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今西家住宅

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今西家住宅

今西家住宅(西側)
所在地 奈良県橿原市今井町3-9-25
位置 北緯34度30分24.08秒 東経135度47分0.81秒 / 北緯34.5066889度 東経135.7835583度 / 34.5066889; 135.7835583
類型 陣屋
形式・構造 八棟造り
延床面積 326.2㎡、桁行15.9m、梁間13.8m
建築年 慶安3年(1650年
文化財 国の重要文化財
所在施設・区域 今井町
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今西家の東側外壁と軒裏を覆う防火性をもつ漆喰塗り(外部白漆喰塗)
今井町を囲む西環濠、中央奥は今西家
今井町の町並
今井町の道すじ

今西家住宅(いまにしけじゅうたく)は、奈良県橿原市にある歴史的建造物。重要伝統的建造物群保存地区として選定されている橿原市今井町にある。

戦国時代の構造様式を残す建造物で慶安3年(1650年)に7代目当主今西正盛によって裁判を行うために改築された陣屋[1]であり、住宅[2]で、別名「八つ棟」(やつむね)または「八棟造り」と呼ばれている[3]。また、天正3年(1575年)、織田信長本陣の地であった。

東京大学工学部建築学科による町屋調査を経て、昭和32年(1957年)6月18日に国の重要文化財に指定され、慶安3年3月22日の記がある棟札[4]が重要文化財の附(つけたり)指定とされた。その後文化財保護法により根本修理に着手することとなり、奈良県教育委員会が今西家から委託を受けて昭和36年3月に起工し、同37年10月に竣工した。

今井町の歴史

今井の町勢の概略は、東西 600m、南北 310m、大体長方形の地形で東西南北方眼状に道路を配し、その地形や街路の形状は、町造りの始められた頃からの形状がほぼ残されている。

以上のようにして町の外郭が出来上がり、その中に街路を配し現在の町並みに近い区画が出来上がるわけであるが、街路は前述のように町の端から端まで通り抜けのものではなく、入口で屈曲、あるいは途中でT字型に組んで見通しのできないように配備されている。

その上、街路の端々の東西南北に9つの門があり、夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいた。もし、外来者が今井町内で宿泊する必要のあるときは、その都度、町年寄へ届出を必要とした。 このような形態で今井の町造りが始まり、惣年寄制によって自治権を確立した町並みが出来上がり、江戸初期から末期にかけての民家が軒を連ね、そのうちでも今西家住宅は、当初から現位置にあって、ひときわその威容を示していた。

現在の今井町には今西家住宅と同様に外壁を大壁で包んだ古い町並が続いているが、これは寺内町今井の町造りが完成した江戸初期から中期・末期に栄えた今井町の町並の形態が現在まで残されてきたわけである。

この古い町並の外周には環濠跡を現在に残している。この環濠は巾三間(約 5.45m)を有し、同環濠を掘り上げた際のを盛り上げて土塁を築き、東西南北に9つの門を開けていた。このような集落を必要としたことは、中世未明から信奉してきた一向宗への弾圧からの自衛のために町造りの形態がそのまま残されてきたわけである。現在の今西家住宅は、1650年の改築以前1560年代に今井郷の西端の要塞として櫓 (城郭)及び住居が築かれていたことから2度目の普請であるが、あたかも西の天守閣[5]といった堂々たる風格を現していた。   このようにして今井の町造りが始まり、現在の今井町に変わってきた。なぜこのような町造りが必要であったか、また今井町のなりたちを知ることは、今西家住宅建立の背景を知るうえで必須であるので、それらを先に述べる。

現在の橿原市は、大和政権から律令国家成立期にかけ上代文化の発祥地として由緒ある土地柄であり、今井町はその北西方に東西に長く位置している。この頃の地勢は地下の軟弱な状態からみて、あるいは泥地のような湿地帯でなかったかと思われる。ところが今井町より東北 1.5 km の位置にある八木町は、奈良・京都・難波・伊勢・四日市・吉野・紀州路への交通の拠点で、八木周辺はその意味で古くから町屋化し、自然と商業も盛んになり、中世の今井町も隣接の八木の商業が入り込み、今井の町を形成してきた。しかし、記録にはそう古いものはなく、今井の地名が見えるのは、至徳3年(1386年)に今井の地名が出てきて、この頃は興福寺であった。 

