「加藤和宏 (JRA)」の版間の差分

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|体 = 53kg
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'''加藤 和宏'''(かとう かずひろ、[[1956年]][[3月4日]] - )は、[[日本中央競馬会]] (JRA) [[美浦トレーニングセンター]]に所属する[[調教師]]、元[[騎手]]。JRA所属の元騎手の[[調教助手]][[加藤士津八]]は息子。他に息子の1人が[[小島太]]厩舎の厩務員をしている
'''加藤 和宏'''(かとう かずひろ、[[1956年]][[3月4日]] - )は、[[日本中央競馬会]] (JRA) [[美浦トレーニングセンター]]に所属する[[調教師]]、元[[騎手]]。


1975年に中央競馬で騎手デビュー。所属する[[二本柳俊夫]][[厩舎]]の[[主戦騎手]]として2年連続の[[JRA賞|JRA年度代表馬]]となった[[ホウヨウボーイ]]や、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬[[シリウスシンボリ]]など4頭の[[八大競走]]・[[競馬の競走格付け|GI級競走]]優勝馬に騎乗、また[[騎手#フリー|フリー]]となってからも[[エリザベス女王杯]]に優勝した[[ホクトベガ]]などに騎乗した。2005年に騎手を引退し、調教師に転身。主な管理馬に[[オーストラリア]]のGI競走[[オールエイジドステークス]]に優勝した[[ハナズゴール]]がいる。
[[高崎競馬場]]に所属していた騎手で現在は[[金沢競馬場]]調教師の[[加藤和宏 (NAR) |加藤和宏]]は[[同姓同名]]の別人である<ref>1999年の日経賞では、中央の加藤和宏がシグナスヒーローに、高崎の加藤和宏がリキアイフルパワーに騎乗し、同一競走、しかも重賞競走で2人の「加藤和宏」が騎乗するという非常に珍しい記録となった(シグナスヒーロー5着、リキアイフルパワー6着)。</ref>。


同じくJRA騎手であった[[加藤士津八]]は長男。他に息子の1人が[[小島太]]厩舎の厩務員をしている。
== 歴 ==

1956年、北海道[[夕張市]]に生まれる。小学2年生の時に父親の業の関係馬産が盛んな[[浦河町]]に移り住んだが、少年期は特別に騎手を志していなかった<ref>木村 263頁。</ref>。中学3年生のとき、調教師の[[二本柳俊夫]]が騎手候補生を探していたところ、近所の牧場が小柄で運動神経に優れた加藤を紹介する<ref>加藤は中学時代に[[体操競技|体操]]部に所属し、地域で指折りの選手であった。(木村 262頁)</ref>。これがきっかけとなって中学校卒業後の1972年、[[馬事公苑]]騎手養成長期課程に第22期生として入所した。同期生には[[根本康広]]、[[佐々木晶三]]などがいる。
[[高崎競馬場]]に所属していた騎手で現在は[[金沢競馬場]]調教師の[[加藤和宏 (NAR) |加藤和宏]]は[[同姓同名]]の別人である<ref group="注">1999年の日経賞では、中央の加藤和宏がシグナスヒーローに、高崎の加藤和宏がリキアイフルパワーに騎乗し、同一競走、しかも重賞競走で2人の「加藤和宏」が騎乗するという非常に珍しい記録となった(シグナスヒーロー5着、リキアイフルパワー6着)。</ref>。

== 歴 ==
=== 生い立ち ===
1956年、北海道[[夕張市]]に生まれる<ref name="kimura">木村(1994)pp.262-264</ref>父親は[[炭鉱]]労働者であったが、炭鉱業の斜陽を見越して加藤が小学2年生の時に家で馬産地である[[浦河町]]に移り住んだ<ref name="kimura" />。中学時代には器械体操部に所属し、地域で有数の選手だったが、将来に騎手を志していたわけではなかった<ref name="kimura" />。中学3年、調教師の[[二本柳俊夫]]が騎手候補生を探していたところ、近所の牧場が小柄で運動神経に優れた加藤を紹介<ref name="kimura" />。これがきっかけとなって中学校卒業後の1972年、[[馬事公苑]]騎手養成長期課程に第22期生として入所した<ref name="kimura" />。同期生には[[根本康広]]、[[佐々木晶三]]などがいる<ref name="kimura" />


