ヴァヴェルの竜

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ゼバスティアン・ミュンスターによる『コスモグラフィア・ウニベルサリス/一般宇宙誌 (Cosmographie Universalis ) 』(1544年)の中に描かれたヴァヴェルの竜

ヴァヴェルの竜またはヴァヴェルの丘の竜英語: Wawel Dragonポーランド語: Smok Wawelski)は[注 1]、ポーランド・クラクフ市のポーランドの伝承英語版

ヴィスワ川沿岸のヴァヴェルの丘の麓の「竜の洞窟英語版 」を住み処とし、生贄を要求したが、市を創立したクラク(ス)英語版王あるいはその王子に退治されたとされる。

概説[編集]

最古の伝承によればクラク王(ラテン語:クラクス王)の在位中、その王都クラクフに現れた。王の二人の王子が、硫黄をつめこんだ牛皮製のデコイ餌で退治。だが弟クラク王子英語版のみが凱旋し、兄王子を殺したことが露見して追放された(『ヴィンツェンティのポーランド年代記』英語版、13世紀)。

ヤン・ドゥウゴシュの年代記(15世紀)は、兄をクラク、兄殺しの弟をレフ王子英語版としており、作戦は王自身の考案とする[注 2]

ポーランド語で書かれた近世の年代記では、竜退治策の考案者がスクプポーランド語版という靴職人だった、という話になっており、竜の住処が城下の岩窟「竜の洞窟スモチャ・ヤマ英語版」であるとしている(すなわちヴァヴェル城が建つヴィスワ川の河岸のヴァヴェルの丘麓の洞窟)。

古文献の記述[編集]

ヴァヴェルの竜退治伝説の最古の記述は、クラクフ司教ヴィンツェンティ・カドウベク英語版が著した年代記(13世紀初頭)によるものとされる[1]

ポーランド年代記(1200年頃)[編集]

ラテン語で書かれた『ヴィンツェンティのポーランド年代記』英語版(1190–1208年頃成立)によれば、クラク王(ラテン語:グラックス王)の治世の頃[6]、その創建した王都クラクフ:グラコヴィ[7]に怪物が発生した。訳出では「竜(スモク)」だとされるが[5][注 3]、聖ヴィンツェンティのラテン語原文では、竜とは言わず、この怪物をホロファグス: holophagus[8]: całożerca, wszystkożerca[9]、「丸呑みせし者」)という造語で呼んでいる[10]

原文によればホロファグスは、"岩のくねりまがり(校訂:洞窟)にひそむ、非道かつ最も巨怪な野獣(怪物)であった"[11][8][12][注 4]

この怪物は、毎週ごとに牛の生贄を欲しており、これを怠ると人間を食らった。怪物を倒そうとクラク王は[注 5]二人の王子に討伐を命ず[注 6]。しかし直接対決してもかなわないので画策し、牛皮硫黄を詰めたものを生贄牛の代わりに与えて怪物に食わせると、発火して怪物は死んだ[14]。しかし弟王子("小クラク"[注 7][17])、すなわち後のクラクII世英語版は、兄王子を殺し、その罪を怪物になすりつけた。しかしその犯罪は暴露され、町の人々によって都外追放となってしまった。その後、末娘のヴァンダが王座を継ぐ[5][18][19][2][15]

派生の年代記[編集]

『聖ヴィンツェンティの年代記』より派生したとみられる幾つかの年史のうち、『大ポーランド年代記』 (: 『Kronika wielkopolska』 は通称で、ラテン語無題作品、1296年以降)[注 8]はなぜかこの竜への言及が欠けており、『ジェジュヴァ年代記』ポーランド語版: 『Kronika Dzierzwy』, : 『Dzierzwa Chronicle』。あるいは『ミェジュヴァ年代記(Kronika Mierzwy)』とも呼ばれる。14世紀)は、聖ヴィンツェンティの『年代記』とほぼ一致する[20]。また、両年代記とも「小クラク」が弟王子としており、兄王子の名は知れずとなっている[14][15]