今井については、中世末期において一向宗本願寺の進出によって一転機がおとずれ、俄然頭角を現すようになった。今井郷が都市的に発展したのは、本願寺一向宗の真宗の道場を建設して以来のことで、町並の整った寺内町今井が成立した。このとき今井郷の形態は、外敵と郷民の自治を守るために、郷の周辺にを巡らし、土塁を設けた環濠集落で、現在もその濠跡が今井の周辺にその遺構を残している[6]。 また今井町の現道すじは、比較的に整然と残っているが、町の端から端までまっすぐ通ったものではなく、入り口部において道幅だけ屈曲しているか、少し入ったところで丁字型に突き当たっていて、外部より町中を見通すことの出来ない仕組みになっている。

現に今西家北側の道路の本町筋では、本建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪く、現在のように自動車が頻繁に通る都市としては不適当な町並である。今西家の前を通る道路は、この角で折れ曲がって小さい枡形を形成し、二階の窓は町内の道を真っ直ぐに見通す位置につくられている。その機能も意匠も物見櫓とよく似ているが、この家の性格を示してくれる。 

天正2年(1574年)、本願寺が織田信長に挑戦したとき、今井郷民のほとんどの者が商人であり兵力は、十市家、川合家の一族郎党と長島一向一揆の残党を中心にした戦力であったが、本山に呼応して今井郷民も蹶起し、佐久間信盛を大将とした明智光秀配属の筒井順慶率いる織田の軍勢とよく戦ったが、結局降伏を余儀なくされた。このとき河瀬兵部丞は今井におらず、天正10年(1582年)に復帰している。

そして、明智光秀と筒井順慶と親しい堺の豪商津田宗及の斡旋により信長と和した。 

寺内町の強い団結力と抵抗には、さすがの信長も一目おき、翌天正3年(1575年)に今西家の南側に本陣をしき、武装放棄を条件に「万事大坂同然」として、この町に大坂と同じように検断権を認めた。それ以降、自検断の場として今西家の土間をお白州に見立ててお裁きが行われる陣屋となる。 その折に信長は褒美として様々な物品を下賜し、今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にした事が旧今井町役場の資料に残っている。

その後、関ヶ原の戦いの後、一時的に幕府領になったことがあったが、延宝7年(1679年)に今井町は天領になった。この時、今井家と今西家は武士の資格を停止せられ、今井氏は純然たる釈門に帰し、今西氏は郷中並となって惣年寄筆頭となった。この時点で凡そ104年間続いた自治都市制度を終焉させることとなり、環濠西側の外部に同心屋敷と呼ばれる代官所が設けられた。しかし、幕府にとって今井町の財力は大きな魅力で、他とは違う支配体制で優遇した。つまり、初めは今西・尾崎両家が任命され、後に上田家が加えられて合計3人となり今西家、尾崎家、上田家の3人の惣年寄を頂点に町年寄町代を置き、自治的特権を与えた。 この頃の惣年寄の仕事はどのようなことをしていたかというと、今西家の古文書には、

「惣年寄義ハ古来より六町之〆括り取捌役ニ而勤来、公事訴訟願等の義は勿論御上より被仰渡候御用町年寄へ申渡、尤下より申上候義、何事ニ不依、公事訴訟之義ハ当人又は町年寄江改相談、相済候義ハ埒明、滞申義者御役迄申上候義ニ而勤来候、依之御給地之時分、御地頭様へ御目見等も御家中並ニ被仰付相勤申候、」

とあるように今井六町の締括り役であって、領主・代官の町方支配の一翼を担っていた。

本建物の特色

1階の土間から座敷側を見る。画面左手が入口、部屋は左が「みせのま」、中央が「なかのま」、右が「だいどころ」。梁や柱を現しにして仕上げた真壁がみえる。
土間を入口側から見る。右側手前が「しもみせ」、左側手前が「みせのま」、「みせのま」の奥に「みせおく」がある(この写真ではみえない)。左側中央に大きな「しきだい(式台)」が見える。また、見上げた低い天井の上階には「つし(厨子)」がある。

概要

当建物は、住宅としては、不便な土間部が平面形式の半分も占有し、上段框式台を配置して格式を意匠したことなどから陣屋として設計され、建築施工されたことが明らかである。

