今川貞世

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今川 貞世(いまがわ さだよ、嘉暦元年〔1326年〕 - 応永27年〔1420年〕?)は、鎌倉時代後期から南北朝室町時代の武将、遠江守護大名室町幕府九州探題。歌人としても名高い。父は今川範国、正室は土岐頼雄の娘。弟の今川仲秋は養子となる。通称は六郎(ろくろう)。官職は左京亮や伊予守を歴任。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。

伝記

幼少時は不明だが、父に従っていた記録は残り、12,3歳頃から和歌を学ぶ。足利家内部の対立から将軍足利尊氏と弟の足利直義の両派の抗争へ発展した観応の擾乱においては、父とともに将軍側に属する。直義派や南朝勢力と戦い、55年には細川清氏とともに東寺合戦で戦う。幕府執事となった清氏が61年に失脚して南朝に下ると、父の命で講和呼びかけのために遠江から召還される。軍事活動のほか、遠江山城守護職、幕府の引付頭人などを務め、67年に2代将軍の足利義詮が死去すると出家。

3代将軍足利義満時代の1370年建徳元年/応安3年)頃に、管領細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された。観応の擾乱後に南朝方の菊池氏懐良親王を奉じた征西府、将軍尊氏の庶子である足利直冬などが分立し、征西府が少弐氏を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた九州の平定のために派遣される。

本国の遠江で準備をした後、10月に京都を出発、中国地方を通過して12月に九州へ至る。大内義弘などの協力も得て貞世は新興の国人勢力と連絡し、阿蘇氏の協力を得て豊後の菊池を、松浦党の協力を得て大宰府を攻め、了俊自身の兵は中央から大宰府を攻めた。1372年文中元年/応安5年)6月には懐良親王、菊池武光らを筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部まで追い、征西府から大宰府を奪回し、拠点とする。

戦局は肥後へ移り、74年7月に了俊は水島まで出兵する。1375年天授元年/永和元年)、水島においては会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる大友親世少弐冬資、薩摩の島津氏久らの来援を呼びかける。三人衆のうち1人、九州探題と対立していた少弐氏の少弐冬資は着陣を拒むが、島津氏久の仲介で来陣する。水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺、この事件により氏久は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになる。

貞世は懐良親王を指すとされている「日本国王良懐」を冊封するために派遣された明使を抑留。高麗の使者鄭夢周とも接して独自の交渉を行い、92年に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続する。大内氏にも呼びかけて倭寇(前期倭寇)を鎮圧し、倭寇に拉致された高麗人の送還などを行い、『大蔵経』を求める。

1395年応永2年)7月、了俊は京都に召喚され、8月には上京。九州探題を罷免され、後任は渋川満頼となる。了俊は駿河(静岡県)半国の守護として赴任され、甥の今川泰範と領地を分ける。了俊解任の理由は、推薦した細川頼之が康暦の政変により失脚、頼之も既に死去しており、反細川派の斯波義将が管領となるなど政界構造が変化して支持を失っていたこと、後任の渋川氏と将軍義満、義将の縁戚関係も指摘されている。また、南北朝合一を達成して将軍権力を確立した義満が、了俊の九州における勢力拡大や独自の外交権を危険視していたことなどが指摘されている。

後任の探題職を望んでいた大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけるが、了俊は拒絶。守護職としての駿河統治に従事する。1399年(応永6年)、義弘が堺で挙兵し応永の乱が起こる。了俊は鎌倉公方足利満兼足利氏満の長男)に乱に呼応するように呼びかけたとも言われ、義満に関与を疑われ、平定後の翌年には鎌倉公方を補佐する関東管領上杉憲定に対して貞世追討令が出される。了俊は憲定や一族の助命嘆願で許され、1402年に上洛し、政界に関与しないことを条件に赦免された。晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行い、96歳前後で死去。

墓所は静岡県袋井市の海蔵寺。

人物

和歌は幼少時から祖母の香雲院や京極為基冷泉為秀らに学び、連歌では二条良基らに学ぶ。正徹とも交友。や儒学なども行う。『言塵集』という歌集や、九州探題としての赴任途中の紀行文『道ゆきぶり』を残す。吉田兼好の弟子である命松丸とも親交があり、命松丸が九州下向へ従っている事などから『徒然草』の編纂にも関わっているとも言われるが、否定的研究もある。

晩年には学者として著作に専念し、『難太平記』は古典『太平記』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、太平記に記されない一族の功績を記している。

家系

著作

  • 『道ゆきぶり』
  • 『下草』
  • 『了俊大草子』
  • 『難太平記』
  • 『二言抄』
  • 『了俊日記』
  • 『了俊一子伝』
  • 『了俊歌学書』

史料

  • 『今川了俊関係編年史料』

関連

先代
遠江今川氏歴代当主
次代
今川仲秋