WWFインターナショナル・ヘビー級王座

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WWFインターナショナル・ヘビー級王座(WWF International Heavyweight Championship)は、かつてWWFが認定した王座。名レスラーだったアントニオ・ロッカが、一時期保持していたともいわれ、そこから「ロッカ・メモリアル」とも呼ばれた。1982年にこれを奪取した藤波辰巳によって、新日本プロレスに定着。藤波は同時期に突如台頭した長州力と、この王座を賭けて幾度も争うこととなった。

なお一時期はUWFにおいて同名の王座が存在、こちらは前田明が保持した(後述)。

概要

もともとは1940 - 1950年代に、アントニオ・ロッカが奪取し保持していた王座といわれるが、詳細は不明である。1982年8月30日、マディソン・スクエア・ガーデンにて、当時の王者だったジノ・ブリットに藤波辰巳が挑戦し奪取。当時の実況担当だった古舘伊知郎は、かつて藤波が長年保持したWWF(WWWF世界)ジュニアヘビー級王座が、初代王者のジョニー・ディファジオに因み「ディファジオ・メモリアル」と呼ばれたのに倣ってか、この王座を「藤波が掘り当てた『ロッカ・メモリアル』」と称していた。

折から、長年地味な存在に甘んじていた長州力が、メキシコ遠征でUWA世界ヘビー級王座を奪取したのをきっかけに「俺もヘビー級の王者だ」と主張、藤波と袂を分かつことを宣言する。翌1983年、長州は2度目の藤波への挑戦で遂に王座を奪取、「名勝負数え歌」といわれた以降の二人の抗争は同王座を中心に回る形となり、長州戴冠後の二人の一騎打ちにおいては、実に5度もこの王座が賭けられた。

この王座は、世界統一を目指したプロジェクト・IWGPの実現を新日本プロレスが推進していた最中に、同団体にもたらされたものだったが、IWGPが発表された後にNWFヘビー級王座などシングル・タッグの王座は封印されていたにもかかわらず、当時提携関係にあったWWF認定の王座なのもあってか、一部の軽量級の王座と共に、同団体で防衛活動が続けられた(余談だが当時、IWGPリーグ戦については、世界最強を決めるというコンセプトから、当時ジュニアヘビー級のタイトルホルダーであったタイガーマスク (初代) の参戦がファンから熱望されたが、「IWGPは飽くまでヘビー級の選手が対象」という見解から、タイガーは結局1度もIWGPリーグ戦に参加していない)。

ところが1985年に、藤波がスーパー・ストロング・マシンとの防衛戦の内容に不満を漏らして返上。さらにその折も折、それまで新日本と歩調を合わせてきたはずのWWFが提携関係を破棄、WWFはハルク・ホーガンを団体のエース格に据えて、独自でテレビ中継を柱とした全米侵攻に乗り出した。こうした提携破棄の煽りを受ける形で、この王座は空位のまま人知れず封印されるに至る。

この1985年、藤波はやはりWWFの認定王座であったWWFインターナショナル・タッグ王座木村健吾と共に奪取したばかりだったが、これも併せて封印。そして当時ザ・コブラが保持したWWFジュニアヘビー級王座も「真のジュニア世界一を狙うため」との理由で、NWA世界ジュニアヘビー級王座と共に「返上」という体裁が取られた。新日本プロレスではそれらの代替として、IWGP実行委員会が認定する独自の王座(当初はタッグ及びジュニアヘビー級のみ)を新設することで対処した。

なお後年、WWFがSWSと業務提携を結んだ際、依然として休眠状態にあったインターナショナル・ヘビー級、インターナショナル・タッグ、ジュニアヘビー級の3つの王座を、SWSで復活させようとするプランが持ち上がったが、結局は立ち消えとなった。SWSでは団体独自の王座を、WWF認定のもとに新設した。