入母屋造、本瓦葺き、一部2階建て。北を正面として建ち、南側と北側に庇を付す。また、南東側に2階屋の突出部が付属する。規模(南東突出部除く)は桁行15.9メートル(8間)、梁間13.8メートル(6間半)、軒高4.7メートル、軒の出0.820メートル、棟高11.4メートル、建築面積215.2メートル、延面積326.2平方メートル、屋根面積390平方メートル。

間取りは西半(正面から見て右側)を土間(おにわ)、東半を居室部とする。1階の居室部は2列6室の六間取りで、土間に面した下手は手前から「みせのま」、「なかのま」、「だいどころ」とし、上手(東側)は手前から「みせおく」と呼ばれる奥座敷、「なんど(納戸)」、「仏間」[7]とする。仏間の南には押入と階段を隔てて、8畳の離れ座敷がある。この座敷部分が前述の突出部にあたる。 土間の北西隅は壁で区切り「しもみせ」とする。「みせのま」「みせおく」上の2階には座敷2室がある。また、「しもみせ」から大戸口にかけての上部にはつし2階(いぶし牢)がある。「なかのま」、「だいどころ」、「なんど」の上部もつし2階とする[8]。なお、各部屋の名称については、文化財指定後に京町家を参考にして便宜上命名されたものである。

特質

本建物の特質としては、棟札が残っていると共に屋根の棟の端部を飾る鬼瓦に刻まれた刻銘(鬼瓦銘)によって慶安3年の建立年代が明らかであり、建物の妻面には複数の屋根の稜線が見える重ね妻の棟数の多い建物で、天守に千鳥破風や唐破風を付けて外観を立派に見せる手法と同じであり、低い方の破風は構造上の必要性はまったくない。また、外部白漆喰塗により柱を隠し、軒下まで塗りあげ大壁構法を用い、を思い起こさせる建築様式である。

大屋根、庇(ひさし)とも本瓦葺、外壁は大壁白漆喰に仕上げられ、正面には太い格子が入っており、2階窓の格子は軒(のき)と同様に塗籠められている。

梁は、細い幅の面を数多くつくって、元の丸太の形をあまり変えない「瓜むき」といわれる加工法で、戦国時代の城郭建築の特色を残している。 井桁に組んだ太い梁の上に小屋束を立て、貫(ぬき)で連結した豪壮な小屋組は、寺院の庫裡を見ているような錯覚をおこさせ、棟と直角に設けられた煙出しも城郭を彷彿させる。

平面形式は約半分を土間が占め、床上部分との境は鴨居敷居突止溝(つきどめみぞ)と一本引きになっており、板戸が入っている。この突止溝は他の間仕切りにも見られ、城郭建築に使われる技法である。これは、1560年代に建立されたときの名残であり、土間に井戸が残っているのも籠城のときを考慮してのものである。

床上内部では、帳台構え[9]、各間仕切の敷居・鴨居が突き止めであることなどが一階平面の特質である。

1階の居室部は前述のとおり6間取りとなっており、そのうち4通りより南の4間(「なかのま」、「なんど」、「だいどころ」、仏間)が上段になっており、部屋境には太い上段框が付いている。 「なかのま」は、古くは「おうえ」と言われた座敷で畳十畳敷きになっており賓客を招じるに格好の間になっている。「なんど」との境に帳台構えがあるが、この種民家に古式をとどめた帳台構が完全な形で残っている所は極めて少なく、貴重な存在である。「なんど」への出入口は、帳台構えの板戸を開け、一段上がった框を跨いで入るのが建前となっていた。帳台構えの出入口及び2段押入にはすべて「くろろ」(猿落とし)が付いていて、いずれも戸締りが完全にできるようになっている。他の部屋にも「くろろ」が付いており、外から遮断できるようになっている。 今井町でこのように「くろろ」が付いている住宅は他には見当たらないことからして外敵からの防御を常に意識していたことが考えられる。

2階には付きの座敷のあることが注目される。2階にこのような座敷を造ることは、階級意識が強かったこの頃では、上から人を見下げるということで、一般民家には用いることが許されなかった。 現在、本建物が建っている位置は、旧環濠集落の西端にあって、西の要といったことから外敵を威嚇、あるいは防禦する意味において、城郭を思わせる建築様式を備えさせたものと思われる。 したがって、本建物は故意に北側の道路上(本町筋)に突出していて、2階座敷北と東の両面に塗籠(ぬりごめ)の連子窓(れんじまど)を設け、外敵の見張りあるいは町内の動向をさぐるに格好の場所であったと思われる。

