黒田清綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
黒田 清綱
黒田清綱
時代 江戸時代幕末) - 大正時代
生誕 1830年4月13日天保元年3月21日
死没 1917年大正6年)3月23日
別名 通称:新太郎・嘉右衛門・嘉納、雅号:滝園
墓所 東京都港区長谷寺
薩摩藩
父母 父:黒田清直、母:お守(小倉氏)
庶子:清秀養嗣子黒田清輝
テンプレートを表示

黒田 清綱(くろだ きよつな、1830年4月13日天保元年3月21日) - 1917年大正6年)3月23日)は、日本官僚政治家歌人[1]正二位勲一等子爵

経歴[編集]

幕末[編集]

薩摩藩士・黒田清直の嫡男として生まれる。 同じ薩摩藩出身の黒田清隆との直接の血縁は遠いが、あるとされている。諸説あり。 藩校造士館で学んだ後、藩主島津斉彬に気に入られて史館に入る。また、国学者・歌人である八田知紀に和歌を学ぶ。また、西郷隆盛とも親交が厚かった。後に軍賦役となる。1866年慶応2年)の江戸幕府による第二次長州征伐の際、大宰府に流されていた五卿(七卿落ちの後病死した錦小路頼徳と逃亡中の澤宣嘉を除いた5名)を大坂に連行しようとするが、4月に藩命を受けて五卿の移送の阻止に大宰府に向かった黒田は幕府の使者である監察小林甚六郎と直談判して移送を中止させた。その後、10月に藩の正使として長州藩毛利敬親と会談した。その後、京都・大坂に滞在し、戊辰戦争の際には山陰道鎮撫総督参謀として総督西園寺公望を補佐した。

明治[編集]

その後、鹿児島藩参政として伊地知正治とともに藩政改革に努め、1870年明治3年)に明治政府に召され、弾正少弼として稲田騒動の鎮圧を図り、次いで東京府大参事として川路利良とともに警察制度の設立に参画した。後に教部少輔文部少輔に転じる。西南戦争の際には島津久光に西郷の助命嘆願を行い、西郷の死後も三条実美らに名誉回復を進言した。1875年(明治8年)に元老院議官を経て、華族令公布後の1887年(明治20年)5月24日、子爵に叙せられる[2]1890年(明治23年)7月10日に貴族院議員に選出されて1期務める[3]。同年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]1900年(明治33年)に枢密顧問官に任じられた。

同門の高崎正風の没後は明治大正両天皇の和歌の指導にあたった。また、麹町に滝園社を建てて歌集「庭たつみ」を刊行して門人を育てた。実子・清秀がいたが、庶子であるのを憚って家督を養子としていた甥の清輝に譲った。だが、清輝は留学中に西洋画を志して明治を代表する洋画家となったため、滝園社は清秀が継承した。

栄典[編集]

位階
勲章等

脚注[編集]

  1. ^ 黒田清綱(読み)くろだ きよつな デジタル版 日本人名大辞典+Plus 精選版 日本国語大辞典(コトバンク)
  2. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』42-43頁。
  4. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  5. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  6. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  7. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  8. ^ 『官報』第6378号「叙任及辞令」1904年10月1日。
  9. ^ 『官報』第959号「叙任及辞令」1915年10月12日。
  10. ^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
  11. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  12. ^ 『官報』第5995号「叙任及辞令」1903年6月27日。
  13. ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。
  14. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  15. ^ 『官報』第1391号「叙任及辞令」1917年3月24日。

参考文献[編集]

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


公職
先代
門脇重綾(→欠員)
神祇少輔
日本の旗 教部少輔
1872年 - 1875年
次代
大久保一翁
先代
島義勇(→欠員)
大学少監
日本の旗 文部少輔
1872年 - 1873年
次代
(欠員→)田中不二麿
先代
吉井友実
日本の旗 弾正少弼
1870年 - 1871年
次代
(欠員→)宍戸璣
司法少輔
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
黒田(清綱)家初代
1887年 - 1917年
次代
黒田清輝