=== 騎手時代 ===
=== 騎手時代 ===
騎手課程修了後の1975年に騎手免許を取得し、二本柳厩舎所属でデビュー。初年度は4勝に終わったが、2年目から徐々に勝利数を増やし、中堅騎手として定着。1980年、厩舎所属馬[[ホウヨウボーイ]]に騎乗して[[日経賞]]を制し、[[重賞]]初勝利を挙げる。同年末には同馬で[[有馬記念]]も制し、[[八大競走]]初制覇も果たした。以後も二本柳厩舎の[[主戦騎手]]として[[シャダイアイバー]]で優駿牝馬、[[アンバーシャダイ]]で[[天皇賞|天皇賞(春)]]などを制した。1985年の[[東京優駿]]日本ダービーは[[シリウスシンボリ]]に騎乗、それまでに紆余曲折があったが、1番人気に応えて優勝を果たし、優勝騎手インタビューでは「ゆかりちゃん、やっよ!」と、前年に結婚した妻の名を叫んで話題となった<ref>これは加藤が好きなボクング映画『ロッキー2』で、世界王者となった主人公がング上で恋人の名を叫ぶラを意識したもだった。(木村 268頁。</ref>。また、口取り式では息子の士津八を抱いて写真撮影に臨んでいる
騎手課程修了後の1975年に騎手免許を取得し、二本柳厩舎所属でデビュー。初年度は4勝に終わったが、2年目から徐々に勝利数を増やしていく。1980年、厩舎所属馬[[ホウヨウボーイ]]に騎乗して[[日経賞]]を制し、[[重賞]]初勝利を挙げる。同年末には同馬で[[有馬記念]]も制し、[[八大競走]]初制覇も果たした。同年、騎乗技術賞を初受賞。以後もホウヨウボーイで[[天皇賞|天皇賞(秋)]][[シャダイアイバー]]で[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]、[[アンバーシャダイ]]で天皇賞(春)などを次々と制した。頃には「加藤は強い馬に乗っているから大レースに勝てている。運がいいだけ」という評もあったが、[[野平祐二]]はこの評価に異を唱え、最初から強い馬に乗っていたのならともかく、調教と実戦の積み重ねで馬を鍛錬する二本柳厩舎の特色に加藤の努力も寄与しているはずだと反論した<ref name="nohira">野平(1986)pp.96-98</ref>。さらにその騎乗ぶりを評して「彼の騎手としての資質の良さは一に判断力にすぐれていること」「精神的なしたたかさ、渋太さは並のものではありません」とも述べている<ref name="nohira" />。また、馬主の[[西山茂行]]はこの頃の加藤を評して「かけねなく超一流の腕をもっていた」としている<ref>西山(1992)p.249</ref>。1985年の日本ダービーは[[シリウスシンボリ]]に騎乗、それまでに紆余曲折があったが、1番人気に応えて優勝を果たした([[#シリスシンボリ騒動]])。


1989年、二本柳厩舎を離れ、[[フリーランス|フリー]]となる。以後勝利数が30勝前後で安定、1993年の[[エリザベス女王杯]]では、[[ホクトベガ]]に騎乗して[[二冠馬|二冠牝馬]][[ベガ (競走馬)|ベガ]]等を退け、[[馬場鉄志]]による「ベガはベガでもホクトベガ」の実況で知られる波乱を起こした。
1989年、二本柳厩舎を離れ、[[フリーランス|フリー]]となる。以後勝利数が30勝前後で安定、1993年の[[エリザベス女王杯]]では、[[ホクトベガ]]に騎乗して[[二冠馬|二冠牝馬]][[ベガ (競走馬)|ベガ]]等を退け、[[馬場鉄志]]による「ベガはベガでもホクトベガ」の実況で知られる波乱を起こした。以後も毎年重賞を制し、1999年には[[ワールドクリーク]]で[[地方競馬]]の[[ダートグレード競走|統一GI競走]]・[[東京大賞典]]に優勝した。