なお、身分制度などの規制を強化した元和元年(1615年)の武家諸法度発布から、規制が緩和される元禄時代までに2階床の間と式台[10]があったことから、この家が武家であったことの証しとなっているのである。

内方高さが現行内方高さに合っており、畳寸法についても旧尺貫法で長さ 6尺3寸、巾 3尺1寸5分の現行京間の畳が使われている。

以上の特質のうち2階座敷、式台、上段框を除けば、今井町に現存する古い民家に共通した構造形式を用いているが、その中でも旧形をよく保存されてきたのは今西家住宅のみで、他の建物では随時改変されている。

本建物東南隅すなわち仏間南に2階屋(別間)が接続しているが、この2階屋も後補のものではなく、本建物と同期のものであることがわかった。この2階屋は改変がはげしかったために、昭和32年本建物指定調査の際は、一応保留という形になっていた。再度の調査で本建物と同期のものであり、当然追加指定ということも考えられたが、内部改造のはげしかったことと、当主の希望などもあって指定しないことにした。別間の構造形式は、主屋と大差はないが、各部材の大きさの比例関係である木割りの小さいことと、1階南端柱間には書院のような痕跡のあることから、南8畳間の座敷は、書院形式のものであった。

仏間南現在押し入れのある個所は、もと東西に長い4畳間であって、この4畳間から2階に上がっていた。2階は現在前記4畳間上部は現昇降口及び押入れ・南に8畳間の座敷を有しているが、もとは厨子形式のものであった。

この別間と向い合って西に三階蔵と主屋西側の濠沿いに下屋があり牢屋であったが、昭和2年(1927年)の北丹後地震で倒壊した。

沿革

大正初期の今西家住宅西側(牢屋及び三階蔵残存)

本建物の沿革については、解体修理の際発見された瓦銘や刻銘から述べると平瓦の中に明暦2年(1656年)の刻銘のあるものがあり、明暦2年は創立から7年後のことで、もし、この頃に屋根葺が行われたとすれば、銘のある瓦と同種の瓦が相当数出てこなくてはならないが、それらの資料の得られないところから考えると、何かの災害によって応急的に一部の瓦が補足されたのではなかろうかと思われる。

次に元禄6年(1693年)の瓦銘については、慶安3年に創立されてから43年後で相当数の平瓦が補足されており、また文政8年(1825年)の瓦銘のある瓦と同種類の瓦が半数近くあり、これらのときに屋根の葺き替えの行われていることがわかった。 元禄と文政の修理は屋根だけでなく、外部大壁および軒裏の塗りかえ、内部間仕切の改変など相当大規模な修理が行われてきたようである。

その後、昭和初年までは記録的には何の資料も得られなかったが、内部の壁が3回くらい塗りかえられているところから、文政以降にも破損の都度修理が行われてきたようである。

昭和2年(1927年)の北丹後地震により、本建物西に接続していた牢屋と、南の三階倉が倒壊した。この頃には本建物も相当破損していたようで、特に西南隅の地盤沈下に伴い、本建物が西に大きく傾いていたようである。 江戸時代であれば、この程度の修理は官費で賄えたであっただろうが、明治維新後は廃藩置県によって、長年勤めてきた惣年寄の役職もなく、男爵位を明治政府から薦められたものの手続き費も儘ならないほど窮迫していたようで、一市民としては簡単な修理が精一杯のようであった。

それで牢屋や3階蔵の復旧は行われなかったが、牢屋接続部の屋根の修理と、これ以上本建物が西に倒れないよう土間西側から斜めに支柱を入れて補強し、別間も本建物と平行して傾斜していたので、本建物と接続する桁・母屋などの横架材を切り離し、別間だけ独立して傾斜を復旧していた。このとき仏間南旧4畳間の中央東西に筋違い用の壁を新しく設け、同壁の北に仏間側からの押入れ・南間西に2階昇降口、東に別間座敷側の押入れを、それぞれ新設し、2階も現在風に改変されていた。

このようにして別間の創立年代が明らかになり、昭和初年には立ちを直し、締め直しも行われてはいるが、軸部の弛緩激しく、東大壁の弛緩が特に目立ち、本建物に並行して修理の必要があったのであるが、予算の都合で壁の応急修理のみにとどめた。

