フランシス・ガルニエ

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フランシス・ガルニエ海軍中尉 (Enseigne de vaisseau) [1]

フランシス・ガルニエ (Francis Garnier) と通称された、マリー・ジョゼフ・フランソワ・ガルニエ(Marie Joseph François Garnier[2]1839年7月25日 - 1873年12月21日)は、フランス海軍士官探検家で、東南アジアメコン川の探険で知られる。

初期の経歴

1839年7月25日ロワール県サン=テティエンヌに生まれたガルニエは、長じてフランス海軍に入り、ブラジル近辺や、太平洋への航海を経験した後、1860年2月から1861年11月までコーチシナへ遠征したレオナール・ヴィクトル・シャルナー提督 (Admiral Léonard Victor Charner) の指揮下に入った。

1866年アンコール・ワットエミール・グセル (Émile Gsell) が撮影した、フランシス・ガルニエ海軍大尉。

ガルニエは、その後いったんフランスに帰国したが、再び東洋に戻り、1862年にはコーチシナの現地人関係担当の監督官に任じられ、サイゴン(後のホーチミン市)近郊のチョロンにあった阮朝ベトナムの行政当局の信任を得た。

メコン川と揚子江の探険

フランス第二帝政下で海軍・植民地大臣であったド・シャセルー=ロバ侯爵 (Marquis de Chasseloup-Laubat) が、メコン川流域への探険隊を派遣しようと決断したのは、ガルニエの提案があってのことであったが、この時点でガルニエはその指揮を執るには若すぎると思われ、探険隊の指揮権はエルネスト・ドラード・ド・ラグレ (Ernest Doudard de Lagrée) 海軍中佐に委ねられた。後に1870年に、ロンドン王立地理学会金メダル(パトロンズ・メダル)を授与した[3]ときの、サーロデリック・マーチソンの言葉を引くなら、探険の途中では「カンボジアクラチエから、上海まで、5392マイルの行程のうち3625マイルはヨーロッパの地理学にとってほとんど未知の領域を通りながら、注意深い調査と、天文観察による測地を、ガルニエ自身がほとんど独力で行なった」という。

ガルニエは、雲南における回民反乱(パンゼーの乱)が建てた「スルターン・スレイマン」政権の首都大理への分遣隊の指揮者に志願し、この任務を成功させた。探険の途中でラグレが病死すると、ガルニエは当然のように指揮を引き継ぎ、一行を無事に長江(当時ヨーロッパでは「揚子江」と称されていた)まで導き、中国沿岸地域へと到達させた。フランスへ帰国したガルニエは、熱烈な歓迎を受けた。遠征記の執筆は、普仏戦争によって中断を余儀なくされ、パリ攻囲戦には士官として従軍した。このときの経験は、匿名で『ル・タン (Le Temps)』紙に連載され、また、『Le Siège de Paris, journal d'un officier de marine(パリ攻囲戦:ある海兵隊士官の日誌)』として、1871年に出版された。

その後、コーチシナに戻ったガルニエは、当地の政治的情勢が、さらに探険を進めるには好ましくない状況にあることを察して、中国へと渡り、1873年には揚子江上流部を遡行して、滝線に至った。

トンキンへの介入

阮朝の大臣、阮知方 (Nguyễn Tri Phương) の儀礼服。1873年のハノイ占領の際のガルニエの戦利品。

ガルニエは、謎の残る状況で死を迎えた。1873年の遅い時期、コーチシナ総督マリー・ジュール・デュプレ (Marie Jules Dupré) 提督の命を受けたガルニエは、阮朝当局とフランス人事業家ジャン・デュピュイ (Jean Dupuis) の間に起こっていた揉め事を解決するために、トンキンへ派遣された。事に乗じてトンキンを占領する機は熟していると信じたガルニエは、トンキンの首府だったハノイ1873年11月20日に占領した。続く数週間にわたって、ガルニエが指揮した少数のフランス軍は紅河デルタの城砦の大部分を支配下に収めた。自らの軍事力でフランス軍に対抗することを断念した阮朝は、中国人傭兵隊である劉永福黒旗軍の派遣を要請した。