しかし2000年代以降は成績が下降線を辿る。[[2003年]]に息子・士津八の騎手デビューで親子騎手となったが、2年後の[[2005年]]に調教師免許を取得し、同年に騎手を引退した。通算6476604勝(数字は中央競馬のみ)。厩舎所属時代は二本柳の方針から他厩舎の馬に騎乗することが極端に少なく、フリーとなって以後は騎乗馬を集める営業力に欠けたとも言われる。このため「腕の割に勝利数が少ない」という意見もあった<ref>『競馬騎手読本』47-48頁。</ref>。
2000年代以降は成績が下降線を辿る。[[2003年]]に息子・士津八の騎手デビューで親子騎手となったが、2年後の[[2005年]]に調教師免許を取得し、同年に騎手を引退した。通算6536610勝(うちJRA6476戦604勝)。競馬通信記者加藤栄は、厩舎所属時代の加藤は二本柳の方針から他厩舎の馬に騎乗することが極端に少なく、フリーとなって以後は騎乗馬を集める営業力に欠けたと指摘し、「腕の割に勝利数が少ない」と評して<ref>『競馬騎手読本』pp.47-48</ref>。


=== 調教師時代 ===
=== 調教師時代 ===
2005年、[[美浦トレーニングセンター]]に厩舎を開業。初出走は同年[[5月28日]][[東京競馬場|東京競馬]]第4競走のビクトリアスで3着。初勝利は同年[[10月29日]]東京競馬第1競走のアリマエクセレントで、延べ54頭目であった。[[2012年]][[3月3日]]の[[チューリップ賞]]を[[ハナズゴール]]で制し、重賞初勝利。[[2007年]]に第1回[[ジョッキスターズ]]出場騎手に連ね、シャダイアイバーの[[勝負服 (競馬)|服色]]で参戦4着いう結果した。
2005年、[[美浦トレーニングセンター]]に厩舎を開業。初出走は同年[[5月28日]][[東京競馬場|東京競馬]]第4競走のビクトリアスで3着。初勝利は同年[[10月29日]]東京競馬第1競走のアリマエクセレントで、延べ54頭目であった。[[2012年]][[3月3日]]の[[チューリップ賞]]を[[ハナズゴール]]で制し、重賞初勝利。同馬ーストラリア人馬主マイケル・希望で2014年からオーストラリア遠征を行い、[[調教助]]転身していた士津八らの帯同のもと<ref>{{Cite web |url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=86444 |title=豪GI制したハナズゴールのマケル・タバートオーナー、喜び |author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2014年4月27日 |date=2014-4-26}}</ref>、遠征3戦目の[[オールエイジドステークス]]に優勝、調教師しての加藤ともどもGI初制覇国外の競走で果たした。


