ゼムノビッチ・ズドラブコ
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 | ズドラヴコ・ゼムノヴィッチ | |||||
愛称 | ゼムさん | |||||
ラテン文字 | Zdravko Zemunović | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | セルビア | |||||
生年月日 | 1954年3月26日(70歳) | |||||
出身地 | ユーゴスラビア | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ゼムノビッチ・ストラヴゴことズドラヴコ・ゼムノヴィッチ(Zdravko Zemunović、1954年3月26日 - )は、ユーゴスラビア(現・セルビア共和国)出身のサッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。
来歴
現役時代には主に母国ユーゴスラビアの2部や3部リーグでプレー。膝の故障もあって、1986年に32歳で引退する。
現役引退後、ベオグラード体育大学にてコーチングライセンスを取得。ユーゴスラビア1部リーグでは3つのクラブで監督を歴任し、全クラブで優勝、昇格を経験。 テレオプティック(en:FK Teleoptik)の監督時代にイビチャ・オシムと知り合い、親交を深めた。これは当時、彼が監督をしていたテレオプティックがオシムの指揮していたパルチザン・ベオグラードのサテライトチーム(Bチーム)であったためであり、その後パルチザン・ベオグラードのスタッフの一員としてオシムと共に1992年のキリンカップで初来日している。
内戦の激化から夫人が日本への留学を希望したため、1995年に来日。旧JFLの鳥栖フューチャーズでアシスタントコーチを務めた後、主に千葉県でアマチュアチームで指導を行った。
1999年に清水エスパルスのユース・ジュニアユース総監督に就任。翌2000年、清水のユース監督に就任し、枝村匠馬、杉山浩太らを指導。スティーブ・ペリマンの解任により同年12月にトップチームの監督に就任。天皇杯ではいきなり準優勝し、2001年のゼロックス・スーパーカップも制覇した。
オズワルド・アルディレス以来のパスサッカー路線を堅持しつつフィジカルの強化を図り、当時DFだった戸田和幸をボランチにコンバートしてブレイクさせるなど独自色を出し、2001年は両ステージともに4位、天皇杯では優勝を果たすなど、翌年の躍進が期待された。特に三都主アレサンドロ、市川大祐という攻撃的なウイングバックと強力なヘディングが持ち味のバロンを最大限に活かしたサイドアタック、スーパーサブとして横山貴之を再生し前シーズンの約2倍の62得点を上げたことは評価に値する。
帰国後、当時セルビア・モンテネグロ1部リーグに所属するラド・ベオグラードで監督を務めた。2005年に再来日し、千葉県サッカー協会テクニカルアドバイザーとしてアマチュアの指導にあたっている。
2006年のドイツ・ワールドカップで日本代表が惨敗した時には、「ジーコの後任にふさわしいのは?」とのマスコミからの問いに、「外国人ならイビチャがベスト」と答えた。実際にオシムが日本代表監督に就任すると、今度はドラガン・ストイコビッチらと共に代表スタッフ入り濃厚と報道される。結局日本代表チームには加わることはなかったが、オシムのJリーグの試合視察時への同行や相談役として、チームの外から彼をサポートした。
人物・評価
選手歴
指導歴
- 1988年 - 1990年 BSKバタイニッツァ:監督
- 1990年 - 1992年 テレオプティック:監督
- 1992年 - 1994年 ヴォジュドヴァッツ:監督
- 1995年 鳥栖フューチャーズ:コーチ
- 1999年 清水エスパルス:ユース、ジュニアユース総監督
- 2000年 清水エスパルス:ユース監督
- 2000年12月 - 2002年 清水エスパルス:監督
- 2003年 - 2004年 FKラド・ベオグラード:監督
- 2005年 - 現 在 千葉県サッカー協会:テクニカルアドバイザー
獲得タイトル
- 2001年 - ゼロックス・スーパーカップ
- 2001年 - 第81回天皇杯
- 2002年 - ゼロックス・スーパーカップ
関連項目