壺屋焼
壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる陶器。現在では灯油窯やガス窯を用いながらも、伝統の技術と技法を受け継いでいる。
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[編集] 歴史
[編集] 琉球王国時代
琉球王国は古くから交易が盛んで、東南アジア方面との交流が活発だった。そのとき、流入してきたのが南蛮焼と呼ばれる焼き締め陶器であり、琉球では主に酒器などを自足するため技術を学び、自国で焼き始めたといわれる[要出典]。
1609年、琉球は薩摩島津藩の支配下に入る。琉球は多くの産業振興(久米島紬なども)のためこの立場を逆に利用して、焼き物でも薩摩にいた朝鮮陶工の招聘や技術者の薩摩以北への派遣を行っている。また1670年には平田典通を清に派遣して赤絵を学ばせるなど、現在の中国方面からの技術導入も引続き行った。1682年、尚貞王が地方に分散していた陶工を首里城近郊に集め、壺屋(沖縄方言でヤチムン)と呼ばれる焼き物街とした。これが壺屋焼の草創である。その後、壺屋焼は琉球随一の窯場となり国内消費や交易に利用された。
また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。江戸時代に大名の江戸屋敷が密集していた汐留遺跡の発掘の際に、伊達氏の屋敷跡と推定される地区から壺屋焼の徳利が出土している。また、幕末の風俗を記した『守貞謾稿』にも江戸や京都・大坂で荒焼徳利に入った泡盛が市中で売られていたことが記されており、それを裏付けるように各地の近世遺跡で壺屋焼が出土している。ただし、研究者の間でも「壺屋焼」の存在自体が知られておらず、「備前焼」「南蛮焼」として博物館などに展示されている例があるとの指摘(小田静雄)もある[1]。
[編集] 明治以降
明治から大正に掛けて壺屋焼は低迷期を迎える。琉球王府の廃止を含む幕藩体制の解消で流通の制限が無くなり、有田などから安価な焼き物が大量に流入してきた。
再生の転機は、大正の終わり頃から柳宗悦によって起こされた民芸運動に陶工達が触発されてからである。柳や浜田庄司らは1945年頃まで折りにふれて来島し、金城次郎や新垣栄三郎ら陶工に直接指導や助言を行い、また壺屋焼を東京や京阪神などで広く紹介したため、生産も上向きになった。
今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らによるところが大きい。彼らは日本国内で生産される日用雑器の「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性に光を照らした。そして壺屋焼を、本土にない鮮やかな彩色が目を惹き、庶民の日用品でこれほどまでに装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと評価している。
太平洋戦争(沖縄戦)で沖縄本島全土が焦土と化す中、壺屋地区は比較的軽微な被害で済んだ。しかし、一帯の都市化の進行とともに薪窯の使用が規制されると、伝統的な技法を失った当地では再度、存続の危機を迎えた。そのため、今日では薪窯を認可した読谷を初め、壺屋地区以外にも窯元が分散することとなり、およそ100ほどの窯元が県内に見られる。
[編集] 作品の特徴
壺屋焼は大きく分けて、「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むもの[要出典]と、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付がある。
- 荒焼(沖縄方言でアラヤチ)
- 上焼(沖縄方言でジョウヤチ)
[編集] 脚注
- ^ 小田静雄「琉球産泡盛陶器(壺屋焼)の交易」(江戸遺跡研究会 編『江戸時代の名産品と商標』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-03446-3 所収)