== シリウスシンボリと加藤 ==
== シリウスシンボリの騒動 ==
シリウスシンボリの[[馬主]]であった[[和田共弘]]、[[クラシック_(競馬)|クラシック]]を前、それまでのレースで進路妨害によ失格騎乗ミ敗戦があった加藤から、[[岡部幸雄]]への乗り替わり求め。しかし二本柳は「加藤はミスをし気性難のシリウスを上手く乗りこなしてる」と主張、これを拒否するこれを受けて和田はシリウスを[[畠山重則]]厩舎へ転厩させるが、これが同馬の日常の世話を続けた[[厩務員]]に対しても酷薄な仕打ちであるとして、厩務員[[組合]]が和田を糾弾する事態となった。折衝の末にシリウスは二本柳厩舎に戻り、「[[若葉ステークス]]は岡部、日本ダービー加藤」という妥協案で合意した。ダービー優勝によって円満解決になると思われたが、この後シリウスシンボリは[[菊花賞]]に向かわず、約2年にわたって[[ヨーロッパ|欧州]]遠征を行った。この遠征では加藤は騎乗していない
加藤がシリウスシンボリと1985年のクラシック戦線に臨む際、同馬の馬主であ[[和田共弘]]が二本柳に対し騎手を[[岡部幸雄]]に替えるよう要求したことに端を発する騒動。シリウスシンボリは3歳時<ref group="注">当時の表記。2001年以後の表記は2歳。</ref>(1984年)に4戦2勝成績あったが、敗れた2戦は1位入線も斜行・進路妨害によ失格、スタート出遅れから追い込み届かず2着という内容だった。和田は「加藤はシリウスに乗って一度ならず二度までもミスを犯している。降ろすのが当然だ。競馬というのは強い馬に最高のジョッキーを乗せるのが本来の姿だ。それがファンへの信頼にもつながる。いま日本で最高のジョッキーは岡部だ。だから私は岡部を乗せい<ref name="nohira2">野平(1986)pp.216-217</ref>」と二本柳に迫り、対する二本柳は「加藤が岡部に比べて一枚も二枚も見劣るということ断じないのだから、加藤を乗せる。だいいちデビュー前からゲート<ref group="注">発馬機(ゲート)からスタートを苦手とすること。</ref>のあったシリウスを一生懸命に矯正して一人前にした加藤の苦労はどうなんだ」と反発た<ref name="nohira2" />。和田はシリウスを[[畠山重則]]厩舎へ転厩させるが、これが同馬の日常の世話を続けた[[厩務員]]に対しても酷薄な仕打ちであるとして、厩務員[[組合]]が和田を糾弾する事態となった<ref name="ichimaru">市丸(1992)p.112</ref>。折衝の末にシリウスは二本柳厩舎に戻り、「4歳初戦の[[若葉ステークス|若葉賞]]は岡部、日本ダービー前哨戦の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]から加藤」という妥協案で合意した<ref name="nohira2" />


岡部が騎乗したシリウスは若葉賞を快勝したが、加藤で臨むはずだったNHK杯は脚部不安で回避となり、日本ダービーへは直行となった<ref name="nohira2" />。加藤はこの日本ダービーで冷静な騎乗を見せ<ref>野平(1986)pp.218-219</ref>、騒動を振り払っての優勝を果たした。競走後のインタビューでは自らの好む映画『[[ロッキー2]]』の主人公に倣い、観客の面前で妻の名を叫んだ<ref>木村(1994)p.268</ref>。和田は風邪を理由として競馬場に姿を見せず<ref name="ichimaru" />、競走後には、加藤のスパートは早すぎた、ゴール後にガッツポーズをしたのは安全面へのプロ意識に欠ける、といったコメントを出した<ref>野平(1986)p.220</ref>。日本ダービーのあとシリウスシンボリはヨーロッパ遠征を行い、加藤や二本柳の手を離れることになった。
== 騎手成績 ==

== 成績 ==
=== 騎手成績 ===
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:right; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:right; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!騎乗回数!!勝率!![[連対率]]
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!騎乗回数!!勝率!![[連対率]]
46行目: 57行目:
|[[平地競走|平地]]||601||542||594||4,725||6,462||.093||.177
|[[平地競走|平地]]||601||542||594||4,725||6,462||.093||.177
|-
|-
|[[障害競走|障害]]||3||0||0||14||17||.214||.214
|[[障害競走|障害]]||3||0||0||11||14||.214||.214
|-
|-
|計||603||542||594||4,736||6,476||.093||.178
|計||604||542||594||4,736||6,476||.093||.178
|}
|}
上記のほか地方競馬で59戦6勝。