今西家現在の宅地は、北・東とも道路に面して旧状どおり、南面は、県道(御堂筋)までになっているが、児童公園南春日神社境内一円も旧宅地であった。県道は、明治10年(1877年明治天皇行幸の際に県に寄贈して開通したものである。 また、今西家南側に織田信長本陣跡のが建っていたが第二次世界大戦の戦火を危惧し撤去された。なお、市に寄贈された西側の現児童公園には、今西家の茶室があった。

2階正面の壁面には、向かって右側に川の字の井桁枠で囲み川合家の定紋を入れ、左側には菱形3段に重ねた武家を象徴する旗印を付けている。

『棟上げ慶安参年参月廿弐日』の棟札をもち、今井町では最も古い建物で、文化財指定外の主屋南隅に接続する角屋の離れ座敷(角座敷)および2階部屋も同期のものである。

今西家の由緒

川合・今西家の先祖は、大国主神の子たる事代主神に系譜し、安寧天皇の第三子磯城津彦命の後裔である古代豪族・十市氏である。南北朝時代 (日本)に十市城主・十市民部太夫遠武の次男・十市次朗太夫直武が奈良県北葛城郡河合町大字川合にある廣瀬大社神主・饒速日命の後裔である曾禰連樋口太夫正之の婿養子となり、八千余石を領して河合城を築き城主となり河合民部少輔中原遠正と称し、南朝 (日本)武将として戦ったのが川合・今西家初代である。「曾禰樋口氏系図」(河合町史)

筒井順慶に圧迫されて今井郷に亡命した龍王山城十市遠勝の後を追って、永禄9年(1566年)に一族である河合権兵衛尉清長(後改め川合長左衞門正冬)が家臣と共に当地に移住した。

十市家と川合家を恃んできた河瀬新左衛門氏兼を石山本願寺顕如上人光佐の門流に属させて河瀬入道兵部房とし、新しく今井郷に道場を営立して住職とし、一向宗と結んで、時の権力者織田信長と闘うために街の周囲に環濠土塁をうがち、西から今井を守るべく櫓などを備えた城構え(現今西家住宅地)を築き城塞都市化した。

また、藤原氏とゆかりの深い川合・今西家5代目当主今西與次兵衞正冬は、春日神社天台宗多武峯妙楽寺末寺の常福寺を祀り造営した。春日神社から八幡神社一体及び土塁・環濠は幕末期まで今西家の宅地であった。

元和7年(1621年)5月、大坂夏の陣の功により郡山城主で徳川家康の外孫の松平下総守忠明から今井の西口を守ったことから今西姓を名乗るようにすすめられ、5代目から今西姓を名乗った。その時に薙刀来国俊を拝領している。その後、延宝7年(1679年)に今井町が天領になり、今西家は武士の身分を停止され町人身分になって、100年余り続いた自治権を失効することになるが、惣年寄筆頭職を幕末期まで務め、廃藩置県後も引き続き明治政府から市中取締りを命じられている。

和州十市城主氏姓傳(奈良県立奈良図書館蔵)】

  • 一代 - 継綱(小字長丸従三位宰相継成後改継綱 鎌足五代胤正二位大納言)
  • 二代 - 継遠 (従五位右大辯)
  • 三代 - 遠長 (従五位ノ修理太夫十市大和守始爲武家)
  • 四代 - 遠國 (従五位下大和介)
  • 五代 - 遠貞 (従五位下民部少輔)
  • 六代 - 遠秀 (文太夫)

       - 女子 (十市采女藤原友子)

  • 七代 - 遠吉 (武太夫)
  • 八代 - 遠冬 (新太夫)
  • 九代 - 遠元 (新太夫)
  • 十代 - 遠次 (小太夫)
  • 十一代 - 遠淸 (兵太夫現光院大梅大居士)
  • 十二代 - 遠武 (従五位下民部太輔明光院梅心大居士)
  • 十三代 - 遠光 (兵部太郎従五位兵部太輔改藤原號中原大光院淸窓大居士)

       - 遠正 (河合次郎太夫従五位下民部少輔・川合・今西家初代)

  • 十四代 - 遠久 (左衞門尉滿光院月淸大居士)

       - 僧  (壽榮法印)        - 重則 (十市彈正)

  • 十五代 - 遠兼 (左衞門尉慈光院月窓大居士)
  • 十六代 - 遠忠 (小字兵部太郎従五位下兵部太輔光德院丹大居士)

