高月院

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高月院
高月院本堂
2019年令和元年)8月)
所在地 愛知県豊田市松平町寒ケ入44番地
位置 北緯35度3分2.38秒 東経137度15分51.54秒 / 北緯35.0506611度 東経137.2643167度 / 35.0506611; 137.2643167座標: 北緯35度3分2.38秒 東経137度15分51.54秒 / 北緯35.0506611度 東経137.2643167度 / 35.0506611; 137.2643167
山号 本松山
宗旨 浄土宗
宗派 鎮西派白旗流
本尊 阿弥陀如来
創建年 1367年貞治6年・正平22年)
開山 見誉寛立
開基 在原信重
中興 超誉存牛(第7世)
本誉尊太(第15世)
正式名 本松山高月院寂静寺
文化財 松平氏遺跡
(国の史跡)
弁財天の図
(豊田市指定文化財(絵画))
高月院文書
(豊田市指定文化財(書跡・典籍・文書))
法人番号 9180305005593 ウィキデータを編集
高月院の位置(愛知県内)
高月院
高月院の位置(豊田市(地区別)内)
高月院
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高月院(こうげついん)は、愛知県豊田市にある浄土宗の寺院である。山号を本松山、院号を高月院、寺号を寂静寺(じゃくじょうじ)と称する知恩院末寺で、本尊として阿弥陀如来を祀る[1]

概要[編集]

徳川将軍家の祖松平氏の発祥地とされる旧三河国加茂郡松平郷にあり、草創期の松平氏と結びつくことで教線を地域に広げ[2]、有力教団として14世紀後半から15世紀末にまでに三河国西部(西三河)に浄土宗を定着させた鎮西派寺院のひとつに数えられる[3]隣松寺(愛知県豊田市)、信光明寺(愛知県岡崎市)、大樹寺(同)といった近隣の浄土宗寺院と関係が深く、開創時期や松平氏縁故などでも共通する点が多いものの、本院は他寺院に比べると開創のいきさつがやや不明瞭な寺でもある(後述)。しかしながら、松平氏の最初の菩提寺として早くから堂宇が整備され、その修繕のための徳川将軍家からの手厚い援助は江戸幕府開幕から明治維新まで続いている[4]

本院の境内地は、松平氏の初期の状況を伝え、徳川将軍家による始祖の顕彰のありようを考える上でも重要な遺跡として、内6,024.00平方メートルが国の史跡「松平氏遺跡」の一部になっている[5]

沿革[編集]

伝承[編集]

松平郷園地にある祝聖文(松平親氏願文)碑
2009年平成21年)9月)

寺伝によれば創建は1367年貞治6年・正平22年)、当地松平郷の主であった在原信重(松平太郎左衛門尉信重)を開基とし、その庇護を受けた見誉寛立(けんよかんりゅう)を開山とする[注 1]

見誉は俗名を足助重政といい、足助氏第7代足助重範の舎弟であったとも[注 2]、その遠戚にあたる足助重宗(重範のまたいとこか)の次男であったともいわれる[注 3]。一族をあげて参加した笠置山の戦い1331年元弘元年))で敗走したあとに知恩院に入り、知恩院第8世の如一に師事して剃髪・授戒をうけた上で帰国、功徳の場として寺を設け、寂静寺と号したという[注 4]

開基とされる在原信重は14世紀後半頃に松平郷の地を知行していたという公家の士で、父は在原業平の19代子孫にあたり[注 5]弘安年間(1278年 - 1288年)もしくは康永年間(1342年 -1345年)に当地へ居を移して山野を切り開き松平郷を起こしたとされる在原信盛であった[注 6]。信重も父の跡を継いで松平郷を治め、領地を12の具足(道や橋をこしらえる道具)をもって巡察して善政につとめたほか、慈悲が深く、連歌にも秀でていたという[注 7]