しかしヤン・ドゥウゴシュが15世紀に編んだ年代記では[21]、 兄王子の名が小クラクで、兄殺しの弟はレフ王子英語版だとしている[15][20]。また、竜(オロファグス)を謀殺する策略は父のクラク王が授けたものとされており、王は、都から大勢の逃亡者が出ることをおそれたのだと記されている[22][20]。そこで、王の命により、生贄用の動物の死骸("毎日3頭が必要だった"[注 9])に、硫黄、火口: próchno; : cauma[注 10])、ピッチタールを詰めて点火したものを与えた[1] 。竜は燃えた餌を食い、火を噴き放って死に絶えた。ドゥウゴシュはさらに、竜は住処がクラク王が城を立てたヴァヴェル山の洞窟だと書き加えている[22][20]。そしてやはり兄殺しの弟は追放され、ヴァンダ王女が登極する[15]

靴職人の策士版[編集]

「竜の洞窟(スモチャ・ヤマ ) Smocza Jama 」と呼ばれる洞穴内

また、竜退治を完遂したのがスクプという靴職人であるという異聞もある[24]

これは、近世になってポーランド語で書かれたマルチン・ビエルスキ英語版著『ポーランド年代記』(1597年)において[注 11]、竜の退治法を考案した手柄がスクプポーランド語版(またはスクバ[注 12])という靴職人にあてがわられている[25][26]。やはりクラクフを創立したとされる伝説王(ただしクロク王 Krok と表記される)の治世、竜は毎日3頭の仔牛(cielęta)または牡羊(barany)、とにかく何かを3つ取って食って食欲を満たすのだが、人間で間に合わせることもあった。スクプの助言でクロク王は仔牛の皮を硫黄で詰め、竜をおびきよせた。竜はその餌を飲み込むことはできず、水を飲み続けて死んでしまった。王はスクプに褒美をとらせたという[注 13]。ビエルスキはさらに、"今でもその城の下の洞窟をみることができる。「竜の洞窟(スモチャ・ヤマ ) 」とそれは呼ばれている"と書き加えている[27][28][29]

ドラテフカ[編集]

現代の児童文学や、おとぎ話の語りによっては靴職人の名前は「ドラテフカ」に置き換わることもあるとされる[30] 。竜退治にかかわる靴職人ドラテフカ("小さなひも"という意味の名)は[33]マリア・コブナッカ英語版の戯曲『恐ろしい竜、勇敢な靴屋、美しい姫とグヴズヂク王』[注 14](1935年)の登場人物である[34]。なお同名の靴屋を冠した作品に、ヤニーナ・ポラジンスカポーランド語版作のおとぎ話『くつやのドラテフカ』ポーランド語版がある。

起源論[編集]

類話

ヴァヴェルの竜には、旧約外典ダニエル書補遺』のベルと竜英語版の説話との共通点が見られると指摘されるが[35][36]、既に中世の『ジェジュヴァ年代記』(『ミェジュヴァ年代記』)にも、"クラク[ス]の息子たちが地元の竜を殺した、ダニエルがバビロンの竜を殺したように"と、同じような退治法がとられたことへの言及がされている[37][22][38]

アレクサンドロス大王も硫黄を用いて竜を殺したという伝説があるが、その事項は古代のものとはいえず、推定7世紀アレクサンドロス・ロマンスシリア語版が現存初見本である。だが聖書外典と比べてヴァヴェルの竜との類似性はより近いといえる[注 15][40][41][42]

悪玉

ヴァヴェルの竜を単なる悪の象徴とする見方もあるが[43]、さらには以下に説明するように、古代神話的における邪神的な解釈もあり、歴史上の殺戮者などの象徴に見立てる説も存在する。

古代神話

クラクフの伝説に、キリスト教化以前の原話を求める考えもある。インド=ヨーロッパ系の善悪闘争神話が、クラクフの竜の伝説の起源ではないかとも説がある[44]

あるいは、太古の人身御供の慣習に言及した何らかの神話が根源にあるのではと歴史学者マチェイ・ミェジアンポーランド語版は推論している[45]

歴史

史実の反映の可能性もある。たとえば、6世紀後半にアヴァール人がヴァヴェルの丘を占拠し、朝貢を要求したが、これを人民を食らう竜になぞらえたのが発端だと推察する歴史家もいる[46]

