コンテンツにスキップ

伊集院五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。RedBot (会話 | 投稿記録) による 2012年4月29日 (日) 12:14個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.2) (ロボットによる 追加: ko:이주인 고로)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

伊集院五郎
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1871年 - 1917年
最終階級 元帥海軍大将
テンプレートを表示

伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年8月16日1852年9月27日) - 大正10年(1921年1月13日)は、日本海軍軍人元帥海軍大将正三位勲一等功一級男爵

経歴

薩摩藩士の子として生まれ、明治10年(1877年)の西南戦争に参戦する。イギリスの海軍兵学校・海軍大学校で兵学を学んでいたため、日本海軍の中でも博識であった。

下瀬雅允海軍技師が開発した下瀬火薬の威力を発揮させるため、伊集院信管を開発した。この信管は明治38年(1905年)の日本海海戦日露戦争中)で、下瀬火薬とともにその威力を発揮し、連合艦隊がロシアバルチック艦隊を撃破する大きな要因となった。そのため伊集院は、「日本海海戦勝利の影の功労者」と言われている。

日露戦争後は第二艦隊司令長官、第一艦隊司令長官を歴任した。第一艦隊司令長官時代に行った猛訓練は「月月火水木金金」といわれ、後に同名の軍歌が作られるに至った。

大正6年(1917年元帥府に列せられた。

年譜

※日付は明治5年までは旧暦

日露戦争凱旋式当日の海軍首脳 左4人目から順に
伊集院、上村彦之丞東郷平八郎山本権兵衛伊東祐亨片岡七郎出羽重遠斎藤実山下源太郎
中列左から5人目島村速雄加藤友三郎

親族

著作等

  • 「明治十四年第一月一日南亜米利加白露国カルレオ港停泊英国旗艦ツライアムフ号乗組我海軍生徒伊集院五郎ヨリ川村海軍卿其他ヘ報知セル書翰ヲ訂正シテ白露知里両国の戦況等ヲ掲載スル」海軍省雑誌1号、1881年5月。「白露」はペルー、「知里」はチリ。

参考文献

  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。


先代
東郷平八郎
連合艦隊司令長官
第5代:1908年10月8日 - 同11月20日
次代
吉松茂太郎
先代
東郷平八郎
海軍軍令部長
第9代:1909年12月1日 - 1914年4月1日
次代
島村速雄