時衆の僧侶といわれ、この信重に見込まれて太郎左衛門家の婿となったという松平氏初代松平親氏は、寂静寺が草創された翌年の1368年応安元年・正平23年)に松平郷に入郷[注 8]、父祖新田氏の再興を念願しながら寛立に深く帰依、松平氏の菩提寺とすることを約した上で、祝聖文[注 9]を聴聞して自らの願文とし、仏法僧の三宝を信仰したという[注 10]。すなわち、当寺に山号や院号が無かったことから本松山高月院として伽藍を造営することで仏宝を勧請し[注 11]、南東にある小山(北緯35度3分1.48秒 東経137度15分53.59秒 / 北緯35.0504111度 東経137.2648861度 / 35.0504111; 137.2648861)に一切経蔵を設けて一切経を収蔵することにより法宝を勧請し[注 12]六所明神の夢告によって彫った観音像を天下峯(愛知県豊田市、北緯35度4分24.12秒 東経137度15分46.73秒 / 北緯35.0733667度 東経137.2629806度 / 35.0733667; 137.2629806)に安置したほか、仁王像も刻んでこれを収める安全寺(愛知県豊田市、北緯35度0分17.20秒 東経137度10分27.94秒 / 北緯35.0047778度 東経137.1744278度 / 35.0047778; 137.1744278)を開創することで僧宝を勧請したという[注 13]。そのほか、観音山に金像の甲中観音を安置(観音堂、北緯35度3分8.86秒 東経137度16分9.09秒 / 北緯35.0524611度 東経137.2691917度 / 35.0524611; 137.2691917)、巨岩の上で見誉と共に17日間の立行をしたともいう[注 14]。この親氏、ならびに親氏の弟であるとも子であるともいわれる松平氏第2代松平泰親の死に際し、両者とも当院で引導焼香をなし、境内に埋葬されて廟塔の建立を受けたという[注 15][注 16]

略史[編集]

高月院界隈の光景(豊田市松平町生ケ塚・日焼田付近)。松平郷ではこうした典型的な谷戸田が散在する[17]

伝承では如一に師事したという見誉であるが、『浄土伝灯総系譜』(1727年享保12年))ではおよそ1世紀後に活動した浄土宗第8祖酉誉聖聡の門弟とされている[18]。『浄土伝灯総系譜』が正しいとすれば、酉誉が1366年(貞治5年・正平21年)の生まれであることから本院の1367年(貞治6年・正平22年)という創建年はあり得ず、開基・開山の伝承も少なくともそのまま鵜呑みにはできないとみられる[18]

『岡崎市史』は当院について、中興とされている第7世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう、1469年文明元年) - 1549年天文18年))が事実上の開山であるとみる[19]。超誉は松平氏第4代松平親忠の5男といわれ[注 17]、寺伝では岩津にある信光明寺開山の釈誉存冏のもとで得度したのち、1511年永正8年)に信光明寺第3世、1521年(永正18年)に知恩院第25世を相続、1527年大永7年)に辞山して信光明寺住持に復職し、1545年天文14年)に当院第7世住持となり、1549年(天文18年)に死去したとされる高僧である[21]。『信光明寺書状』(1669年寛文9年))によれば、元々松平親氏・泰親の廟塔があったところに、超誉がみずからの母親である閑照院皎月尼[注 18]の菩提を弔うために1527年大永7年)に建立したのが「皎月院」であるという[注 19]

