デビッド・ウィートン

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デビッド・ウィートン
David Wheaton
デビッド・ウィートン
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・ミネソタ州ミネアポリス
生年月日 (1969-06-02) 1969年6月2日(54歳)
身長 193cm
体重 84kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1988年
引退年 2001年
ツアー通算 6勝
シングルス 3勝
ダブルス 3勝
生涯通算成績 389勝313敗
シングルス 232勝191敗
ダブルス 157勝122敗
生涯獲得賞金 5,238,401 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1990)
全仏 3回戦(1995)
全英 ベスト4(1991)
全米 ベスト8(1990)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 準優勝(1991)
全仏 3回戦(1996)
全英 2回戦(1990・93)
全米 準優勝(1990)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 12位
ダブルス 24位

デビッド・ウィートンDavid Wheaton, 1969年6月2日 - )は、アメリカミネソタ州ミネアポリス出身の元男子プロテニス選手。1990年全米オープン1991年全豪オープンで、4大大会の男子ダブルスに2大会連続準優勝した選手である。シングルスでも1991年ウィンブルドンでベスト4進出があった。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス3勝を挙げたが、ダブルス準優勝が2度のグランドスラム大会を含めて12度あった。身長193cm、体重84kgの長身選手。ウィートンはアメリカの男子プロテニス選手として、アンドレ・アガシジム・クーリエトッド・マーティンマラビーヤ・ワシントンピート・サンプラスなどと同年代に位置している。

ウィートンはジュニア時代、1987年全米オープンジュニア男子シングルス部門でアンドレイ・チェルカソフソ連)を破って優勝したことがある。スタンフォード大学の学生テニス選手としてプレーした後、1988年に19歳でプロ転向。2年後の1990年、ウィートンは全豪オープン全米オープンの2大会でベスト8に進出する。全豪オープンの準々決勝では、ウィートンはステファン・エドベリに 5-7, 6-7, 6-3, 2-6 で敗れた。全仏オープンは1回戦で敗退したが、ウィンブルドンブラッド・ギルバートとの4回戦に進み、全米オープンで男子シングルス・ベスト8、男子ダブルス準優勝を記録する。シングルス準々決勝でジョン・マッケンローに敗れたウィートンは、男子ダブルスでポール・アナコーンとペアを組み、決勝で南アフリカペアのピーター・アルドリッチ&ダニー・ヴィッサー組に 2-6, 6-7, 2-6 のストレートで敗れて準優勝になった。ウィートンとアナコーンは、この大会のシングルス3回戦で直接対決をしていた。

1991年全豪オープンで、ウィートンは男子シングルス1回戦でブラッド・ギルバートに当たって敗退したが、男子ダブルスでパトリック・マッケンロー(ジョンの弟)とペアを組んで決勝に進む。ウィートンとP・マッケンローは、3回戦でアンダース・ヤリードスウェーデン)&ジョン・フィッツジェラルドオーストラリア)、準決勝でマーク・ウッドフォードトッド・ウッドブリッジ(ともにオーストラリア)組を破って勝ち進んだが、決勝で同じアメリカのスコット・デービスデビッド・ペイト組に 7-6, 6-7, 3-6, 5-7 で敗れ、ウィートンは2大会連続でダブルス準優勝に終わった。この年のウィンブルドンで、デビッド・ウィートンはシングルスの自己最高成績を出し、ボリス・ベッカーとの準決勝に進出した。先立つ準々決勝で、ウィートンはアンドレ・アガシと顔を合わせる。第5シードのアガシは、ウィンブルドン選手権の主催者「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」が規定した「ウェアは白基調であること」のルールに反発していたが、1987年以来4年ぶりのウィンブルドン出場に踏み切った。2人のウェアは、アガシが全身すべてを(模様のない)真っ白の服でまとめたのに対し、ウィートンは頭髪のバンダナに米国国旗のデザインがあった。試合はウィートンが 6-2, 0-6, 3-6, 7-6, 6-2 でアガシに勝ったが、準決勝のベッカー戦では 4-6, 6-7, 5-7 のストレートで敗れた。1991年は年末の高額賞金大会「グランドスラム・カップ」で優勝がある。

しかし、ウィートンの好成績はあまり長く続かず、1992年以後は4大大会で4回戦以上に勝ち残れなくなった。1994年7月のニューポート大会が、ウィートンの最後のシングルス優勝になる。1998年全米オープンを最後に、彼は4大大会にも出場できなくなり、最後の数年間は男子ツアー下部組織の大会を回った。2001年に32歳で現役を引退した後は、男子テニスのシニア・ツアーを転戦する傍ら、ラジオのトークショーのホストを務めたり、著述や講演活動にも携わっている。

外部リンク