1908年ロンドンオリンピック
ロンドンオリンピック | |
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第4回オリンピック競技大会 Games of the IV Olympiad | |
開催都市 | イギリス ロンドン |
参加国・地域数 | 22 |
参加人数 | 2,035人 |
競技種目数 | 22競技110種目 |
開会式 | 1908年4月27日 |
閉会式 | 1908年10月31日 |
開会宣言 | エドワード7世 |
主競技場 | ホワイトシティ・スタジアム |
Portal:オリンピック |
ロンドンオリンピックは、1908年の4月27日から同年10月31日まで、イギリスのロンドンで行われた夏季オリンピックである。
ハイライト
- 1908年大会は本来、ローマ(イタリア)で開催される予定であったが、1906年にイタリアのヴェスヴィオ山が噴火し、その被害がローマにも出たため、急遽ロンドンでの開催となった。現代では、オリンピックにおける環境問題や対策が大きく取り上げているが、このロンドン大会は言わば環境により大会が左右された初めてのものといえよう。
- この大会からオリンピックの参加が各国のオリンピック委員会を通じて行われるようになった。
- マラソンは、国王の住むウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の約40kmで行われた。この際、時の王妃アレクサンドラが、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したために42.195kmという半端な数字になったとする逸話がある。ちなみに、この大会で最初に競技場に到達したイタリアの選手ドランド・ピエトリはゴール直前で倒れ、役員の助力でゴールしたため、のちに失格となった(ドランドの悲劇)。この「ドランドの悲劇」で、彼に手を貸した役員の中にかの有名なコナン・ドイルがいたという説がある。
- 本大会では、ホスト国で世界に君臨していたイギリスと急速に国力を伸ばしていたアメリカがお互いをライバル視し、険悪な関係になった[1]。こうした状況を危惧したペンシルベニア大司教(アメリカ選手団に随行していた)のエチュルバート・タルボット(Ethelbert Talbot)は、「オリンピックにおいて重要なのは勝利することよりむしろ参加したことであろう」と説教で語り、これを知ったクーベルタンはオリンピック精神の表現としてこの言葉を引用するようになった。
- 初めて国旗を先頭にした入場行進が行なわれるようになった。
実施競技
各国の獲得メダル
順 | 国・地域 | 金 | 銀 | 銅 | 計 |
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1 | イギリス(開催国) | 56 | 51 | 39 | 146 |
2 | アメリカ合衆国 | 23 | 12 | 12 | 47 |
3 | スウェーデン | 8 | 6 | 11 | 25 |
4 | フランス | 5 | 5 | 9 | 19 |
5 | ドイツ | 3 | 5 | 5 | 13 |
6 | ハンガリー | 3 | 4 | 2 | 9 |
7 | カナダ | 3 | 3 | 10 | 16 |
8 | ノルウェー | 2 | 3 | 3 | 8 |
9 | イタリア | 2 | 2 | 0 | 4 |
10 | ベルギー | 1 | 5 | 2 | 8 |
主なメダリスト
- 金メダル
- レジナルド・ウォーカー(南アフリカ、陸上競技男子100m)
- ウィンダム・ハルスウェル(イギリス、陸上競技男子400m)
- ジョニー・ヘイズ(アメリカ、陸上競技男子マラソン)
- ジョン・フラナガン(アメリカ、陸上競技男子ハンマー投)
- エリック・レミング(スウェーデン、陸上競技男子やり投)
- マーチン・シェリダン(アメリカ、陸上競技男子円盤投)
- マーチン・シェリダン(アメリカ、陸上競技男子ギリシャ式円盤投)
- エリック・レミング(スウェーデン、陸上競技男子やり投・フリースタイル)
- レイ・ユーリー(アメリカ、陸上競技男子立ち幅跳)
- レイ・ユーリー(アメリカ、陸上競技男子立ち高跳)
- アルベルト・ブラリア(イタリア、体操男子個人総合)
- オスカー・スワン(スウェーデン、射撃男子100mランニングディア・シングルショット)
- スウェーデン(射撃男子100mランニングディア・シングルショット団体)
- 銀メダル
- ジョルジュ・アンドレ(フランス、陸上競技男子走高跳)
- マット・マクグラス(アメリカ、陸上競技男子ハンマー投)
- 銅メダル
- マーチン・シェリダン(アメリカ、陸上競技男子立ち幅跳)
- オスカー・スワン(スウェーデン、射撃男子100mランニングディア・ダブルショット)
脚注
- ^ 特に陸上400m決勝ではアメリカ選手のファウルの判定に対し、それを不服としたアメリカが他の決勝進出選手も出場をボイコット、イギリスのウィンダム・ハルスウェル一人で走るという前代未聞のレースとなった(ただし、この決勝戦が行われたのは後述のタルボットの説教よりも後である)。