あるいはヴァヴェルの大聖堂ともゆかりあるクラクフ司教をみずからの手で殺したボレスワフ2世を、悪玉の竜に例えた伝説、という見解もある(歴史学者チェスワフ・デプトゥワポーランド語版説)[47][48]殉教したシュチェパヌフ英語版聖スタニスワフは、ポーランドの守護聖人である。

また複合的な見解として、雷神滅竜の神話の土台に、竜蛇崇拝英語版とシュチェパヌフの聖スタニスワフ崇拝の習合が加わった伝説と言う説明もされている[2]

再話 [編集]

Walery Eljasz Radzikowskiによって描かれたクラク(ス)王

広く知られた再話では、都市の伝説的な建設者であるクラクス王の統治の世に、クラクフで起こった出来事とされている。凶悪な竜が毎日のように田園地帯の全域を破壊し、踏み固めて回る。さらに、人々を殺害し、人々の家で略奪をし、人々の家畜を貪り食った。物語の多くの異本で、竜は特に若い女性を食べることに興じており、都市の人々が月に1度、竜の洞窟の前に少女を置き去ることでわずかの間竜を鎮めることができた。国王はもちろん竜を打ち倒したかったが、王の最も勇敢な騎士達も竜の燃えさかる息の前に倒れた。少女の犠牲を必要とする異本では、ついに、国王の娘ヴァンダ(8世紀の人物とされている)以外の、都市のあらゆる少女が犠牲になってしまった。自暴自棄となった王は、竜を倒せた者には誰でも王の美しい娘と結婚することを許すと約束した。近くからも遠くからも強力な戦士達が来て、褒美のために戦い、そして失敗した。ある日、スクプという名の貧しい靴職人見習い が挑戦に応じた(この伝承は、16世紀。ゆえに、国王の娘ヴァンダが登場できるはずがない)。彼は子硫黄を詰め込むと、竜の洞窟の上にそれを置いた。竜は子羊を食べ、間もなく途方もない喉の渇きに襲われた。竜は喉を潤そうとヴィスワ川に向きを変え、水を飲みに飲んだ。しかし竜の痛む胃は多量の水でも和らぐはずはなかった。ついにヴィスワ川の水の半分を飲み、膨れ上がった挙げ句、竜は破裂した。スクプは約束通り王の娘と結婚し、2人はその後ずっと幸せに暮らしたという[24][49]

詩人シェミェンスキ[編集]

ポーランドの詩人ルツィヤン・シェミェンスキポーランド語版(1809年 - 1877年)は、ポーランドや近隣国の伝説を収録した『ポーランド、ロシア、リトアニアの伝承と伝説 (: Podania i legendy polskie, ruskie i litewskie[50])』を出版しており[51]、この竜の話も「 (: Smok[52])」の題名で収められている。

シェミェンスキの記したところでは、かつて人々は、人間がこの竜に食べられないようにと竜に毎日のように家畜3頭を与えていた。あるとき、靴職人スクプからの助言を受けて、クラク(クラクス)は子牛の皮に硫黄を詰めさせると竜の住む洞窟の前に置かせた。目論見通りに、竜は硫黄ごと子牛を飲み込み、続いて水を多量に飲んで死んだ。クラクはスクプにたくさんの褒美を与えたという[53]

小説家ヘイドゥク[編集]

ポーランドの歴史小説家ブロニスワフ・ヘイドゥクポーランド語版(生没年不詳)[注 16]は、幼い頃の彼に祖母が物語を語り聞かせた口調を生かした『クラクフ神話伝説物語[注 17]』(日本語題)を著している。ヴァヴェルの竜の伝説も、「英雄クラクス伝説」(日本語題)として収録されている[54]

ヘイドゥクの記したところでは、クラクフの町を築いたクラクスI世の時代の後、クラクスIV世の治世には、大きな災害の後や戦争の前に、異教の神々にさまざまな生贄を捧げる慣習が続いていた。生きた動物ばかりか人間も捧げられていた。生贄となった人は、ヴァヴェルの丘の洞窟に繋がる深い穴の中に落とされ、洞窟に住む怪物スモークに食べられた。ある時、ヴィスワ川の洪水によって生贄になった人の死体が岸辺に打ち上げられ、神々が生贄を喜んでいないと判断された。その後、町は大火に見舞われ、春には雨が降らなくなって今年の飢饉が心配された。生贄を捧げても雨は降らず、ついにヴィスワ川の水が涸れた。すると今まで水面下にあった洞窟の入り口に入れるようになり、クラクスはスモークと戦ってこれを倒した。もはや生きた人間を生贄にする必要はなくなり、雨も間もなく降りだしたため、人々はクラクスに感謝し、クシェミョンカの丘に高塚を作った。そこには高城も建てられて、こんにちまで残っている[55][注 18]

