アルベルト・フェレール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。KENNPEZU (会話 | 投稿記録) による 2022年3月25日 (金) 15:28個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

アルベルト・フェレール
名前
本名 アルベルト・フェレール・リョピス
Albert Ferrer Llopis
愛称 チャピ(Chapi)
ラテン文字 Albert FERRER
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1970-06-06) 1970年6月6日(53歳)
出身地 バルセロナ
身長 170cm
体重 65kg
選手情報
ポジション DF (RSB)
利き足 右足
ユース
スペインの旗 マリステス・ルビ
1986-1988 スペインの旗 バルセロナ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1990 スペインの旗 バルセロナB 47 (2)
1990-1998 スペインの旗 バルセロナ 204 (1)
1998 スペインの旗 テネリフェ (loan) 17 (0)
1998-2003 イングランドの旗 チェルシー 76 (0)
通算 344 (3)
代表歴
1988 スペインの旗 スペイン U-18 7 (1)
1988-1989 スペインの旗 スペイン U-19 3 (0)
1989-1990 スペインの旗 スペイン U-20 5 (0)
1990-1991 スペインの旗 スペイン U-21 2 (0)
1991-1992 スペインの旗 スペイン U-23 6 (0)
1991-1999[1] スペインの旗 スペイン 36 (0)
監督歴
2010-2011 オランダの旗 フィテッセ
2014 スペインの旗 コルドバ
2015 スペインの旗 マヨルカ
獲得メダル
サッカー
1992 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アルベルト・フェレール・リョピスAlbert Ferrer Llopis, 1970年6月6日 - )は、スペイン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。スペイン代表であった。現役時代のポジションはDF(右サイドバック)。

経歴

選手

クラブ

FCバルセロナ

敏捷で武骨なタックルが持ち味のディフェンダーであった[2]。地元FCバルセロナの下部組織出身で、1989-90シーズン後半戦にCDテネリフェにレンタル移籍し、19歳だった1990年にプリメーラ・ディビシオン(1部)デビューした。1990年夏にFCバルセロナのトップチームに戻ると、右サイドバックのレギュラーとなり、8シーズンの間クラブに在籍した。同じく下部組織出身で守備的なウイングを務めていたセルジ・バルフアンと連携し、リーグ戦205試合に出場した。ヨハン・クライフ監督が指揮したいわゆるエル・ドリーム・チームの重要なメンバーであり、5度のリーグ優勝、1度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝、1度のUEFAカップウィナーズカップ優勝、2度のコパ・デル・レイ優勝、4度のスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、2度のUEFAスーパーカップ優勝を果たした。1997年にルイ・ファン・ハール監督が就任するとオランダ人選手が大量に加入したため、1998年6月にギジェルモ・アモールとともにクラブを離れ、移籍金220万ポンドでイングランド・チェルシーFCに移籍した。

チェルシーFC

チェルシーFCではすぐにチーム内での立ち位置を確立し、1998-99シーズンにはクラブ初のUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得を助けた。1999-2000シーズンにはFAカップで決勝に進出し、自身は負傷のために決勝出場を逃したが、3シーズンぶりの優勝を果たした。また同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは16試合中14試合に出場し、ヘルタ・ベルリン戦(2-0)ではチェルシーFC在籍期間中唯一の得点を挙げ[3]、準々決勝進出に貢献した。2000-01シーズンには、度重なる負傷[4]ジャンルカ・ヴィアリ監督のローテーションを重視する方針から出場機会が減少し、リーグ戦14試合の出場にとどまった。2001-02シーズンには再びFAカップで決勝に進出したが、今度は優勝を逃した。2001-02シーズンと2002-03シーズンには監督に良く思われず、さらに若いディフェンダーとの厳しい競争などがあり、2シーズンで計7試合しか出場できなかったため、2003年5月に契約満了によってクラブを離れ、33歳で現役引退を表明した。チェルシーFCでは公式戦通算113試合に出場した。

代表

1991年9月4日、オビエドで行われたウルグアイとの親善試合(2-1)でスペイン代表デビューした[5]。スペイン代表はEURO1992の予選で敗退して本大会には出場できなかった。1992年のバルセロナオリンピックではレギュラーとして出場して金メダルを獲得した。1994 FIFAワールドカップにはレギュラーとして出場し、グループリーグのドイツ戦、ボリビア戦でそれぞれ1アシストを決め、決勝トーナメント進出に貢献した[5]1998 FIFAワールドカップではグループリーグのナイジェリア戦(2-3)戦の1試合に出場した[5]EURO1996EURO2000は負傷で出場を逃した[6]

指導者

現役引退後の数年間はいくつもの放送局でサッカー解説者を務めた。

2010年10月後半、エールディビジフィテッセ監督に就任し、アシスタントコーチにはアルベルト・カペーリャス(FCバルセロナの元ユースコーチ)、スタンリー・メンゾ(Stanley Menzo)(元オランダ代表GK)などを起用した[7]。15位でなんとかエールステ・ディヴィジ(2部)降格を回避したが、契約満了で監督を退き、後任のジョン・ファン・デン・ブロム監督にバトンタッチした[8]

2014年2月17日にパブロ・ビジャ英語版から監督の座を受け継ぎコルドバCFの監督に就任[9]。就任当初13位だった順位を7位まで上昇させ、昇格プレーオフへ導いた。昇格プレーオフではUDラス・パルマスをアウェーゴール差で下し、42シーズンぶりのプリメーラ・ディビシオン昇格を決めた。

しかし、第8節の時点で唯一の未勝利で最下位となり、10月20日に解任された[10]

2015年6月20日、セグンダ・ディビシオンに所属するRCDマヨルカの指揮官の座に就いた[11]。しかしクラブは降格圏に沈み、同年12月1日に解任が発表された[12]

所属クラブ

選手時代

スペインの旗 CDテネリフェ (Loan) 1990

指導者時代

タイトル

オリンピック
サッカー
1992 サッカー

クラブ

  • FCバルセロナ
プリメーラ・ディビシオン (5) : 1990-1991, 1991-1992, 1992-1993, 1993-1994, 1997-1998
コパ・デル・レイ (2) : 1996-1997, 1997-1998
スーペルコパ・デ・エスパーニャ (4) : 1992、1993、1995、1997
UEFAチャンピオンズリーグ (1) : 1991-1992
UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1996-1997
UEFAスーパーカップ (2) : 1992、1997
  • チェルシーFC
FAカップ (1) : 1999-2000
FAコミュニティ・シールド (1) : 2000

代表

  • U-23スペイン代表
夏季オリンピック 金メダル : 1992

脚注

関連項目

外部リンク