第百三号哨戒艇

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艦歴
発注:
起工:
進水: 1918年3月30日
就役: 1918年9月10日
再役: 1943年4月1日(日本海軍)
その後: 1945年1月12日に戦没
除籍: 1945年3月10日
性能諸元
排水量 基準:980t
全長 56.2m
水線長 55.0m
全幅 10.08m
吃水 2.7m
機関 レシプロエンジン 1基1軸 1,400hp
燃料 重油275t
速力 13kt
航続距離 10ktで1,400海里
乗員 定員105名[1]
兵装 8cm単装高角砲 2基
爆雷48発

第百三号哨戒艇[2](だいひゃくさんごうしょうかいてい)とは、大日本帝国海軍鹵獲艦艇の一つ。元はアメリカ海軍掃海艇フィンチ (USS Finch (AM-9)) 。

概要[編集]

1942年(昭和17年)4月11日フィリピンマニラ湾ギャビテ港で日本軍の攻撃により撃沈マニラの第百三海軍工作部が浮揚修理した。

艇歴[編集]

  • 1918年9月10日 スタンダード造船会社でアメリカ海軍ラップウィング級掃海艇Finch(AM9)として竣工
  • 1942年4月11日 マニラ湾ギャビテ港で日本軍の攻撃により沈没
  • 1942年5月 浮揚、マニラの日本海軍第百三海軍工作部が修理
  • 1943年4月1日 第百三号哨戒艇と命名[3]、哨戒艇に類別され[4]、本籍を舞鶴鎮守府に定められる[5]第三南遣艦隊附属に編入[6]
  • 1945年1月12日 ベトナム南部のファンリ沖で、アメリカ海軍空母艦載機の空襲を受け沈没
  • 1945年3月10日 帝国哨戒艇籍から除かれる[7]
第百三号哨戒艇長
  1. 今里七郎 予備大尉/大尉:1943年4月1日[8] - 1945年3月11日[9]

脚注[編集]

  1. ^ 昭和18年4月1日付 内令第544号。この数字は特修兵や臨時増置された人員を含まない。
  2. ^ 昭和18年4月1日 海軍大臣 逹 第63号。「昭和18年1月~8月 達(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070118500 
  3. ^ 昭和18年4月1日付 達第63号。
  4. ^ 昭和18年4月1日付 内令第568号。
  5. ^ 昭和18年4月1日付 内令第583号。
  6. ^ 『日本海軍編制事典』、p. 366。
  7. ^ 昭和20年3月10日付 内令第228号。
  8. ^ 昭和18年4月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1085号。
  9. ^ 昭和20年3月30日付 秘海軍辞令公報 甲 第1759号。

参考文献[編集]

  • 坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0

関連項目[編集]