世良修蔵

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世良 修蔵(せら しゅうぞう、天保6年7月14日1835年8月8日) - 慶応4年閏4月20日1868年6月10日))は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。

生涯

天保6年(1835年)、 周防国大島郡椋野村庄屋・中司家の子として誕生。

17歳の時、萩藩藩校である明倫館に学び、後に大畠村月性時習館清狂草堂)に学ぶ。さらに江戸儒者安井息軒三計塾に学び、塾長代理をつとめた。その後、周防国阿月領主・浦靱負が開設した私塾・克己堂の兵学などの講師として仕官し浦家の家臣(陪臣)となった。[注 1]

下関戦争敗戦後に長州藩において奇兵隊が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の赤禰武人の招聘を受けて、文久3年(1863年)頃に奇兵隊に入隊し、奇兵隊書記となる。さらに慶応元年(1865年)の第二奇兵隊発足に伴い軍監に就任した。慶応2年(1866年)、赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の倉敷浅尾騒動事件を受けて隊内の安定のため復職している。この際、浦家の家臣である世良家の名跡を継いだ。

江戸幕府による第二次長州征伐が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、同年6月の大島口において松山藩を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。停戦後は萩の海軍局へ転出し、また京都薩摩藩などとの折衝に当たったが、慶応4年(1868年)1月、幕府方との鳥羽・伏見の戦いに際し前線に復帰し、長州庶民軍である第二中隊(第二奇兵隊)や第六中隊(遊撃隊)を指揮して戦い、新政府軍の勝利に貢献している。特に1月6日1月30日)の戦闘において世良率いる別働隊が八幡山の旧幕府軍陣地を突破する活躍をした。

その後は薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代わり、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては、同年3月、会津藩征伐のために総督・九条道孝以下五百余名と共に派遣され、3月23日、仙台藩藩校養賢堂に本陣を置いた[1]。 会津藩に同情的であり、出兵を躊躇う仙台藩に対して強硬に出兵を促し[2]、また仙台藩士を嘲り[注 2]、傍若無人な振る舞いもあるなど[注 3]、次第に周囲からの反感を高めていく[注 4]。 閏4月12日、仙台藩・米沢藩による会津救済嘆願があったものの[注 5]、世良ら総督使はあくまで武力討伐せよという強硬姿勢をとった[注 6]ため、会津救済の可能性は失われた[注 7]。 そのため、東北諸藩は薩長の軍門に下り会津征伐に向かうか、奥羽越列藩同盟の名において薩長に宣戦布告するかの二つに一つの状態となった[6]

さらに福島城下の金沢屋に宿泊した世良が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日6月9日)に記した密書(「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と書かれていた)[7] [注 8]を、送付の依頼を受けた福島藩士・鈴木六太郎を通じて入手した仙台藩士・瀬上主膳姉歯武之進はその内容に激昂し、世良の暗殺実行を決意する[注 9]。 また世良の暗殺計画は、閏4月14日6月4日)には仙台藩主席奉行・但木土佐らの承認を受けていた[注 10]閏4月20日6月10日)未明、瀬上主膳、姉歯武之進、鈴木六太郎、目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った[9]上で捕縛された世良は、同日、阿武隈川河原で斬首された[注 11] [注 12]。 世良暗殺の報は諸藩重臣の集う白石会議の場にも届き、その場に居た米沢藩士・宮島誠一郎の日記によると、「満座人皆万歳ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉ニ不止」という状況であったという[10]

仙台藩奉行・坂時秀は、宇都宮方面からの政府軍が、重要拠点と考えていた白河小峰城に入城する前にこれを奪うべきではないかと考え、会津藩家老・梶原平馬に書を送った。これを受けた会津藩は、世良が暗殺されたのと同日の閏4月20日、白河城を攻撃し奪取する(白河口の戦い)。この仙台藩強硬派が仕掛けた二つの出来事は、以後の奥羽諸藩全体の方向決定に大きな影響を与えた[11]

また福島城下・金沢屋について遊郭妓楼などと記した文献が散見されるが、実際には旅籠であり、これは城下町における町割りから明らかである[注 13]

なお、妻・千恵との間に一女があったが幼くして死んでおり、直系の子孫は絶えている。また、墓は宮城県白石市陣場山と福島県福島市宮町、山口県周防大島町椋野にある。また、同じく大島町椋野に、世良修蔵の招魂碑も建てられている。