史跡[編集]

竜の骨とされる物品。ヴァヴェル大聖堂の外につるされている。
ヴァヴェルの竜の像
ヴァヴェルの竜の像(火を噴いているとき)
ヴァヴェルの竜の像
(左)昼間.(右)夕方。火を噴いているとき.
ヴァヴェルの竜の像(火を噴いているとき)

クラクフのヴァヴェル城は、ヴァヴェルの丘の上に建っている。竜がいたとされる城下(城の麓)の「竜の洞窟スモチャ・ヤマ英語版」はヴィスワ川に接した場所に現存しており、現在でも見学が可能である[57][49][58]

この竜の洞窟の文献上の初見は1190年とされるが[59] これは最古史料であるヴィンツェンティの年代記の成立年であり、そこには上述したようにこの野獣が岩の奥底[8][11]、すなわち、某"洞窟"に居たとのみ記される[12]

洞窟の入り口を出たところに設置されたヴァヴェルの竜の像英語版は、火を噴く仕掛けで有名である[57][24]

ヴァヴェル大聖堂にはクラクス英語版による竜退治の記念銘板があり、竜の住み処の上に都市と彼の宮殿を建設したと刻まれている[要出典]。大聖堂の入り口には、複数の「竜の骨」なる物品が吊り下げられて飾られているが、これは氷河時代のマンモスや鯨などの大型の骨を「竜骨」と称して展示するヨーロッパ中世の慣習の一例とされている[60]

ギャラリー[編集]


注釈[編集]

  1. ^ 原語の smokは単なる「蛇」も意味するが、場合によっては「大蛇」・「竜」の意となる。
  2. ^ 細かい所では、疑似餌には動物の死骸に硫黄の他、幾つかほかの材料を詰めている。
  3. ^ 『聖ヴィンツェンティの年代記』年代記のポーランド語全訳では怪物ホロファグス「丸呑みせし者」(後述)を、"chciwie połykał smok"すなわち"貪欲に飲み込む竜(スモク)"と意訳している。
  4. ^ 『ポーランド=シレジア年代記』(1285年頃、en:Chronicon Polono-Silesiacum)では括弧で(spelunca 洞窟)と併記する。また、竜名をolofagusママ〕と綴る。Ćwikliński ed. (1878), p. 607.
  5. ^ 王が流に悩まされる市民をおもんばかって語る言葉に注視する論文があるが[13]、怪竜そのものの関連性が薄いので詳しくは置く。
  6. ^ 聖ヴィンツェンティは、兄弟のうち下の王子のみを"小クラク"(すなわち"クラクス Jr.")とその名で呼んでいる[14][15]
  7. ^ : iunior Graccus、異本:minor Graccus[16]ポーランド語: młodsy Grakus.
  8. ^ あるいはツァルンクフのヤンコポーランド語版(1320–1387年頃)の作とされる。
  9. ^ ドゥウゴシュのラテン語原文:tria singulis diebus belluae iactantur[20]
  10. ^ 稀なラテン語のようだが、16世紀の写本の欄外古註英語版(スコリウム)に、"cauma"を "fomes", "zagyew"(żagiew)と語釈している[23]
  11. ^ 没後に刊行されており、竜に関する当該部分は息子のヨアヒム・ビエルスキポーランド語版 に帰するとされている[25]
  12. ^ 原文に拠る正しい名前は Skub(属格 Skuba)であるはずが、後にSkuba(属格 Skuby)の表記が使われてしまっている[25]
  13. ^ ポーランド語: "Kazał tedy Krok nadziać skorę cielecą, siarką a przeciw iamie położyć rano: co uczynił za radą Skuba Szewca nieiakiego, ktorego potym dobrze udárowal y opatrzył""(王が策を決行し、靴職人スクプは褒美を得た)。
  14. ^ 仮訳題名。原題『O straszliwym smoku i dzielnym szewczyku, prześlicznej królewnie i królu Gwoździku』。英文では題名は"The terrible Dragon, the brave Shoemaker, the beautiful Princess and King Gwoździk" と訳されていた。
  15. ^ このほかカズウィーニーによるアラビア語の著述にも、アレクサンドロスが同様の方法で竜を倒し、有角の兎のようなアル=ミラージという生物を礼として得たと書かれている[39]。ハズラックの論文ではさらにペルシア文学の『シャー・ナーメイスファンディヤール英語版篇の竜退治譚と類似があるとしているが、硫黄でなく短刀を用いるので"いささか似たような戦略"というにとどまっている[35]
  16. ^ ポーランド語版記事「Bronisław Heyduk」では1909年生、1984年没。
  17. ^ ポーランド語版記事「Bronisław Heyduk」での原題は『Legendy i opowieści o Krakowie』。
  18. ^ ヘイドゥクによるこの物語には、クラクスの娘ヴァンダは登場しない。なおヘイドゥクは、同じ著書に収めた「ヴァンダ伝説」において、後のクラクスVIII世の妻となったヴァンダの物語を語っている[56]