        - 僧  (榮弘法印)

  • 十七代 - 遠勝 (小字小太郎太郎左衞門尉慈現院枩月大居士)

        - 忠久 (十市大膳)

  • 十八代 - 遠益 (左近將監玄蓄頭・早世)

        - 遠高 (十市小次郎常陸介大慈院窓光大居士)

川合今西氏傳

一、大織冠鎌足十六代胤大和國十市郡十市城主従五位下民部太輔藤原後改中原遠武二男十市次郎太夫遠正同國廣瀬郡川合又作河合廣瀬大明神ノ社司樋口太夫正之カ婿養子ト成リ廣瀬ノ神領十市ノ分地等合テ八千餘石ヲ領シ河合ノ城ヲ築キ河合民部少輔中原遠正ト號ス其城跡於今ニアリ實兄十市兵部太輔遠光ト共ニ爲楠氏麾下茲ニ延元元年丙子八月廿八日夜後醍醐帝吉野ヘ御潛幸ノ節楠氏ノ下知ニ依リ十市兵部川合次郎兄弟五百餘人ニテ奉送之賞ニ従五位下ニ叙セラレ河合民部少輔ト號ス遠正時ニ廿八歳也一云此時改直武其生質文武ノ兩道ヲ兼備シ其功最數度ナリ貞和五年正月五日楠帶刀左衞門尉橘正行同次郎正時兄弟河州四條索手ノ合戰ニモ分捕高名シ其身ニモ七ケ所手課シカノモ遂ニ無恙キ時ニ遠正四十一歳也其後楠次郎左衞門尉正儀カ手ニ屬シ軍功數多ニテ感状ヲ與ヘリ百代後圓融院明德元年庚午七月五日八十二歳而卒ス號光長院梅窓大居士
二代
一、正直遠正カ長子也刑部太郎知勇アリ從兄十市左衞門尉遠久ト共ニ筒井藤市丸小太夫カ麾下タリ應永廿年癸巳三月七日十市遠久ノモニ藤市丸ヲ大將トシ同國越智箸尾氏等ト大ニ戰ヒ遂ニ切リ勝彼等ヲシテ筒井家ノ麾下ニ屬シム藤市丸小太夫ト筒井氏四十三代順永法印ノ叓也正直其外勇功數度ナリ河合ノ城主ニシテ領壹萬石室ハ外池氏土佐守武國カ女也正直百三代後花園院文安五年戊辰四月二日卒ス七十五歳號光安院窓月大居士妹宇多郡明山右近親直カ室也
三代
一、勝正河合長太夫刑部太郎正直二男也姉ハ十郎左衞門尉遠兼カ室也勝正二十人ヲ兼精兵ノ手垂レ其外文武相達シケレトノモ媱亂況醉ナル故ニ蒙父勘氣牢士ト成後從兄且姉婿遠兼ニ依テ蟄居ス正直モ偏屈ノ義士而不立養跡卒去ノ後河合城壊タリ勝正文明十三辛丑年四月二日遂罹大酒難頓死ス五十八歳號窓密居士也
四代
一、正治河合助衞門尉勝正長子也父トトモニ牢士ト成住十市城下父卒去ノ節纔ニ八歳也生質陰欝ニテ閑居ヲ好ミ和歌ヲ克ス永祿九丙寅年五月十日病死九十三歳號窓秋居士也
五代