{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
67行目: 79行目:
|}
|}


=== おもな騎乗馬 ===
==== おもな騎乗馬 ====
※括弧内は加藤騎乗時の優勝重賞競走。
※括弧内は加藤騎乗時の優勝重賞競走。

*[[ホウヨウボーイ]](1980年'''有馬記念'''日経賞 1981年'''天皇賞・秋'''
'''八大競走・GI競走優勝馬'''
*[[アンバーシャダイ]](1981年[[目黒記念|目黒記念・秋]] 1982年[[アメリカジョッキークラブカップ]] 1983年'''天皇賞・春'''、アメリカジョッキークラブカップ)
*[[ホウヨウボーイ]](1980年有馬記念、1981年天皇賞・秋など重賞3勝
*[[シャダイアイバー]](1982年'''優駿牝馬''')
*[[シリウスシンボリ]](1985'''東京優駿'''
*[[シャダイアイバー]](1982年優駿牝馬
*[[アンバーシャダイ]](1983年天皇賞・春など重賞5勝)
*[[シリウスシンボリ]](1985年東京優駿)
*[[ホクトベガ]](1993年エリザベス女王杯など重賞3勝
*[[ワールドクリーク]](1999年[[東京大賞典]])

'''その他重賞競走優勝馬'''
*シャダイコスモス(1985年[[中山牝馬ステークス]])
*[[ウインドストース]](1987年[[中日新聞杯]]、[[函館記念]]、[[ダービー卿チャレンジトロフィー]] 1988年ダービー卿チャレンジトロフィー)
*[[ウインドストース]](1987年[[中日新聞杯]]、[[函館記念]]、[[ダービー卿チャレンジトロフィー]] 1988年ダービー卿チャレンジトロフィー)
*サシオギ(1990年[[タマツバキ記念]])
*ヒカルダンサー(1990年[[府中牝馬ステークス|牝馬東京タイムズ杯]])
*[[ダイナマイトダディ]](1992年[[中山記念]]、[[京王杯スプリングカップ]])
*[[ダイナマイトダディ]](1992年[[中山記念]]、[[京王杯スプリングカップ]])
*ジャニス(1992年府中牝馬ステークス)
*[[ホクトベガ]](1993年'''[[エリザベス女王杯]]'''、[[フラワーカップ]]
*ゴーゴーナカヤマ(1995年[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]])
*アジュディケーター(1996年京成杯3歳ステークス)
*[[アロハドリーム]](1997年[[中京記念]]、函館記念)
*[[アロハドリーム]](1997年[[中京記念]]、函館記念)
*[[ワールドクリーク]](1999年'''[[東京大賞典]]'''
*[[タヤスケーポイント]](1999年[[マーチステークス]]、[[プロキオンステークス]])
*[[タヤスケーポイント]](1999年[[マーチステークス]]、[[プロキオンステークス]])
*[[ペインテドブラック]](1999年[[青葉賞]])
*[[ペインテドブラック]](1999年[[青葉賞]])
*[[ダイヤモンドビコー]](2002年[[府中牝馬ステークス]])
*[[ダイヤモンドビコー]](2002年[[府中牝馬ステークス]])


== 調教師成績 ==
=== 調教師成績 ===
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
!||日付||競馬場・開催||競走名||馬名||頭数||人気||着順
!||日付||競馬場・開催||競走名||馬名||頭数||人気||着順
90行目: 112行目:
|初勝利||2005年10月29日||4回東京7日1R||2歳未勝利||アリマエクセレント||10||4||1着
|初勝利||2005年10月29日||4回東京7日1R||2歳未勝利||アリマエクセレント||10||4||1着
|-
|-
|重賞初出走||2005年8月14日||1回札幌2日9R||クイーンS||ホウザングラマー||14頭||14||12着
|重賞初出走||2005年8月14日||1回札幌2日9R||クイーンステークス||ホウザングラマー||14頭||14||12着
|-
|-
|重賞初勝利||2012年3月3日||1回阪神3日11R||チューリップ賞||ハナズゴール||14頭||4||1着
|重賞初勝利||2012年3月3日||1回阪神3日11R||チューリップ賞||ハナズゴール||14頭||4||1着
|-
|GI初勝利||2014年4月26日||[[ロイヤルランドウィック競馬場|ロイヤルランドウィック]]6R||オールエイジドステークス||ハナズゴール||14頭||4||1着
|}
|}


=== おもな管理馬 ===
==== おもな管理馬 ====
'''GI競走優勝馬'''
*[[ハナズゴール]](2012年チューリップ賞、2013年[[京都牝馬ステークス]])
*[[ハナズゴール]](2014年[[オールエイジドステークス]]など重賞3勝)