実際のところ、本院に関係した信頼に足る年代史料がみられるようになるのも、超誉が活躍する16世紀に入ってからで、ひとつには安祥城(愛知県安城市、北緯34度56分44.2秒 東経137度5分56.1秒 / 北緯34.945611度 東経137.098917度 / 34.945611; 137.098917)にあった松平氏第5代(安祥松平家第2代)松平長親(道閲長親)による『道閲寄進状』と呼ばれるものがそれである(『高月院文書』(豊田市指定文化財))。すなわち、道閲長親は1522年(大永2年)3月13日に松平信長[注 20]から当院近辺にあった「なわての上・同下・田はた・井入・とりかのと」の5か所の下地(土地)を18貫文で買得、1524年(大永4年)正月11日にも同氏から「ひかけささ田・城のこし・同山・下仏田・ひろみのみなくち」の5か所の下地を15貫文で買得し、それらを含めた12項目にわたる土地を寺領として、1527年(大永7年)正月吉日に当院へ寄進したというものである[25]。さかのぼること1506年永正3年)から1509年(永正6年)にかけて駿河国守護今川氏親とその叔父伊勢宗瑞(北条早雲)による三河国侵攻があり、安祥城の道閲長親や岩津城(愛知県岡崎市、北緯35度4分24.12秒 東経137度15分46.73秒 / 北緯35.0733667度 東経137.2629806度 / 35.0733667; 137.2629806)の松平氏(岩津松平家松平親長か)は激闘の末に辛くもこれを防いだとされるが(永正三河の乱)、この勝利は出陣を前に道閲長親が当院の廟所と六所神社に行った参籠により「祖先神霊の冥助の加護力及び神明不測の威神力[注 21]」が呼び起こされたおかげであるとし、報恩のためになされた寄進といわれる[注 22]。しかしながらそれ以上に、道閲長親と超誉が兄弟であることを踏まえたとき、両者の母である閑照院の菩提寺建立にあたっての、開基道閲長親からの供養料であったとみることも可能であろう[28]

1549年(天文18年)暮れ、松平氏第8代松平広忠の嫡男で、今川氏の人質として駿府へと向かう途上にあった8歳の竹千代(後の徳川家康)は当院に立ち寄り、祖廟を参拝したほか、超誉からは十念や説法を拝受したり親しく清談を交わすなどしたといわれ[注 23][注 24]、この時に竹千代が残した『花月一窓』という掛け軸が「伝家康八歳の書」として当院に伝わる[29]。竹千代改め松平蔵人元康は1560年永禄3年)にも当院を訪れ(このときの住持は第9世三誉善達であった)、中門の下に松の木を一本植え、山号である本松山の根本であると称したという[注 25]

豊臣政権下で徳川家康が譜代の家臣共々関東に移封された後、当院を含む松平郷は岡崎城(愛知県岡崎市、北緯34度57分22.71秒 東経137度9分31.7秒 / 北緯34.9563083度 東経137.158806度 / 34.9563083; 137.158806)の田中吉政の支配下に入ったが、もとより松平長親から先祖供養料として寄進されていた80石余を有していたほか、1602年慶長7年)に上洛の途中に当院の祖廟を参詣した家康より、板倉勝重を通じて100石を加増されている[注 26]1617年元和3年)には松平郷内に100石の朱印状が与えられ(『寛文朱印留』)、以降は江戸時代を通じて100石の寺領が認められることになる[31]。なお、この寺領は松平郷松平家の所領との相給で[31]1668年(寛文8年)に行われた松平郷検地では114石6斗1升6合という14.6パーセントの出目高[32]版籍奉還時(1869年7月(明治2年6月))の草高は103石5斗8升8合であったという[33]

江戸時代には幕府からさまざまな優遇を受け、保護され続けている[4]。朱印状は歴代将軍から下されたほか、歴代の住持は徳川幕府より選任され、住持が江戸に下る際には人足8人・馬5疋の使役を認められている(『高月院文書』(豊田市指定文化財))[4]。幕府からの支出もしくは助成として、1641年寛永18年)に境内の伽藍をすべて再建[注 27]1665年(寛文5年)に修復料として500両の下賜[注 28]1688年元禄元年)に廟所・諸堂を総じて修復[注 29]1738年元文3年)に金200両と飛騨垂木2500梃が下賜されて諸堂を修復[注 30]1791年寛政3年)に廟所・諸堂の修復料として金1500両、1793年(寛政5年)に金200両・金1950両・垂木1000梃が下賜[注 31]1815年文化12年)には仏具修繕料として銀30枚[注 32]1818年文政元年)に銀30枚、1826年文政9年)に銀300枚[注 33]などがあり、知られている限りの幕府からの支給額は総じて金3,300両・銀710枚に上るほか、堂宇の修復はおよそ20年に1度のペースであったとみられる[39]。また、朝廷からも厚遇され、1701年元禄14年)には東山天皇より僧職の最高位である常紫衣綸旨を発給されている[40]