一、正冬正治長子母吉備忠介直益女也正冬始河合長左衞門後ニハ與介與次兵衞ト云リ父ト同ク十市城下ニ牢居セリ兵部少輔遠忠ニ屬セリ知勇アツテ且志シ歌道遠忠弟榮弘弟僧都ヲ師トセリ大和國中ノ族士等ニ遊客ト成テ意ヲ娯メリ茲ニ親鸞上人ノ末葉顯如上人光佐皇百四代後土御門院明應六丁巳年ノ春ヨリ於攝刕大坂阿古瀨カ淵ヲ築キ始テ城郭ヲ構テ在住シ宗旨益繁榮セリ河合氏等モ數信皈セリ此宗旨也然ニ織田信長公天下ノ権ヲ執玉ヒ威光都鄙ニ及ヘリ親鸞派ノ出家トシテ名利ニ陥リ酒色ヲ嗜ミ甲冑ヲ帶シ劒戟ヲ執ル甚悪ミ怒速ニ大坂城ヲ明渡シ偏ニ一向宗旨ヲ可修使价數多度ナリ雖トモ上人確執シテ不和故信長公大ニ怒リ諸將ニ被命於此大坂城ヲ始諸國交戰蜂ノ如同ク川合長左衛門正冬モ一向宗旨信仰ノ故ニ一揆ヲ促ケリ是ヨリ先ニ近江出生河瀬新左衛門氏兼(始言ト高陰)云牢士アリ彼ハ元近江源氏ノ氏族永田刑部太夫高長カ子ニ河瀬太郎太夫高光一子也幼稚ニシテ父母ニ後レ山門ニ登リ僧トナリ後還俗シテ大和ニ來リ十市氏幵川合一家ヲ依リ怙リ故ニ正冬件ノ氏兼ヲ剃髪セシメ大坂ニ通シ光佐上人ノ門派ニ属サシム只今ノ今井郷ハ家スチハ二三十軒計ノ小里ナリケルヲ正冬築キ立テ大郷トナシ又新ニ一道場ヲ榮立シテ河瀬入道兵部房ヲ住職タラシム川井氏カ介立ニテ其胤今井一郷ノ檀那寺ナリ正冬一族幵兵部等ヲ先トシ千餘人四方ニ堀ヲホリ土居築キ小櫓ナトヲ構ヘ近邊ヲ放火シ威ヲ振テ上人方トテ楯籠リ寄手ハ筒井順慶法印惟任日向守光秀ノ兩勇將七千餘人ニテ取圍攻ケレドモ一向信仰ノ諸士多キカ故ニ弓矢ハ鏃ヲ拔キ鐵炮ハ玉ヲコメス或兵粮ヲ入又ハ返忠シケル故終落居セス却惟任カ先手ヘ毎度夜討シ陣營ヲ騒シタリ其後禁裏ヨリ御扱ニナリテ天正三庚辰年七月上旬顕如敎如准如三上人等紀刕鷲ノ森ニ閑居アリシカハ今井モ共ニ和平シテ矢倉等ヲ下シ先規ノ如ク宗門相續可致之旨從信長公御朱印ヲ賜リ軍族ノ時ハ十市氏ニ附シテ筒井家ノ麾下トナレリ正冬カ介抱ニテ道場ヘノ寄知行二千石餘アリシト也豊臣家ノ治世ニモ大和大納言秀長ヨリ信長先規ノ通ノ命アリ然後慶長十九甲辰年大坂騒動起レリ於キ是筒井家ノ牢士大和國中野武士等大方ハ大坂ノ城ヘ馳入リ長左衛門正冬兵部房計ハ堅ク今井郷ヲ守リ不出翌元和元乙卯年四月二六日大坂勢箸尾宮内卿藤原重春ヲ大將トシ萬歳備前守友興同太郎兵衞友滿同藤四郎友次布施太郎左衞門春行同小太郎春次細井兵介武春幵大野主馬介治房組ノ諸士等馬上百騎上下二千餘人大和路ニ發向シ同二九日筒井順慶法印養跡筒井主殿頭定慶同紀伊守藤原慶之等ヲ追落シ郡山城ヲ燒拂ヒ百濟南鄕寺田邉ヲモ放火シ今井郷ヘ押掛近邉ヲモ燒立ケルニ長左衛門正冬ハ健者ニテ道場ノ兵部幵檀那地下等ヲ促シ西口ヘ出向鐵炮ヲ打セ邉ヲ拂ツテ守リケル大坂方ノ大和ノ諸士等ハ正冬ト舊友ノ好ミアル上ニ一向宗多カリケレハ構ハスシテ乾ノ方ヘ引返シ法隆寺表ヲ燒拂ヒ關屋ヘ懸リ國分ヘ引取リ今井ノ郷兵火ノ難ヲ免シハ正冬カ働キ故也ト國中擧シテ感心セリ