歴代王者

歴代数 レスラー 防衛回 獲得日付 獲得した場所(対戦相手・その他)
アントニオ・ロッカ 1948年 アルゼンチンブエノスアイレス
トニー・パリシ 1982年 アメリカニューヨーク州バッファロー
ジノ・ブリット 1982年8月 アメリカ・ニューヨーク州バッファロー
藤波辰巳 3 1982年8月30日 アメリカ・ニューヨーク州ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデン
長州力 2 1983年4月3日 東京都蔵前国技館
藤波辰巳 7 1983年8月4日 東京都・蔵前国技館
1985年7月19日に札幌中島体育センターの防衛戦後に王座返上

UWF版

1983年、新間寿はお家騒動の責任を取らされる形で新日本プロレスを追放されたものの、依然としてWWF会長の座にあった。そこから新間は当時、引退したタイガーマスク(初代)を埋もれさせたくないと、タイガーをマディソン・スクエア・ガーデンでのWWFの大会に出場させ、その試合の模様を「ワールドプロレスリング」のなかに設けたWWFのコーナーで放映する、といった私案をマスコミに語っていたものの、これは私案のままで終わる。

1984年3月25日、マディソン・スクエア・ガーデンにて、突如として「WWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦」が開催された。これに出場したのはカナダ出身のピエール・ラファエル、そして、新日本プロレスに当時籍を置きながら謎の欠場を続けていた前田明だった。試合前に当地のWWF関係者から直々に激励も受けたという前田は、短時間で王座獲得に成功。決まり手はアバラ折り(コブラツイスト)だった。

前田が獲得したこの「WWFインターナショナル・ヘビー級王座」のベルトには、認定団体の名称を差し置いてまで「UWF」の文字が大きく書かれており、前田は東京スポーツの記者にその意味を問われると「そうです、僕はUWFに行きます」「今の新日本は正規軍と革命軍の抗争に明け暮れ、本当のプロレスができない」と答え、UWFへの移籍を認めた。

その後、新間は正式に新団体・UWFを立ち上げ、それと同じオフィス内に「WWF日本支部」を設置した。

前田の王座奪取は東京スポーツなどで「藤波の同名王座は無効?」といった見出しと共に報じられたが、当然ながら藤波を始めとする新日本プロレスサイドは黙っていなかった。報道でこの件を知った藤波は「ひとつだけ言えるのはファンを甘く見るなということ。新団体ができてハイ新しいベルトができました、ではファンが納得すると思う?」と不快感を示したうえ、前田にIWGPリーグ戦への参加を呼びかけた。

また、坂口征二副社長は「冗談じゃない。この王座は新日本プロレスに管理運営権があるんだ」と主張、さらに「問答無用の仕事師」のあだ名で頭角を現した藤原喜明は、UWFへ殴りこんだうえでの前田との一騎打ちを要求した。のちに藤原は特別参加の形でUWFに参戦、前田とのシングルマッチも実現したが、これに件の王座は賭けられることはなかった。

その後、選手の離脱と加入などが相次いだUWFにおいて、前田は王座防衛戦の機会を逸する形となり、結局日本では一度もタイトルマッチが行われないまま(海外では、1984年5月21日にマディソン・スクエア・ガーデンにて、レネ・グレイ相手に防衛戦を行っているが、これが最初で最後の防衛戦となっている)、王座返上の形で事実上封印されるに至った。

なお、この王座が「『UWFヘビー級王座』に改称された」とする説がある。前田が率いる「RINGS」の公式サイトにある前田自身のプロフィールにおいて、「元はWWF(現WWE)インターナショナル・ヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される」といった注釈付きで、「UWFヘビー級王座」と紹介されているのが、その最たる例である。ただし、前田の王座返上を伝えた東京スポーツの記事では、その名称は依然として「WWFインターナショナル・ヘビー級王座」と表記されていた。

歴代数 レスラー 防衛回 獲得日付 獲得した場所(対戦相手・その他)
前田明 (前田日明)   1 1984年3月25日 アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデン

外部リンク