境内[編集]

参道と土塀
(2019年(令和元年)10月)

当院は六所山の南西山麓に立地し、その山頂(北緯35度3分17.73秒 東経137度17分3.18秒 / 北緯35.0549250度 東経137.2842167度 / 35.0549250; 137.2842167)からは西南西へ約1.9キロメートル、豊田市役所北緯35度4分56.61秒 東経137度9分22.5秒 / 北緯35.0823917度 東経137.156250度 / 35.0823917; 137.156250)からは東南東へ約10.5キロメートルの距離にある。周辺は複雑に屈曲した尾根と谷地が入り組み、水田と民家が点在するような山間部となっている[41]。境内は標高318メートルの円錐状の小丘を背景にして、北側の山裾を若干削り、南側に高さ約4メートルの石垣を積むことで平坦とした南北約50メートル・東西約80メートルの寺域と、距離約60メートル・幅員約10メートルの土塀を伴う参道からなり、南を正面とする[41]。本堂の標高は約290メートルをはかる[42]

近世には本堂裏に庭園があったと伝えられるほか[41]塔頭に長松軒[注 34]・芳樹庵[注 35]、鎮守社として天満宮弁財天秋葉社金刀比羅社などがあったようである[注 36]

本堂[編集]

寺域の中央に南面して建つ比較的大型の堂で、桁行実長9間(約16.4メートル)、梁間実長7間(約12.7メートル)、入母屋造桟瓦葺で、正面には実長1.5間(約2.7メートル)の向拝と木階四級を付し、庫裏との通路を除いて正面と両側面の三方に濡縁が回る[44]。間取りは堂前半に35畳敷の外陣、後方中央には間口・奥行き共に実長3間の内陣、その両脇に間口実長2間の脇の間が配され、周囲に切目貼の広縁がまわる[45]。全室が等しい床高、内陣・外陣・脇の間の境に建具が無いなどの特徴は古式とされる一方、結界柵や上段框を持たない点、外陣や内陣正面の大虹梁の絵様は18世紀末頃の様式と合致する[46]

建立は1641年寛永18年)[注 37]、当時の屋根は檜皮葺であったといわれる[41]。残されたいくつかの棟札は1694年(元禄7年)に総修復、1738年元文3年)に総修復、1792年寛政4年)に総修復、1875年明治8年)に修復したことをそれぞれ示しており、当建築が示す意匠様式から、現本堂の実態はおおむね1792年(寛政4年)の普請によるものと考えられている[47]。寛永から寛政にいたる普請はそれぞれ江戸幕府の直轄であり、とりわけ寛政の普請は棟札に御係として老中6人(松平定信鳥居忠意松平信明松平乗完戸田氏教本多忠籌)・寺社奉行5人(松平輝和牧野忠精板倉勝政松平信道脇坂安董)・見分4人が名を連ねていることからも相当に念の入ったもので、結果として西三河地方における浄土宗系本堂ではもっとも理想型で格調高い建築様式と見なされ、近隣の寺堂建築の規範として影響を与えたとされている[48]

総門[編集]

中形の高麗門で、1641年(寛永18年)の建立という[49]

山門[編集]

小形で単層の四脚門で、両側に土塀を巡らせながら本堂の正面に南面して建つ[41]。様式からみて18世紀前半の建立と推測される。切妻造・桟瓦葺の屋根、二軒(ふたのき)本繁垂木(ほんしげたるき)の軒、蔐懸魚(かぶらげきょ)を吊った破風の拝みを持つ[46]

庫裏[編集]

本堂の東にあり、間口4間(約7.27メートル)、奥行き6間(約10.9メートル)をはかり、入母屋造、桟瓦葺の屋根を持つ[41]。民家形の中部屋、中規模の書院形の奥座敷を持ち、入口の土間上では野梁を組み合わせている[47]

文化財収蔵庫[編集]

本堂の西にあるコンクリートの建築物で、1971年昭和46年)に建てられている[41]