敗北と死

1873年12月21日劉永福は、600名ほどの黒旗軍を引き連れ、無数の黒旗を翻してハノイの西門に迫った。その後には、多数のベトナム勢が続いていた。ガルニエは、門上に据えた野砲で黒旗軍に砲撃を加え、敵がひるむと自ら十余名のフランス海兵隊の部隊を率いて城外に展開し、退却する敵を追い払おうとした。しかし、この追撃は失敗し、2名の兵を従えて銃剣を使うような白兵戦の攻撃を黒旗軍に対して加えていたガルニエは、水路に転倒した後、数名の黒旗軍兵士に刺し殺された。若い海軍中尉[1]アドリアン=ポール・バルニー・ダヴリクール (Adrien-Paul Balny d’Avricourt) が、同じように少数の兵士とともにガルニエの救出を試みて城外へ出たが、彼も従卒たちの目の前で殺された。ほかにも3名のフランス兵がこの戦闘で戦死し、指揮官を失った残りの兵士たちは城内へ退却した[4]

フランス領インドシナの歴史を綴ったトマジ大佐 (Colonel Thomazi) は、ガルニエの最期を次のように描写している。

12月21日の真昼、彼は大使たちと会談している最中だったが、通訳が駆けつけ、黒旗軍の連中が西門から攻撃を仕掛けていると告げた。彼は直ちに現場へ向かったが、配下の兵士たちの一部は先に現場へ到着しており、彼らの銃撃は敵方を竹垣の背後まで後退させるのに十分な威力を発揮していた。このとき、40ミリ砲が到着した。ガルニエは、1ダースほどの兵士を率い、うち3名がこの小さな砲を曵いて城外へ出て敵を蹴散らそうとした。しかし、砲は迅速に動く事ができず、砲は砲手たちとともに後方に取り残された。彼はついてきた9名を3班に分けた。2班は左右に分かれた後で、合流させることとし、彼自身は中央を進んだが、これに従う者は2名だけだった。町から1キロ半のところで、彼は水路に突き当たり、そこを渡ろうとして転倒した。水路の陰に隠れていた黒旗軍兵が駆け出し、他の者たちが発砲をはじめた。このとき、ガルニエに従っていた2名は、後方100メートルの位置にいた。このうち1人は銃撃で死に、もう1人は負傷した。ガルニエは「こっちへ来い、諸君、奴らを片づけよう!」 と叫んだ。彼はリボルバーを6回放ち、逃げようとしたが、彼を取り囲んだ敵兵たちは、刀や槍を彼に突き立てた、首を斬り、遺体を切り刻んで、逃走した。銃声を聞いて駆けつけた残りの2班は、血だらけの遺骸を回収して、ハノイ城内に持ち帰ることしかできなかった[5]

ガルニエ死後

ガルニエの死によって、フランスによる最初のトンキン支配の試みは潰え去った。フランス政府は、ガルニエの行為を公認せず、阮朝当局と和約を整える事を急ぎ、トンキンに対して掲げていた権利の主張の大部分を取り下げた。

ガルニエの遺体は1875年にサイゴンに移送され、マッシージュ通り (rue Massiges) の墓地に、ドラード・ド・ラグレと並んで葬られた。

業績

ガルニエの名声は、彼がメコン川の探険を構想し、その大部分を成し遂げたという事実にもっぱら由来するものである。フランスによるインドシナの植民地支配の時代には、彼の軍事的行動に就いても、後に1880年代に実現したフランスによるトンキン征服への途を拓いたものとして賞賛されていた。

パリのガルニエ記念碑。現在は遺灰が納められている。

記念物

1883年、フランシス・ガルニエの死から9年の後、フランス海軍士官アンリ・リヴィエール (Henri Rivière) が、トンキンで黒旗軍によって、驚くほどよく似た状況の下で殺された。

ガルニエとリヴィエールの2人は、フランスによるインドシナの植民地支配の時代に、トンキン征服の特別な殉職者として賞賛されていた。1884年清仏戦争の最中には、トンキン群 (Flottille de Tonkin) に所属していた砲艦2隻が、この2人の名を与えられた。

1884年11月から1885年3月のトゥエンクアン包囲戦 (siege of Tuyen Quang) の際に、劉永福黒旗軍は、清朝軍の一部となっていたが、フランス軍の陣営に向けて「ガルニエ! リヴィエール! ガルニエ! リヴィエール!」と、有名な犠牲者たちの名を叫んで罵倒したという[6]

1943年フランス領インドシナは、ガルニエを記念した切手を発行した。

アルジェリアの都市ブニ・アウアは、フランス統治時代にはフランシス・ガルニエと称されていた。

第二次世界大戦中、ガルニエの名に改称したフランシス・ガルニエ (砲艦)があったが、カンボジアのクラチエ近くで日本軍との戦闘で自沈した[7]