出典[編集]

脚注
  1. ^ a b Sikorski, Czesław (1997), “Wood Pitch as Combat Chemical in the Light of the Jan Długosz's Annals and Some of the Old Polish Military Treatises”, Proceedings of the First International Symposium on Wood Tar and Pitch: 235, ISBN 9788390058634, https://books.google.com/books?id=MpcSAQAAIAAJ&q=tinder 
  2. ^ a b c Siama, Monika (2008). “Le palimpseste hagiographique de la Pologne du haut Moyen Âge : l'espace et le temps du culte de saint Stanislas de Szczepanowo”. Revue des études slaves 79 (1/2): 35–52. doi:10.3406/slave.2008.7124. JSTOR 43271841. https://www.persee.fr/doc/slave_0080-2557_2008_num_79_1_7124. 
  3. ^ Kalik, Judith; Uchitel, Alexander (2018), Slavic Gods and Heroes, Routledge, ISBN 9781351028684, https://books.google.com/books?id=F9h4AAAAMAAJ&q=%22Wawel%22 
  4. ^ Nungovitch (2018), p. 281.
  5. ^ a b c 荒木 (1987), p. 861.
  6. ^ ラテン語: Grakchus. Plezia (1972), pp. 21–22[2]Gracchus[3][4]Graccus グラックス[5])。
  7. ^ 荒木 (1987), p. 861: "グラックスの建てた都市は彼の名をとってブラコヴィアGracovia(やがてクラコヴィア Krakcovia 〔Kraków〕となる。
  8. ^ a b c Kadłubek (1872), p. 256: Erat enim in cuisdam scopuli (岩) anfractibus monstrum atrocitatis immanissimae quod quidam holophagum dici putant".
  9. ^ Bielski, August 編 Kadłubek (1872)、索引(注)p. 451
  10. ^ Kalik & Uchitel (2018), p. "a Greek word that Kadłubek invented (カドウベクが創作したギリシア語)"。
  11. ^ a b Nungovitch (2018), p. 283: "terrible and cruel beast" dwelling "in the depths of a certain rock"
  12. ^ a b Węclewski ed. (1878) Chronica principum Poloniae, p. 430, 注5 では"W. Chr. Pol.: Erat enim in cuiusdam spelunce(洞窟).."と校訂文が示される。
  13. ^ 荒木 (1988), pp. 815–816.
  14. ^ a b c Wincenty Kadłubek (1992) Kronika polska, Kürbis, Brygida (tr.), Wrocław, (ポーランド語) 版の原文より、Kalik & Uchitel (2018)が英訳(抜粋)。
  15. ^ a b c d e Schlauch (1969), p. 262.
  16. ^ Kadłubek (1872), p. 256。異本は脚注。
  17. ^ Kadłubek (1862), p. 43.
  18. ^ Kadłubek (1862), pp. 42–43, Józefczyk tr., pp. 42–43 (ポーランド語)
  19. ^ Nungovitch (2018), p. 283.
  20. ^ a b c d e Rajman (2007), p. 39.
  21. ^ Długosz, Jan (1873). “Graccus arcem et civitatem Cracoviensem aedificat, et draco ingens latitans sub arce, incolis onerosus, occiditur”. Joannis Długossii seu longini canonici Cracoviensis Historiae Polonicae libri XII. 1. ex typographia Kirchmayeriana. p. 66–67. https://books.google.com/books?id=wtxbAAAAcAAJ&pg=PA66 
  22. ^ a b c Schlauch (1969), p. 261.
  23. ^ Długosz, Jan (1964). “Graccus arcem et civitatem Cracoviensem aedificat, et draco ingens latitans sub arce, incolis onerosus, occiditur”. In Dąbrowski, Jan. Ioannis Dlugossii Annales: seu, Cronicae incliti Regni Poloniae. 1. Państwowe Wydawn. Naukowe. p. 126 note. https://books.google.com/books?id=JdR4Wp8O-3kC&q=cauma 