松平氏墓所[編集]

3基の宝篋印塔
(2019年(令和元年)8月)

本堂の北西に位置し、三つ葉葵を配した石扉を中心とする石壁で囲まれたおよそ50平方メートルの墓域に、3基の花崗岩製の宝篋印塔が東西に並ぶ[50]。中央が松平氏初代松平親氏の墓塔、向かって右側(東側)が第2代松平泰親の墓塔、左側(西側)が閑照院皎月尼(松平氏第4代松平親忠夫人)の墓塔と伝えられる。閑照院の墓塔が併置されているのは、その子で第7代住持の超誉存牛が実母を先祖の墓所に祀ろうとしたためと考えられている[51]

3塔とも相輪・笠・基礎より構成されて塔身を持たず、部分的にも欠失が多いという[51]。いずれも当地方地方に通有する形式を持ち(西三河式)、豊田市教育委員会はその制作年代を室町時代中期~後期とみるが[50]、西三河式宝篋印塔の絶対年代が確立していないため、正確なところは分からない[51]。また、制作順序は泰親の墓塔→親忠夫人の墓塔→親氏の墓塔の順に新しくなるとみられ、伝承上の造塔順序と食い違いが生まれることから、過去のいずれかの時期に取り違えなどが生じた可能性も排除できない[51]文政年間(1818年 - 1829年)に第11代将軍徳川家斉によって、1890年(明治23年)には旧郡山藩主柳沢保申によって補修工事が行われているが、元々3基が並んでいたのか、境内に点在していたものを一箇所に移築したのかも判然としない[51]

中井均は墓域を取り囲む石壁について、下部は江戸時代のもの、上部と石扉は明治時代のものという見解を示している[52]1972年昭和47年)、この石壁に囲まれた範囲が「松平氏霊所」として豊田市の史跡に指定されている[41]

松平氏墓所から1段下がった平坦地には歴代住持の無縫塔が並び、さらに1段下がった平坦地には松平郷松平家第9代松平尚栄・第10代松平重和の板碑をはじめとする古墓が並ぶ[53]。経年劣化が進んでおり、被葬者が特定できない墓石も多くなっている[54]

儀式・法要[編集]

  • 1月1日 - 修正会
  • 毎月8日 - 月並
  • 1月25日 - 御忌
  • 3月 - 彼岸
  • 4月17日 - 御神忌
  • 7月13日 - 御施餓鬼会
  • 9月 - 彼岸
  • 12月 - 仏明会
  • 12月31日 - 除夜の鐘

什物・文化財[編集]