脚注

  1. ^ この当時、既に準士分となっており、大野修蔵と名乗っていた
  2. ^ 会津藩主・松平容保と会見し、その心情を伝えた仙台藩士・玉虫左太夫に対し「其方共ハ奥羽ノ諸藩中ニテ少シハ訳ノ分ルモノ故、使者ニモ使ハレシナランニ、扨々見下ゲ果テタル呆気ニコソ、左様ノモノ共ノ主人モ略知レタモノナリ、所詮、奥羽ニハ目鼻ノ明タ者ハ見当ラズ」(『仙台戊辰史』)と罵倒したという。[1]
  3. ^ 榴ヶ岡の花見において世良は『陸奥(みちのく)に桜かりして思ふかな 花ちらぬ間に軍(いくさ)せばやと』という句を詠んでいる。[1]
  4. ^ 列藩同盟が起草した太政官建白書では「一身ノ挙動ニ至候テハ、貪婪無厭、酒色ニ荒淫、醜聞聞クニ堪ザル事件、枚挙仕リ兼」とあり、世良ら薩長の参謀達の態度を非難している。[3]
  5. ^ 列藩重役による白石会議を経た閏4月12日、伊達慶邦上杉斉憲の両藩主により、会津藩家老名による『嘆願書』及び『会津藩寛典処置嘆願書』『諸藩重臣副嘆願書』の三通を九条総督に手渡している。[4]
  6. ^ 閏4月17日、総督府は嘆願を却下し、早々に会津に討ち入ることを指示した。参謀の醍醐、世良等の意見は「二月中出陣に先立って大総督に伺った指令に容保は死罪とあること、また容保が果して真に恭順謝罪を願うとならば、諸国の兵を退け、開城して自ら軍門に来って謝するが至当であるのに、実情を見れば、却って現地交戦の状あるは顕著であるから、決して許容すべきものにあらず」と結論付けている。 [5]
  7. ^ 但し会津藩も仙・米両藩による恭順、開城の説得を受け入れないなど強硬的な態度であった。
  8. ^ 世良ら鎮撫使は当初仙台藩を中心とする東北諸藩を会津攻撃の尖兵とする計画であったが、彼らが会津藩に同調的な態度を取ることまでは予想外であった。また総督府の兵力だけで会津藩、庄内藩と戦うのも困難であった。このような状況であったため「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と考え、その具体案が、江戸に居た西郷隆盛に接触すると共に京都、大坂の新政府軍の兵力を白河方面に結集させ、また酒田港へ船で援兵を派遣させ会津・庄内を挟撃するという計画であった。 [8]
  9. ^ 姉歯等は以前から世良襲撃を計画し数日前より彼を尾行していたが、全体への影響を考え実行に踏み切れずにいた。しかし密書の内容に、前後の事情を考慮出来なくなるほどに逆上したこと、世良が上記の計画実行のため江戸に出立しそうであったこと、等の事情から実行に踏み切った。[9]
  10. ^ 会津征伐のため藩境の勢至堂口に布陣していた仙台藩・第二大隊長の佐藤宮内は世良の命令を無視し、会津藩士・木村熊之進と会い会津藩の世良暗殺計画を聞いた。列藩会議の結果、会津攻撃の中止が決まり白石に戻った佐藤は、仙台藩参謀の大越文五朗にこの計画を伝えた。大越は「世良ヲ誅スルハ奥羽ノ平和ヲ計ルニ於テ最モ必要」と上申した。大越の同意を得た佐藤は主席奉行の但木土佐に面談し、但木から「卿等之ヲ計レ」と指示されるに至った。[3]
  11. ^ 世良を白石まで連行しようとしたものの、出血が酷く、福島で処刑することとなった。[9]
  12. ^ 上記の通り、世良を殺害することは以前から計画されていたものである。
  13. ^ 金沢屋のあった福島城下、北南町は馬のセリ市で賑わう場所であり、北南町の旅籠には飯盛女と呼ばれる公娼が置かれていた。 [12]

出典

  1. ^ a b c , p. 17
  2. ^ 佐々木, p. 75.
  3. ^ a b , p. 32
  4. ^ 佐々木, pp. 102–103.
  5. ^ 『岩手県史』第六巻 p.32
  6. ^ , p. 28.
  7. ^ 『岩手県史』第六巻 p34-35 『世良書簡』
  8. ^ 佐々木, pp. 106–107.
  9. ^ a b c 佐々木, p. 108
  10. ^ 佐々木, p. 114.
  11. ^ 佐々木, pp. 135–136.
  12. ^ 『福島沿革誌』

参考文献

  • 佐々木克『戊辰戦争 敗者の明治維新』中央公論社中公新書)、1977年。ISBN 978-4121004550 
  • 星亮一『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』中公新書、1995年。 

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