1973年シャンプレーン級戦車揚陸艦の軽輸送艦 (BARTEL) 初期型として2番目かつ最後に建造された艦として、ガルニエの名を冠した新造艦「Francis Garnier (L9031)」が登場した。この艦は永く現役にあり、2010年ハイチ地震の際には「ハイチ地震作戦2010 (Opération Séisme Haiti 2010)」に加わって、人道援助の任に就いた。同艦はマルティニークから、60名のフランス陸軍の兵員と車両や油圧ショベル類、その他の支援物資を輸送した[8]。この艦は、2011年2月16日に退役となった。

1983年、ガルニエとド・ラグレを埋葬していたホーチミン市の墓地が撤去されることとなった際に、フランス総領事であったジャン=フランソワ・パロは、このふたつの墓を徹底的に調査した。遺骸を発掘して、火葬した総領事は、遺灰をシンガポールへ移送する事を国防大臣に提案し、ヘリ空母ジャンヌ・ダルクと、護衛艦ドラード・ド・ラグレが派遣された。移送中、艦上では式典が執行された。

1987年パリ5区6区の境界の角に位置する、彫刻家デニス・ピュエシュ (Denys Puech) によるガルニエの胸像を組み込んだ記念碑に、ガルニエの遺灰が納められた。

関連項目

脚注

  1. ^ a b フランス語の「Enseigne de vaisseau」は、海軍少尉ないし中尉に相当するが、いずれか確定できないので、とりあえず中尉と訳しておく。
  2. ^ ベトナム語では「ガク・ニー (Ngạc Nhi)」、中国語では「安鄴」と表記される。
  3. ^ Medals and Awards, Gold Medal Recipients” (PDF). Royal Geographical Society. 2014年4月11日閲覧。
  4. ^ Thomazi, Conquête, 126–8
  5. ^ Thomazi, Conquête, 126–7
  6. ^ De Lonlay, 114
  7. ^ Soenthrith, Saing (2005年12月23日). “Kratie Set To Raise WWII Ship From the Deep”. The Cambodia Daily. 2013年10月18日閲覧。
  8. ^ “Haïti: un navire français en route”. Le Figaro. (2010年1月15日). http://www.lefigaro.fr/flash-actu/2010/01/15/01011-20100115FILWWW00732-haiti-un-navire-francais-en-route.php 2010年1月16日閲覧。 

参考文献

  • Baker, Daniel ed. Explorers and Discoverers of the World. Detroit: Gale Research, 1993
  • Lonlay, D. de, Le siège de Tuyen-Quan (Paris, 1886)
  • Milton Osborne, River Road to China: The Search for the Source of the Mekong, 1866-73 (Atlantic Monthly Press, 1999) ISBN 0-87113-752-6
  • Milton Osborne, "Francis Garnier (1839-1873), Explorer of the Mekong River", Explorers of South-east Asia, Six Lives, ed. Victor T. King, (Kuala Lumpur: OUP, 1995)
  • Milton Osborne, River Road to China: The Mekong River Expedition, 1866-1873 (London and New York, 1975)
  • The narrative of the principal expedition appeared in 1873, as Voyage d'exploration en Indo-Chine effectué pendant les années 1866, 1867 et 1868, publié sous la direction de M. Francis Garnier, avec le concours de M. Delaporte et de MM. Joubert et Thorel (2 vols.) - 当初 800部しか印刷されなかったため、原本は稀覯書となっている。
  • Transl. Walter E. J. Tips:
    • Travels in Cambodia and Part of Laos: the Mekong Exploration Commission report (1866-1868), volume 1 (White Lotus Press, 1996)
    • A pictorial journey on the old Mekong: Cambodia, Laos and Yunnan: the Mekong Exploration Commission report (1866-1868), volume 3 (White Lotus Press, 1998)
  • An account of the Yang-tsze-Kiang from Garnier's pen is given in the Bulletin de la Soc. de Geog. (1874).
  • His Chronique royale du Cambodje, was reprinted from the Journal Asiatique in 1872.
  • Ocean Highways (1874) for a memoir by Colonel Henry Yule
  • Hugh Clifford, "Further India", in the Story of Exploration series (1904).
  • John Keay, Mad About The Mekong ISBN 0-00-711115-0
  • Thomazi, A., La conquête de l'Indochine (Paris, 1934)

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