弁財天十五童子像
阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)
本堂内陣須弥壇上にある本尊で、高さ3尺(約91センチメートル)。安阿弥(快慶)の作といわれ、松平親氏の寄付であったという[注 38]
弁財天十五童子像(べんざいてんじゅうごどうじぞう)
16世紀頃(室町時代後期)の製作、掛幅装・絹本着色、縦94.5センチメートル・横39.9センチメートル。本図では、画像中央上部に岩座上に座る弁財天が大きく描かれ、その右脇に小さく大黒天、弁財天の下には十五童子とよばれる眷属とそれに関連したモチーフが左右に振り分けて配置されている。一部の彩色および墨線に後年の補筆が認められるほかは、織り目の粗い画絹、暗く濁りのある彩色、金泥の文様表現の特徴などが本図が室町時代後期に成立したことを示している[56]。1972年(昭和47年)2月24日、『弁財天の図』として豊田市指定文化財に選定されている。
阿弥陀三尊来迎図(あみださんぞんらいごうず)
室町時代前期の製作と推測される[57]
念仏行者現生護念之図(ねんぶつぎょうじゃげんしょうごねんのず)
江戸時代末期から明治時代にかけての製作で、木版手彩色、作者は北邑桃渓[57]
釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)
1922年大正11年)製作、紙本墨画、作者は香岳[57]
高月院文書(こうげついんもんじょ)
室町時代末期から江戸時代にかけての製作。6点あり、巻子本1巻、3通、31冊に分類される。1972年(昭和47年)2月24日、豊田市指定文化財に選定されている[58]
名称 員数 概要
松平道閲の寄進状 1巻 下記の松平道閲安堵状1通、松平道閲寄進状1通、松平信長売券2通をつなげて1巻とする。
  松平道閲安堵状 1通 縦28.6センチメートル、横32.2センチメートル。大永三年正月十一日(1523年1月27日)の日付が記される。
松平道閲寄進状 1通 縦28.6センチメートル、横48.0センチメートル。大永七年正月吉日(1527年)の日付が記される。松平長親(道閲)は、下記の大永2年と大永4年に松平隼人佐(信長)から購入した土地を含めた12項目にわたる土地を高月院に寄進している[25]
松平信長売券 1通 縦28.6センチメートル、横32.0センチメートル。大永二年三月十三日(1522年4月9日)の日付が記される。
松平信長売券 1通 縦28.6センチメートル、横28.8センチメートル。大永四年正月十一日(1524年2月15日)の日付が記される。
板倉伊賀守勝重書状 1通 縦30.3センチメートル、横46.3センチメートル。徳川家康の命を受けた板倉勝重が寺領として本院に100石を施入した際の寄進状である。年号は記載されていないが、1601年慶長6年)にしたためられたと推定される[59]
紫衣着用許可の綸旨 1通 縦33.7センチメートル、横52.8センチメートル。1701年元禄14年)に東山天皇が当院第18世聖誉天及に差し出した綸旨で、内容は紫衣の着用を許可するというもので、薄墨色の紙に書かれている[60]
東海道人馬朱印状 1通 縦35.2センチメートル、横16.0センチメートル。1701年(元禄14年)に江戸幕府から到来した朱印状で、これにより当院住持が東海道で江戸まで下向するときは人足8人・馬5疋を用いることが許された[60]
恢誉上人御代日鑑 30冊 縦24.7センチメートル、横17.2センチメートル。当院第26世の恢誉善隆が記した寺日記で、期間は1818年文政元年)から1853年嘉永6年)まで。当時の世情を知る貴重な史料とされる[60]
村々百姓騒立諸事日記 1冊 縦24.8センチメートル、横17.5センチメートル。当院の役僧であった人物による、1836年天保7年)に加茂郡で勃発した加茂一揆の見聞録[60]

交通アクセス[編集]

