徳島大空襲

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徳島大空襲(とくしまだいくうしゅう)は、1945年7月4日未明に徳島県徳島市が受けた空襲のこと。なお徳島市は、B-29爆撃機による空襲を、同年6月1日から7月24日までの間に大空襲を含め7回受けている。

概要[編集]

1945年7月3日午後4時23分(日本時間)、マリアナ諸島グアムサイパンテニアンの3島4基地から、姫路高松高知、そして徳島への爆撃のため501機のB-29が出撃した。

硫黄島を経由し、7月4日の未明、129機のB-29が新町川河口から徳島市の上空に飛来。午前1時24分から同3時19分まで、1時間55分の間焼夷弾を投下し続けた。この空襲により当時の徳島市の約62%が焦土と化し、見渡す限りの焼け野原となった。人的被害は当時の11万人余りの市民のうち、死者約1000人(984人との説も)、けが人は約2000人、被災者は約70000人であると伝わる。

1942年(昭和17年)8月、文部省主催による幻の甲子園大会にて徳島商業が優勝して一枚の賞状を得るも、この戦災により焼失した。

投下された焼夷弾[編集]

主な被災建造物[編集]


空襲により犠牲になった著名人[編集]

避難の様子[編集]

焼夷弾による炎から逃れるために、多くの市民が徳島市の眉山へと登った。眉山からは爆撃機から雨のように降り注ぐ焼夷弾と、灼熱の炎に包まれた自分たちの住む街を見降ろす事ができた。

避難が間に合わなかった人々は佐古川助任川などに飛び込み、朝になって川からはい出た。川には遺体が流れていたという。

衛生面・その他[編集]

怪我を負った人々は破傷風などに感染するが、当時貴重な血清を手に入れるのは困難であったために命を落とす人もいた。 空襲の熱で焼けた鶏やジャガイモなどを食べた人達もいた。

真っ赤になった徳島市の上空が鳴門小松島、その他の広範囲から確認できたようである。

参考文献[編集]

  • 徳島新聞(2010年7月1日付)
  • 徳島新聞(2010年7月2日付)
  • 徳島新聞(2010年7月3日付)
  • 徳島新聞(2010年7月4日付)
  • 徳島新聞(2013年7月3日付)


関連項目[編集]

外部リンク[編集]