある。

南都北嶺

その他

いずれも江戸時代までには軍事力を喪失するか、分割されるなどして宗教と軍事力が切り離されている。

  • 日光山輪王寺・・・多数の僧兵を抱え、下野でも有数の武装勢力になる。後北条氏に荷担したため、豊臣秀吉により弾圧され、寺領を没収され衰退。関東に移封された徳川家康の保護により、勢力を回復する。
  • 多武峰妙楽寺・・・興福寺と度々武力衝突を起こす。天正13年(1585年)、大和に入国した豊臣秀長の武装解除要求に応じ、武具を供出。
  • 白山平泉寺・・・延暦寺末寺として、最盛期には8千人の僧兵を抱えて越前に勢力を伸ばす。天正2年(1574年)、一向一揆との抗争で全山が焼失。勢力が弱まる。織田信長豊臣秀吉と早くから結び、寺領を回復する。
  • 聖衆寺 (桑名市)・・・千人もの僧兵を抱える真言宗の大寺院であったが、天正年間(1573年 - 1593年)に織田信長の家臣滝川一益の北伊勢侵攻の際に焼き討ちされて壊滅的な被害を受けた。江戸時代になってから焼け残った堂宇で復興したが、かつての面影は無い。
  • 三岳寺・・・平安時代初期の大同2年(807年)に最澄(伝教大師)によって開かれたと伝わる天台宗山門派の大寺院で、元々鈴鹿山脈の国見岳にあったが、織田信長が比叡山焼き討ちを行う3年前の永禄11年(1568年)に織田信長の命により、滝川一益の軍勢が押し寄せ、当時三岳寺には数百人もの僧兵が居て勇敢に戦ったものの多くの堂宇が悉く兵火により灰塵に帰した。三岳寺の近くの湯の山温泉では、毎年10月初旬には織田信長の軍勢に立ち向かい勇敢に戦った僧兵を忍んで僧兵まつりが行われている。
  • 英彦山・・・修験道場として隆盛し、最盛期には数千名の僧兵を擁した。天正9年(1581年)、大友義統の攻撃を受けて敗れ、勢力が弱まる。
  • 求菩提山護国寺・常在山如法寺・・・求菩提山護国寺は修験道場で、常在山如法寺はもともとその末寺の一つ。13世紀頃から所領を巡って対立を続け、16世紀には大内氏の介入を招く。

外部リンク

関連項目