ジョージ・ライトン
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ジョージ・ライトン (George Ryton, 1948年8月15日, シンガポール生まれ[1] ) は、F1車両関連で名前が出てくる英国人のレースカーデザインエンジニア。
キャリア
37歳の1985年にハース ローラチームの設計事務所に雇用されF1 の世界に入った。[2]
その設計事務所は、ロンドン近郊コルンブルック(Colnbrook)[3]に位置する、フォーミュラ・ワン・レースカー・エンジニアリング (Formula One Race Car Engineering, FORCE) という、米国チームが英国に設定したファクトリーで、チーム撤退後はバーニー・エクレストンが買収した。
チーム解散後の1997年、ビスターのレイナードのマルコム・オーストラーのデザインチームに移り、レイナードの初代のフォーミュラ 3000シャシー(Reynard 88D)の設計を手伝った。
その翌1988年には、当時フェラーリのテクニカル ディレクターを務めていたジョン バーナードの英国の設計事務所:デザイン センター(GTO: Guildford Technical Office)[4][5]のメンバーになっている。(GTOは1986年8月の発足、FDDは1992年8月の発足、B3 Technologiesは1997年4月の発足。[6])
1988年末、ライトンは新しいユーロブルンチームのテクニカル ディレクターになるが、チームは1990年シーズンが終わる前に F1 から撤退した。
その後、 1991年から1992年までハーヴェイ ポスルスウェイトの下でティレルのチーフ デザイナーに就任し、3シーズンに亘って使用された 020 の関係者名簿に名を残すが、 020 は 019 ベースのエンジンを差し替えた改造車である。
1992年末、ライトンはバーナードのもと(FDD)に戻る。
バーナードは一時ベネトンに移籍したが、フェラーリに戻ったライトンは、1996年半ばまで、チーム拠点のマラネッロの設計事務所を担当し、小規模なフォルティチームのテクニカル ディレクターを勤めた。
FG03シャーシに取り組んだ後、シーズン半ばにチームは解散し、ライトンは仕事を失う。
リジェチームの研究開発責任者に任命され、その直後にチームは元 F1 チャンピオンのアラン プロストに買収され、リジェで用意した(JS45)プロストの初代カー(AP01)には彼の名前が添付されていた。
1998年、プロスト AP01の成績が残せず、ミナルディに移籍して1999年車のM01を用意した。
ライトンは2003年シーズンの終了する日本グランプリまで、最初はチーフデザイナーとして、その後はデザインコンサルタントとしてミナルディに留まった。
F1 を離れたライトンは、現在コーンウォールで独立したコンサルタントとして働いる。[1]
参考文献
- ^ a b Jenkins (2006年9月2日). “"George Ryton"”. oldracingcars.com. 2007年9月21日閲覧。
- ^ “"George Ryton" - People”. www.grandprix.com. 2022年8月7日閲覧。
- ^ “コーンブルック, スラウ, UK”. google maps. 2022年8月8日閲覧。
- ^ “"旧GTO" 外観”. Google Maps. 2022年8月9日閲覧。
- ^ “"旧GTO" Wharfside Broadford Park, Guildford GU4 8EP, UK”. google maps. 2022年8月9日閲覧。
- ^ “Ferrari sells FDD to Barnard”. grandprix.com. 2022年9月17日閲覧。