ムーア人

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ムーア人: Moors)は、中世のマグレブイベリア半島シチリアマルタに住んでいたイスラム教徒のことで、キリスト教徒のヨーロッパ人が最初に使った外来語である。ムーア人は当初、マグレブ地方の先住民であるベルベル人であった。その後、アラブ人アラブ化したイベリア人にも適用されるようになった。

ムーア人は明確な民族でもなければ、自らを定義する民族でもない。1911年のブリタニカ百科事典は、この言葉は「民族学的な価値はない」と述べている。中世から近世にかけてのヨーロッパでは、アラブ人や北アフリカのベルベル人、イスラム教徒のヨーロッパ人に様々な呼び名が使われた。

また、ヨーロッパでは、スペインや北アフリカに住むイスラム教徒全般、特にアラブ系やベルベル系の人々を指す、より広範でやや侮蔑的な意味でも使われてきた。植民地時代には、ポルトガル人南アジアスリランカに「セイロン・ムーア人」「インド・ムーア人」という呼称を伝え、ベンガル人のムスリムもムーア人と呼ばれた。フィリピンでは、スペイン人の到来以前からの長きにわたるイスラム教徒のコミュニティが、現在では「モロ人」と自称している。これは、スペイン人入植者がイスラム教を信仰していることから導入した外来語である。

711年、アフリカ北部のムーア人を中心とした部隊がウマイヤ朝によるヒスパニア征服を引き起こした。イベリア半島古典アラビア語アル・アンダルスと呼ばれるようになり、最盛期にはセプティマニアの大部分と現在のスペイン、ポルトガルが含まれるようになった。827年、ムーア人はシチリア島マツァーラ・デル・ヴァッロを占領し、港として発展させ、やがてシチリアの他の地域も支配下においた。宗教と文化の違いから、ヨーロッパのキリスト教王国は何世紀にもわたってイスラム教徒の支配権を奪還しようと争った。1224年、イスラム教徒はシチリア島からルセラという集落に追放され、1300年にはヨーロッパのキリスト教徒によって破壊された。1492年のグラナダの陥落により、スペインにおけるイスラム教徒の支配は終焉を迎えたが、1609年に追放されるまで少数派のイスラム教徒が存在し続けた。

語源

ローマ時代に北西アフリカの住民(ベルベル人)をマウハリムと呼んだことに由来する。マウハリムはフェニキア人の言葉で「西国の人」を意味する[要出典]

7世紀以降には北アフリカのイスラム化が進み、イベリア半島に定着したアラブ人やベルベル人は原住民からモロと呼ばれるようになる。次第にモロはアラブ、ベルベル、トルコを問わずイスラム教徒一般を指す呼称となり、レコンキスタ以降は再び北西アフリカの異教徒住民を指すようなる。

ムーア人の横顔

はちまきを巻いた『ムーア人の横顔』は、フランスのコルシカ島とイタリアのサルデーニャ島の旗になっている。コルシカ島の島旗にムーア人の横顔を採用したのは、コルシカの英雄パスカル・パオリである[1]

脚注

  1. ^ 枻出版社『フランスの旅 No.6』

参考文献

関連項目