自家用車
豊田市役所から主に国道301号を経由して約25分。
基幹バス(とよたおいでんバス
下山・豊田線 - 「松平郷」バス停から徒歩で約15分。
地域バス(松平ともえ号)
松平東照宮そだめ線 - 「松平東照宮」バス停から徒歩で約7分。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  2. ^ 「俗姓足助次郎重範之舎弟重政ト称ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  3. ^ 「師俗姓者足助郷主足助次郎重宗二男也、」(『松平高月院官院記』[7]
  4. ^ 「元弘元年笠置落城ノ後、京師百万遍知恩寺ニ入リ、如一国師ニ投シテ剃髪授戒シ國ニ帰リ當寺ヲ起立シ寂静寺ト号ス、(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  5. ^ 『在原信盛系図書』(松平氏所蔵)[8]。ただし『松平氏由緒書』では信重が語るところとして「せんそ(先祖)と申ハ在原のゆらい(由来)とも申也、又一ツニハ紀州熊野の鈴木の筋共申候、委(くわしく)ハ不存也、但只今ニ至テハ源家ふせう(不詳)ト申候也」とあり[9]、実際には先祖も不詳であると明かしている[10]
  6. ^ 『年代覚』(土井氏所蔵)[11]
  7. ^ 『年代覚』および『松平氏由緒書』[12]
  8. ^ 「北朝應安元戊申年親氏公當邸ニ入郷ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  9. ^ 大無量寿経の経文の1節で、のひとつであり、世の平和と民衆の安寧を願い唱えられる。「天下和順(てんげわじゅん) 日月清明(にちがつしょうみょう) 風雨以時(ふうういじ) 災厲不起(さいれいふき) 国豊民安(こくぶみんなん) 兵戈無用(ひょうがむゆう) 崇徳興仁(しゅうとくこうにん) 務修礼譲(むしゅらいじょう)」
  10. ^ 「親氏公ハ新田ノ太祖義重公十代ノ嫡流ニシテ、塩竈六所明神ノ霊告ニアリテ、當松平郷ニ入セラレ、松平太郎左衛門尉在原信重ノ家督ヲ継キ深ク佛法僧ノ三寶ヲ信仰被為在、新田家再興ノ祈願一向ニ遊ハサレ、當寺開祖寛立上人ヘ帰依不浅、浄土宗門ニ盛ンニ談スル所の天下和順國豐民安ノ経文ヲ聴聞ノ上、…」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  11. ^ 「此頃當寺ノ山号院号未タ定ラサリシ故、親氏公自ラ名ケ給ヒテ、本松山高月院ト染筆ヲ賜リ、(中略)則チ當山ヲ再建、本堂方丈庫裡中門惣門及ヒ諸堂舎塔頭迠速ニ造営被遊、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[13]
  12. ^ 「當寺ヨリ東南ニ當リ一町許リニ小高キ山上ニ一切経蔵ヲ建立アリテ、公傳持ノ一切経ヲ納メ遊サル、是ヲ法寶御勧請ト申ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[14]
  13. ^ 「當山ヨリ北ノ方一里程ニ天下峯ト申ス高山アリ、則チ公仰セニ、此ノ處ハ六所明神の霊告ニ、予ガ子孫一天下ヲ領スベキ開運前兆の嘉名ナリトテ、寛立上人ニ命セラレ、僧宝中有縁ノ観音ノ像ヲ彫尅セシメ安置シ、尚又公自ラ二王尊ノ像ヲ彫尅在セラレ安置シテ、天下安全ノ為ニトテ一寺ヲ造営アリテ、天下山安全寺仁王院ト名ケ給ヒテ、當寺の末寺ニ附シ玉ヘリ、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[14]
  14. ^ 「當山ヨリ丑寅ノ方数百歩許リニ観音山ト称セシ高山アリ、半腹ニ大岩石アリテ、親氏公傳持ノ甲中観音ノ金像二寸八分ナルヲ、此岩洞ニ安置シ、此大岩石上ニ於テ一七日開山寛立ト共ニ立行遊サレ、皇室御開運御家門御再興ノ祈願一向ニ遊サレ、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[14]
  15. ^ 「應永元甲戌年廿四日御逝去、當寺境内ニ埋葬シ廟塔ヲ建ツ、當寺二世浄譽閑的上人導師焼香ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[15]
  16. ^ 「永享二庚戌年九月廿日逝去、當寺ニ埋葬ス、親氏公廟塔ノ左脇ニ葬ル、当寺第四世寶譽良傳上人引導焼香ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[16]
  17. ^ 「住僧超譽存牛上人ナル者即 神君五世之祖親忠卿之五男、」(『松平高月院官院記』[20]
  18. ^ 三河鈴木氏酒呑系、鈴木重勝の女という[22]
  19. ^ 『内閣文庫高月院由緒書』[23]
  20. ^ 松平郷松平家の第4代松平信吉を指すとみられる(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[24])。
  21. ^ 『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[26]
  22. ^ 『高月院世代書』[27]
  23. ^ 超誉と竹千代は高祖叔父と玄姪孫の関係にあたる。
  24. ^ 「天文十八己酉十一月十日東照神君此時号竹千代君御齢八歳時従尾陽駿城渡 御之日枉駕於當山謁廟 住僧超譽存牛上人ナル者即 神君五世之祖親忠卿之五男、而長親卿之舎弟ナレハ者先 御對顔十念御授与之後有数尅』懇切之清談也、虽童齡而領シ玉フ之」(『松平高月院官院記』[20]
  25. ^ 「又永禄三年庚申春 神祖渡于當山如例謁廟之後取小松一株手自ヘ玉ヒ中門即命寺僧曰、當山者苟我松平家称号之根本也、實可謂根本末』平山也、故今樹松樹スト也、」(『松平高月院官院記』[20]
  26. ^ 『高月院文書』(豊田市指定文化財)[30]
  27. ^ 「寛永十八年辛巳家光公當寺伽藍悉皆再建シ玉フ、」(『高月院世代書』[34]
  28. ^ 「同年(寛文五年)十二月十五日家綱公修復料金五百両ヲ下賜フ、」(『高月院世代書』[34]
  29. ^ 「元禄元年壬辰十二月六日綱吉公廟堂并諸堂惣修復シ玉フ、」(『高月院世代書』[35]
  30. ^ 「元文三戊午年六月八日吉宗公金弐百五捨両飛騨榑木二千五百梃ヲ賜ヒ諸堂御修復被命、」(『高月院世代書』[36]
  31. ^ 「寛政三年十二月同祖廟及ヒ諸堂』修復料金千五百両賜ハル、寛政五年丑年二月祖廟諸堂道具料金弐百両賜ハル、寛政五年迠ニ賜金千九百五捨両、樽木千梃也、」(『高月院世代書』[37]
  32. ^ 『高月院世代書』[37]
  33. ^ 『高月院世代書』[38]
  34. ^ 古く在原信重が松平親氏に家督を譲った後に閑居した旧地であるという。
  35. ^ 松平親氏の別邸としてあったものを後年境内に引き移したという。
  36. ^ 『新古什物帳』[43]
  37. ^ 棟札からこの年の普請は修復であった可能性もある。
  38. ^ 「一、安阿弥作 本尊阿弥陀如来尊壱躰 但立像御丈三尺 同後光御臺座 右者親氏君御寄附」(『新古什物帳』[55]