  • 初代 - 遠正 (十市民部太輔遠武次男十市次郎太夫直武後改従五位下河合民部少輔遠正)
  • 二代 - 正直 (遠正長子河合刑部太郎)

      - 女子 (和刕宇多城主秋山右近源親直室也)

  • 三代 - 勝正(正直次男河合長太夫) 

      - 女子 (十市左衞門尉遠兼室)

  • 四代 - 正治(勝正次男河合助右衞門尉)
  • 五代 - 正冬(正治長子河合長左衞門後改今西與次兵衞)
  • 六代 - 正次(正冬嫡子本家今西與次兵衞)

      - 正長(正冬次男今西長兵衞)

  • 七代 - 正盛(正次長子今西與次兵衞)
  • 八代 - 盛芳(正盛次男今西與次兵衞)
  • 九代 - 正武(盛芳長子今西新之助)
  • 十代 - 栄正(正武長子今西長太夫)
  • 十一代 -正甫(栄正長子俗名お屋寿今西與兵衞)
  • 十二代 -正高(正甫長子今西宗三郎)
  • 十三代 -正巖(正高長子今西逸郎)
  • 十四代 -正文(正巖長子今西元治郎)
  • 十五代 - 武次郎(正文長子)
  • 十六代 - 一郎( 武次郎長子)
  • 十七代 - (一郎長子)
  • 十八代 - 啓仁(博長子)

所在地

  • 奈良県橿原市今井町3丁目9番25号

脚注

  1. ^ 武士身分の今西正盛によって自治都市の裁判所として普請されたことから民家ではなく陣屋である。平面形式の半分が土間であり、お白州として使用していた。また、本建物の西に牢屋が接続していた。
  2. ^ 延宝7年(1679年)に今井町が天領になり、今西家は武士の身分を停止され町人身分になって民家となるが、依然として江戸時代末期まで簡単なお裁きが行われていた。
  3. ^ 八棟造りには一定の形式というものがなく、強いて似ているところがあるとするなら装飾的な破風が屋根に多くつけられていることである。伊勢の射和の富山家や小田原宿の外郎家も八棟造りと名所図会などに描かれている。今西家では屋根の妻側に破風を二重に重ねるので「重ね妻造り」ということもいえる。それだけ個性的で威風堂々とした破風である。また、旧今井町役場資料によると織田信長が本陣を布いた際に「八つ棟」と名付けたという説もある。
  4. ^ 上棟時の年号や施主名や大工棟梁を初めとする施工関係者の名を墨書きして棟上げのとき棟木に打ちつける木札
  5. ^ 本町筋と御堂筋に跨って建設されている事は外敵を威圧し防御する目的を負うと共に本建物をより大きく見せている。また、改築前1560年代の本建物は軍事が目的であり、今西家の身分が武家であったことから城もしくは櫓である。
  6. ^ 橿原市教育委員会の調査により今井町の南西部で南北に延びる幅約2メートルの外濠跡(深さ約80センチ)の西端を確認した。この外濠の幅は約15メートルと推定される。平成10年度の調査で、町の正面入り口に当たる西門の東側で同時代の内濠(幅9メートル)と外濠(幅8メートル)が同時に見つかっていた。周辺は16世紀中頃から後半にかけ、東西450メートル、南北250メートルで2重や3重の濠を設けたとされる。外濠は信長に降伏後、埋めさせられたとされる。
  7. ^ 当家の仏壇安土桃山時代のものであり、親鸞上人直筆の掛軸がある。
  8. ^ 仏間の上部2階部は人が立ち入らない「開かずの間」になっている。
  9. ^ 書院造の上段の間の床の間や違い棚に向かって右側に設けられる柱間装置。多くは漆塗で金具を打ち、表面に絵を描く。元来は、帳台(寝室)の入口形式であるが、近世において装飾化し座敷飾りの一つとなった。また、城郭においては、帳台構の向こうに武者を隠しておいて、主人に危害を加える者があれば、ここから武者が飛び出してきたとも言われている。
  10. ^ 1、身分の高い人の公式の出入り口。2、武家屋敷において来客者が地面に降りることなく駕籠に乗れるように玄関先に設けられた板敷きの間。3、表座敷に接続した家臣の控えの間。

関連項目

参考文献

  • 重要文化財今西家住宅修理工事報告書(奈良県教育委員会事務局内奈良県文化財保存事務所編集兼発行者)
  • 日本の美術 民家 (平凡社)
  • 世界の美術 日本の建築 (世界文化社)
  • 日本の民家 (学研)
  • 名宝 日本の美術 民家と町並 (小学館)
  • 日本の家1近畿 (講談社)
  • 奈良県の歴史 (山川出版社)
  • 橿原市史
  • 今井町史
  • 多聞院日記
  • 今西家古文書

外部リンク