'''その他の管理馬'''
*[[ホクトスルタン]]([[庄野靖志]]厩舎へ転厩)

== 注釈・出典 ==
=== 注釈 ===
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== 出典・脚注 ==
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*野平祐二、芹沢邦雄『名騎手たちの秘密 - 野平祐二の実戦的騎乗論』(中央競馬ピーアール・センター、1986年)ISBN 978-4924426177
*西山茂行『馬主が書いた一日一言』(ミデアム出版社、1992年)ISBN 978-4944001286
*[[市丸博司]]『サラブレッド怪物伝説』(廣済堂出版、1994年)ISBN 4331652025
*[[市丸博司]]『サラブレッド怪物伝説』(廣済堂出版、1994年)ISBN 4331652025
*木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 4796608729
*木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 4796608729

2014年4月27日 (日) 01:37時点における版

加藤和宏
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道夕張市
生年月日 (1956-03-04) 1956年3月4日(68歳)
身長 161cm
体重 53kg
血液型 A型
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 二本柳俊夫中山-美浦TC(1975年3月-1989年11月)
フリー(1989年11月-2005年2月)
初免許年 1975年
免許区分 平地
騎手引退日 2005年2月28日
重賞勝利 32勝(中央31勝/地方1勝)
G1級勝利 7勝(中央6勝/地方1勝)
通算勝利 6536戦610勝
(中央6476戦604勝/地方59戦6勝)
調教師情報
初免許年 2005年(同年開業)
重賞勝利 3勝(中央2勝/国外1勝)
G1級勝利 1勝(国外1勝)
経歴
所属 美浦T.C. (2005年- )
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加藤 和宏(かとう かずひろ、1956年3月4日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) 美浦トレーニングセンターに所属する調教師、元騎手

1975年に中央競馬で騎手デビュー。所属する二本柳俊夫厩舎主戦騎手として2年連続のJRA年度代表馬となったホウヨウボーイや、東京優駿(日本ダービー)優勝馬シリウスシンボリなど4頭の八大競走GI級競走優勝馬に騎乗、またフリーとなってからもエリザベス女王杯に優勝したホクトベガなどに騎乗した。2005年に騎手を引退し、調教師に転身。主な管理馬にオーストラリアのGI競走オールエイジドステークスに優勝したハナズゴールがいる。

同じくJRA騎手であった加藤士津八は長男。他に息子の1人が小島太厩舎の厩務員をしている。

高崎競馬場に所属していた騎手で現在は金沢競馬場調教師の加藤和宏同姓同名の別人である[注 1]

経歴

生い立ち

1956年、北海道夕張市に生まれる[1]。父親は炭鉱労働者であったが、炭鉱業の斜陽を見越して加藤が小学2年生の時に一家で馬産地である浦河町に移り住んだ[1]。中学時代には器械体操部に所属し、地域で有数の選手だったが、将来に騎手を志していたわけではなかった[1]。中学3年次、調教師の二本柳俊夫が騎手候補生を探していたところ、近所の牧場が小柄で運動神経に優れた加藤を紹介[1]。これがきっかけとなって中学校卒業後の1972年、馬事公苑騎手養成長期課程に第22期生として入所した[1]。同期生には根本康広佐々木晶三などがいる[1]

騎手時代

騎手課程修了後の1975年に騎手免許を取得し、二本柳厩舎所属でデビュー。初年度は4勝に終わったが、2年目から徐々に勝利数を増やしていく。1980年、厩舎所属馬ホウヨウボーイに騎乗して日経賞を制し、重賞初勝利を挙げる。同年末には同馬で有馬記念も制し、八大競走初制覇も果たした。同年、騎乗技術賞を初受賞。以後もホウヨウボーイで天皇賞(秋)シャダイアイバー優駿牝馬(オークス)アンバーシャダイで天皇賞(春)などを次々と制した。この頃には「加藤は強い馬に乗っているから大レースに勝てている。運がいいだけ」という評もあったが、野平祐二はこの評価に異を唱え、最初から強い馬に乗っていたのならともかく、調教と実戦の積み重ねで馬を鍛錬する二本柳厩舎の特色に加藤の努力も寄与しているはずだと反論した[2]。さらにその騎乗ぶりを評して「彼の騎手としての資質の良さは一に判断力にすぐれていること」「精神的なしたたかさ、渋太さは並のものではありません」とも述べている[2]。また、馬主の西山茂行はこの頃の加藤を評して「かけねなく超一流の腕をもっていた」としている[3]。1985年の日本ダービーではシリウスシンボリに騎乗、それまでに紆余曲折があったが、1番人気に応えて優勝を果たした(#シリウスシンボリの騒動)。