出典[編集]

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  7. ^ 古記録集成 2009, pp. 18.
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  9. ^ 宇野 1994, pp. 85.
  10. ^ 松平町誌 1976, pp. 85.
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  60. ^ a b c d 豊田市史六 1978, pp. 571.

参考文献[編集]

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  • 岡崎市立図書館内 柴田顕正『岡崎市史 別巻 徳川家康と其周囲 上巻』岡崎市役所、1934年6月30日。 
  • 宮川鍈三郎『松平村誌』愛知県東加茂郡松平村役場、1936年9月20日。 
  • 松平町誌編纂委員会 編『松平町誌』豊田市教育委員会、1976年1月20日。 
  • 豊田市教育委員会・豊田市史編さん専門委員会 編『豊田市史 一巻』豊田市、1976年3月1日。 
  • 豊田市教育委員会・豊田市史編さん専門委員会 編『豊田市史 六巻』豊田市、1978年3月30日。 
  • 豊田市教育委員会・豊田市史編さん専門委員会 編『豊田市史 二巻』豊田市、1981年3月31日。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史 中世 2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年3月31日。 
  • 中根義雄『松平郷譚 第一部』中根義雄、1993年10月。 
  • 宇野鎭夫現代語訳 編『松平太郎左衛門家口伝「松平氏由緒書」』松平親氏公顕彰会、1994年2月11日。 
  • 『豊田市文化財叢書第三五 豊田市の寺社建築Ⅲ 浄土宗寺院』豊田市教育委員会、1998年3月31日。 
  • 『高月院古記録集成』松平親氏公顕彰会、2009年3月。 
  • 平野明夫『三河 松平一族 徳川将軍家のルーツ』洋泉社、2010年5月22日。ISBN 978-4-86248-553-3 
  • 新修豊田市史編さん委員会 編『新修豊田市史 別編 美術・工芸』愛知県豊田市、2014年3月。 
  • 空間文化開発機構 編『史跡松平氏遺跡 高月院・松平氏館跡保存整備事業報告書』豊田市教育委員会、2014年3月28日。 
  • 新修豊田市史編さん委員会 編『新修豊田市史 別編 建築』愛知県豊田市、2016年3月。 
  • 新修豊田市史編さん専門委員会 編『新修豊田市史 資料編 考古Ⅲ 古代~近世』愛知県豊田市、2017年3月31日。 

関連項目[編集]