  24. ^ a b c 田村和子「訳者あとがき」『竜の年』pp. 136-137.
  25. ^ a b c Plezia (1972), p. 24.
  26. ^ Kitowska-Łysiak, Małgorzata; Wolicka, Elżbieta (1999), Miejsce rzeczywiste, miejsce wyobrażone: studia nad kategorią miejsca w przestrzeni kultury, Towarzystwo Naukowe Katolickiego Uniwersytetu Lubelskiego [Scientific Society of the Catholic University of Lublin], p. 231, ISBN 9788387703745, https://books.google.com/books?id=F9h4AAAAMAAJ&q=%22Wawel%22, "Gdy w w. XVI projektodawcą sposobu uśmiercenia potwora kreowano krakowskiego szewca Skubę (Bielski) [16世紀に怪物を倒す策士が(ビエルスキに拠って)クラクフの靴職人スクプとされたとき、途方もないような話が、現実味を帯びてきた。]" 
  27. ^ Plezia (1972), p. 24: ポーランド語: "Jest ieszcze jego iama pod zamkiem, zowią Smoczą iamą". 洞窟の写真が図6に掲載される。
  28. ^ Bielski, Marcin (1597). “księgi pierwsze: Crakus ábo Krok, Monárchá Polski”. Kronika Polska M. Bielskiego. Nowo przez I. Bielskiego syná iego wydána [and continued 1576-86]. Kraków: w Drukární J. Sibeneychera. pp. 29–31. https://books.google.com/books?id=RwhlAAAAcAAJ&pg=PA29 
  29. ^ Rożek, Michał (1988). Cracow: A Treasury of Polish Culture and Art. Interpress Publ.. p. 27. ISBN 9788322322451. https://books.google.com/books?id=7LlFAAAAIAAJ&q=%22wawel%22 (ビエルスキより当該文節を英訳)
  30. ^ Michajłów, Adam; Pacławski, Waldemar (1999), Literary Galicia: From Post-war to Post-modern : a Local Guide to the Global Imagination, Oficyna Literacka, p. 79, ISBN 9788385158325, https://books.google.com/books?id=HZ5hAAAAMAAJ&q=%22Dratewka%22 
  31. ^ Pleśniarowicz, Krzysztof (2004). The Dead Memory Machine: Tadeusz Kantor's Theatre of Death. Brand, William R. tr.. Black Mountain Press. p. 59. ISBN 9781902867052. https://books.google.com/books?id=zIiRAAAAIAAJ&q=%22Kownacka%22 
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  33. ^ 英訳で"Twine Shoemaker(靴屋「さん」)"とあり[31]、波独辞書でもdratwa"紐"の指小辞であり、"小さく薄い靴ひも英語版ドイツ語: ein kleiner, dünner Schuh-Drath/'Schuhdrat)"と定義されている[32]
  34. ^ Jurkowski, Henryk; Francis, Penny (1996), A History of European Puppetry: The twentieth century, Lewiston, NY: Edwin Mellen Press, p. 276, ISBN 9780773483224, https://books.google.com/books?id=TFuFAAAAIAAJ&q=Kownacka 
  35. ^ a b Hasluck, Frederick William (1929). Christianity and Islam Under the Sultan. 2. Clarendon Press. p. 655. https://books.google.com/books?id=s0UKAQAAMAAJ&q=Cracow+Bel 
  36. ^ Strzelczyk, Jerzy (2007). Mity, podania i wierzenia dawnych Słowian. Poznań: Rebis. pp. 190–191. ISBN 978-83-7301-973-7  (ポーランド語), cited by Wiącek (2011), p. 121