1989年、二本柳厩舎を離れ、フリーとなる。以後勝利数が30勝前後で安定、1993年のエリザベス女王杯では、ホクトベガに騎乗して二冠牝馬ベガ等を退け、馬場鉄志による「ベガはベガでもホクトベガ」の実況で知られる波乱を起こした。以後も毎年重賞を制し、1999年にはワールドクリーク地方競馬統一GI競走東京大賞典に優勝した。

2000年代以降は成績が下降線を辿る。2003年に息子・士津八の騎手デビューで親子騎手となったが、2年後の2005年に調教師免許を取得し、同年に騎手を引退した。通算6536戦610勝(うちJRA6476戦604勝)。競馬通信記者の加藤栄は、厩舎所属時代の加藤は二本柳の方針から他厩舎の馬に騎乗することが極端に少なく、フリーとなって以後は騎乗馬を集める営業力に欠けたと指摘し、「腕の割に勝利数が少ない」と評している[4]

調教師時代

2005年、美浦トレーニングセンターに厩舎を開業。初出走は同年5月28日東京競馬第4競走のビクトリアスで3着。初勝利は同年10月29日東京競馬第1競走のアリマエクセレントで、延べ54頭目であった。2012年3月3日チューリップ賞ハナズゴールで制し、重賞初勝利。同馬はオーストラリア人馬主マイケル・タバートの希望で2014年からオーストラリア遠征を行い、調教助手に転身していた士津八らの帯同のもと[5]、遠征3戦目のオールエイジドステークスに優勝し、調教師としての加藤ともどもGI初制覇を国外の競走で果たした。

シリウスシンボリの騒動

加藤がシリウスシンボリと1985年のクラシック戦線に臨む際、同馬の馬主である和田共弘が二本柳に対し、騎手を岡部幸雄に替えるよう要求したことに端を発する騒動。シリウスシンボリは3歳時[注 2](1984年)に4戦2勝の成績であったが、敗れた2戦は1位入線も斜行・進路妨害により失格、スタートの出遅れから追い込み届かず2着という内容だった。和田は「加藤はシリウスに乗って一度ならず二度までもミスを犯している。降ろすのが当然だ。競馬というのは強い馬に最高のジョッキーを乗せるのが本来の姿だ。それがファンへの信頼にもつながる。いま日本で最高のジョッキーは岡部だ。だから私は岡部を乗せたい[6]」と二本柳に迫り、対する二本柳は「加藤が岡部に比べて一枚も二枚も見劣るということは断じてないのだから、加藤を乗せる。だいいちデビュー前からゲート難[注 3]のあったシリウスを一生懸命に矯正して一人前にした加藤の苦労はどうなるんだ」と反発した[6]。和田はシリウスを畠山重則厩舎へ転厩させるが、これが同馬の日常の世話を続けた厩務員に対しても酷薄な仕打ちであるとして、厩務員組合が和田を糾弾する事態となった[7]。折衝の末にシリウスは二本柳厩舎に戻り、「4歳初戦の若葉賞は岡部、日本ダービー前哨戦のNHK杯から加藤」という妥協案で合意した[6]

