ケリー・ライテンバーグ
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | サウスダコタ州ラピッドシティ |
生年月日 | 1971年5月11日(52歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 220 lb =約99.8 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1994年 ミネアポリス・ルーンズと契約 |
初出場 | 1997年8月12日 |
最終出場 | 2005年5月29日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ケリー・デール・ライテンバーグ(Kerry Dale Ligtenberg, 1971年5月11日 - )は、アメリカ合衆国サウスダコタ州ラピッドシティ出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
経歴
1994年に独立リーグであるノースセントラルリーグのミネアポリス・ルーンズと契約してプロ入り。
1995年3月、MLBのスプリングトレーニングにオーナー側の命令で代替選手として参加した。これは前年8月から1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが実施された影響からである。そのためスト破りを行った報復措置として、以降は選手会への加入を認められなかった。また、この期間中の3月28日にシアトル・マリナーズと契約を結んだが、直後の4月2日には自由契約となっている。この年は前年と同様にミネアポリス・ルーンズ[1]でプレーした。
1996年1月にはアトランタ・ブレーブスがミネアポリス・ルーンズに移籍金を支払う形でライテンバーグを獲得した。翌1997年にメジャーデビューすると、1998年にはマーク・ウォーラーズに代わってクローザーを務め、30セーブを挙げた。1999年はトミー・ジョン手術を受けた[2]ため全休するが、2000年には復活して2002年までブレーブスのブルペン陣の一角を担った。
2003年から2005年にかけてはMLB3球団(ボルチモア・オリオールズ、トロント・ブルージェイズ、アリゾナ・ダイヤモンドバックス)を渡り歩いた。2006年はシカゴ・カブス傘下のAAA級アイオワ・カブスでプレーした。
2007年から2年間はどの球団にも所属せず、2009年に独立リーグであるアメリカン・アソシエーションのセントポール・セインツでプレーして引退した。
引退後は独立リーグで投手コーチとなり、2011年から2020年まではセントポール・セインツ、2021年にはケーンカウンティ・クーガーズで同職を務めている。
投球スタイル
サイドスローから投じるクセ球が特徴的であり[3]、シンカーとスライダーを武器としていた[4]。
人物
メジャーリーガーになった後にミネソタ大学の化学工学の学位を取得しており、2000年9月にはブレーブスの当時の本拠地ターナー・フィールドでそのセレモニーが行われている[5]。
詳細情報
背番号
- 46(1997年 - 1998年、2000年 - 2004年)
- 36(2005年)
脚注
- ^ ただし、所属リーグがノースセントラルリーグからプレーリー・リーグへ変わっている。
- ^ “Ligtenberg out for season?” (英語). Tampa Bay Times (1999年3月13日). 2022年6月21日閲覧。
- ^ 「大リーグ30球団2001年シーズン戦力分析 アトランタ・ブレーブス」『月刊メジャー・リーグ』2001年4月号 ベースボール・マガジン社 53頁
- ^ 「ブレーブス救援陣の強力なエンドゲーム/スモルツ&レムリンジャー&ハモンド&ホームズ&ライテンバーグ他」『月刊メジャー・リーグ』 2002年11月号増刊 ベースボール・マガジン社 25頁
- ^ https://gophersports.com/news/2000/9/7/former_pitcher_ligtenberg_to_receive_u_of_m_diploma_in_pregame_ceremony.aspx