  37. ^ Nungovitch (2018), p. 183 apud Piotr Makuch (2008)
  38. ^ Plezia (1972), p. 23.
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  43. ^ Wiącek (2011), p. 121 apud Strzelczyk (2007)
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  45. ^ Miezian, Maciej (November 2014). “Smok wawelski. Historia prawdziwa i wbrew pozorom całkiem poważna”. Nasza Historia Dziennik Polski 12: 1–13. https://www.prasa24.pl/gazeta/nasza-historia-dziennik-polski/2014-10-30,dw.html.  ISSN 2391-5633
  46. ^ Strzelczyk, Jerzy (1987). Od Prasłowian do Polaków. Kraków: Krajowa Agencja Wydawnicza. pp. 75–76. ISBN 83-03-02015-3. https://books.google.com/books?id=zAxKAAAAIAAJ&q=Awarów+smok  (ポーランド語); Wiącek (2011), p. 121 でも引用。
  47. ^ Derwich, Marek, ed (2005). “(Recension) Archanioł i smok. Z zagadnień legendy miejsca i mitu początku w Polsce średniowiecznej, Czesław Deptuła, Lublin 2003”. Quaestiones Medii Aevi Novae 710: 386. https://books.google.com/books?id=spfxAAAAMAAJ&q=wawel+smok+%22St.+Stanis%C5%82aw%22+. 
  48. ^ Bielski, Marcin (2003). “księgi pierwsze: Crakus ábo Krok, Monárchá Polski”. Archanioł i smok: z zagadnień legendy miejsca i mitu początku w Polsce średniowiecznej. Lublin: Werset. pp. 79–86. ISBN 9788391785638. https://books.google.com/books?id=G9USAQAAIAAJ&q=Wawel+Stanis%C5%82au 
  49. ^ a b 地球の歩き方 中欧』p. 215.
  50. ^ 「出典」『ポーランドの民話』p. 352.
  51. ^ 解説」『ポーランドの民話』p. 345.
  52. ^ 「各話原題」『ポーランドの民話』p. 353.
  53. ^ 」『ポーランドの民話』p. 290.
  54. ^ 英雄クラクス伝説」『文学の贈物』p. 46.(訳者による序)
  55. ^ 英雄クラクス伝説」『文学の贈物』pp. 46-49.(英雄クラクス伝説)
  56. ^ 英雄クラクス伝説」『文学の贈物』pp. 50-54.(ヴァンダ伝説)
  57. ^ a b EliilE  (2018年5月). “ポーランドの古都クラクフに伝わるドラゴン伝説”. トラベル&ライフ・ウェブマガジン. JTB. 2022年3月29日閲覧。
  58. ^ Rożek, Michał (1996). Cracow: city of Kings. Birgit Helen Beile (tr.); Janusz Podlecki (photog.). Prisma Verlag GmbH. p. 73. ISBN 9788386146710. https://books.google.com/books?id=yWeOfVzBZH4C&q=dragon 
  59. ^ Gunn, John (2004). Encyclopedia of Caves and Karst Science. Taylor & Francis. p. 693. ISBN 9781579583996. https://books.google.com/books?id=bhiJ10Xx9VwC&pg=PA693 
  60. ^ Wood, Christopher S. (2008). Forgery, Replica, Fiction: Temporalities of German Renaissance Art. University of Chicago Press. p. 183. ISBN 9780226905976. https://books.google.com/books?id=Gj4zOnmkbuEC&pg=PA183 
参考文献
  • 吉上昭三他共訳編『ポーランドの民話』恒文社〈東ヨーロッパの民話〉、1980年7月。ISBN 978-4-7704-0350-6 
    • シェミェンスキ, L. 著、小原雅俊訳「竜」、290頁.
    • 吉上昭三「解説」、344-351頁.
  • Firlet, Elżbieta Maria (1996). Smocza Jama na Wawelu: historia, legenda, smoki. Universitas. ISBN 9788370522926 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]