岡部が騎乗したシリウスは若葉賞を快勝したが、加藤で臨むはずだったNHK杯は脚部不安で回避となり、日本ダービーへは直行となった[6]。加藤はこの日本ダービーで冷静な騎乗を見せ[8]、騒動を振り払っての優勝を果たした。競走後のインタビューでは自らの好む映画『ロッキー2』の主人公に倣い、観客の面前で妻の名を叫んだ[9]。和田は風邪を理由として競馬場に姿を見せず[7]、競走後には、加藤のスパートは早すぎた、ゴール後にガッツポーズをしたのは安全面へのプロ意識に欠ける、といったコメントを出した[10]。日本ダービーのあとシリウスシンボリはヨーロッパ遠征を行い、加藤や二本柳の手を離れることになった。

成績

騎手成績

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 601 542 594 4,725 6,462 .093 .177
障害 3 0 0 11 14 .214 .214
604 542 594 4,736 6,476 .093 .178

上記のほか地方競馬で59戦6勝。

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1975年3月1日 1回中山3日6R 4歳上500万下 マウントブラザー 10頭 - 8着
初勝利 1975年9月14日 4回中山4日10R - ヤマエンザン - - 1着
重賞初騎乗 1976年5月9日 2回東京6日10R NHK杯 ユッカオンワード 16頭 15 15着
重賞初勝利 1980年3月30日 3回中山2日10R 日経賞 ホウヨウボーイ 10頭 2 1着
GI初騎乗 1979年5月20日 3回東京2日10R 優駿牝馬 スイートサンクルー 24頭 14 9着
GI初勝利 1980年12月21日 5回中山8日9R 有馬記念 ホウヨウボーイ 12頭 4 1着

おもな騎乗馬

※括弧内は加藤騎乗時の優勝重賞競走。

八大競走・GI競走優勝馬

その他重賞競走優勝馬

調教師成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初出走 2005年5月28日 3回東京3日R 障害3歳上未勝利 ビクトリアス 14 6 3着
初勝利 2005年10月29日 4回東京7日1R 2歳未勝利 アリマエクセレント 10 4 1着
重賞初出走 2005年8月14日 1回札幌2日9R クイーンステークス ホウザングラマー 14頭 14 12着
重賞初勝利 2012年3月3日 1回阪神3日11R チューリップ賞 ハナズゴール 14頭 4 1着
GI初勝利 2014年4月26日 ロイヤルランドウィック6R オールエイジドステークス ハナズゴール 14頭 4 1着

おもな管理馬

GI競走優勝馬

その他の管理馬

注釈・出典

注釈

  1. ^ 1999年の日経賞では、中央の加藤和宏がシグナスヒーローに、高崎の加藤和宏がリキアイフルパワーに騎乗し、同一競走、しかも重賞競走で2人の「加藤和宏」が騎乗するという非常に珍しい記録となった(シグナスヒーロー5着、リキアイフルパワー6着)。
  2. ^ 当時の表記。2001年以後の表記では2歳。
  3. ^ 発馬機(ゲート)からのスタートを苦手とすること。

出典

  1. ^ a b c d e f 木村(1994)pp.262-264
  2. ^ a b 野平(1986)pp.96-98
  3. ^ 西山(1992)p.249
  4. ^ 『競馬騎手読本』pp.47-48
  5. ^ 豪GIを制したハナズゴールのマイケル・タバートオーナー、喜びの声”. netkeiba.com (2014年4月26日). 2014年4月27日閲覧。
  6. ^ a b c d 野平(1986)pp.216-217
  7. ^ a b 市丸(1992)p.112
  8. ^ 野平(1986)pp.218-219
  9. ^ 木村(1994)p.268
  10. ^ 野平(1986)p.220

参考文献

  • 野平祐二、芹沢邦雄『名騎手たちの秘密 - 野平祐二の実戦的騎乗論』(中央競馬ピーアール・センター、1986年)ISBN 978-4924426177
  • 西山茂行『馬主が書いた一日一言』(ミデアム出版社、1992年)ISBN 978-4944001286
  • 市丸博司『サラブレッド怪物伝説』(廣済堂出版、1994年)ISBN 4331652025
  • 木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 4796608729
  • 『競馬騎手読本』(宝島社、1997年)ISBN 4796692908

外部リンク