レゾリューション (帆船)

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レゾリューション号HMS Resolution)は、18世紀イギリスの小型帆船で正式名称は国王陛下のスループ船レゾリューション号ジェームズ・クック(第二回航海では海尉艦長英語版、第三回航海では勅任艦長英語版)の第二回と第三回航海の船。史上初めて南極圏への突入を果たした帆船である。

「マハタヴィ湾にうかぶ漁船と、レゾリューション号とアドヴェンチャー号」ウィリアム・ホッジズ。1773年8月タヒチに停泊する両船を描いている。

建造から第二回航海まで[編集]

クックの第一回航海でエンデバー号グレートバリアリーフで座礁し危うく沈没しかけた教訓の下に、イギリス海軍省は次回の探検航海では2隻の船を用意することを決定した。

レゾリューション号は、もとは三檣帆船の石炭運搬船グランビー公爵号として、ノースヨークシャー州ウィトビー1770年に建造された。1771年海軍省は僚船とともに同船を購入し、スループ船ドレイク号として登録した。しかし、ドレイクという名がスペインを刺激することが危惧され、同船は1771年12月25日レゾリューション号と改名された。レゾリューション号は全長33.7m、全幅11m、重量462トン、喫水13フィート(4m)、定員112名、僚船アドヴェンチャー号は一回り小さく重量298トン、定員81名。

レゾリューション号はテムズ川河畔のデットフォード艤装を施され、当時最新鋭のコンパス、氷錨、浄水装置、海水淡水化装置、水の脱臭装置、そして12門の砲などを装備した。費用は4,151ポンドに上った。第二回航海には博物学者ジョゼフ・バンクスも同乗する予定であった。航海の重要な財政的パトロンでもあったバンクスは、召使い6人とホルン奏者2人を含む17人の自らの随行員を収容するためにレゾリューション号の改築を申請した。船はいったん希望通りに改築されたが、増築された上部甲板のために安定を失い、海軍監査局は安全な航行が不可能と判断した。結局、レゾリューション号は元の姿に改築し直されることになった。これに更に6,565ポンドが費やされた。バンクスは憤慨して航海から降りてしまった。バンクスの代わりに博物学者としてプロイセンジョン・ラインホルド・フォスターが加わった。アドヴェンチャー号の指揮官にはトバイアス・ファーノーが任命された。

海軍省がもっとも力を入れた装備品は、クロノメーターであった。クックは第一回航海では、太陰表を用いて複雑で手間のかかる計算で経度を決定したが、精密時計によって正確なグリニッジ標準時が分かれば、時差から経度は簡単に決定できる。海軍は精密時計のコンテストを開催してジョン・ハリソンが発明したクロノメーターを選び、天体観測のために天文学者ウィリアム・ウェルズを同乗させるとともに、ラーカム・ケンドールとジョン・アーノルドが作成した4台の複製品を積み込んだ。ラーカム・ケンドールのクロノメーターK1は、第二回航海できわめて正確に作動し、クロノメーターはイギリス海軍に正式に採用されるようになった。

改築をめぐる一連の騒動のせいで船の出来を心配する国王ジョージ3世に「ひとつの欠点も目につかぬほど立派な船だと申し上げた」とクックは、自筆原稿による航海日誌に記している。

1772年7月13日、レゾリューション号はアドヴェンチャー号を連れてプリマス港から出帆した。1773年1月17日、レゾリューション号は南極圏に初めて突入し、その後もさらに二度の突入を果たした。1773年2月3日の3度目の突入が最南で、南緯71度10分、西経106度54分に到達した。つまり、クックはもう少しで南極大陸に遭遇できるところであった。ここに至って、クックは王立協会アレキサンダー・ダルリンプルが主唱した南方大陸が存在しないことを確認し、第二回航海の目的は達成された。1773年7月30日レゾリューション号はイギリスに帰還した。第二回航海におけるレゾリューション号乗員の病死者はわずか1名だった。

第三回航海とその後[編集]

クックの第三回航海の目的は、北極海を抜けて太平洋大西洋をつなぐ航路(北西航路)を探索することであった。クックは第二回航海から帰還後、名誉職であるグリニッジの海軍病院の院長に任命され、なかば引退状態にあったが、海軍大臣サンドウィッチ伯に自らを第三回航海の指揮官として推薦し認められた。しかし準備期間は短く、レゾリューション号は前回の帰港後に、じゅうぶんな修理を受けなかったため、クックは出帆直後から雨漏りや浸水などの不調に悩まされ続けた。前回の僚船アドヴェンチャー号は廃船になり、新たに、1776年1月5日にディスカバリー号が海軍省によって購入された。ディスカバリー号は重量298トン、定員70名であった。1776年7月12日、レゾリューション号はプリマス港から出帆した。しかし、チャールズ・クラークが指揮を執ったアドヴェンチャー号は、兄の借金問題に巻き込まれたクラークが出帆直前に逮捕投獄される騒ぎのために、彼の出獄を待って約3週間遅れて出帆した。

クックらは北米太平洋側を北上し、アラスカ沿岸の測量を行いながらベーリング海峡に入ったものの氷に阻まれ北極海に入ることはできず、目的の航路を発見することはできなかった。しかし北洋への航海の途中にハワイ諸島を発見し、サンドウィッチ伯にちなんでサンドウィッチ諸島と命名している。

1779年2月14日ハワイにおけるクックの死後、レゾリューション号の指揮はクラークが引き継いだが、同年8月に彼が結核で死亡したため、さらにジョン・ゴアに引き継がれた。帰路、レゾリューションは日本列島沿いに南下し、1779年11月1日富士山を目視している。1780年8月、レゾリューション号はイギリスに帰還したが、風に入港を阻まれ、いったん北上してオークニー諸島の港に入港した後、1780年9月30日ヤーマース港に投錨し航海を終えた。

1780年レゾリューション号は武装輸送艦に改装され、1781年3月にインドに出帆した。しかし、1782年6月9日フランスサフレン提督率いる艦隊のスフィンクス号に拿捕された。ネガパタンの海戦に参加した後、木材、ビスケット、索具の積み込みと船員の捜索ためマニラに派遣された。レゾリューション号は1782年7月22日に出帆したが、その後の行方は杳として知れない。

1783年6月5日の記録に、サフレン提督は、レゾリューション号がスンダ海峡で最後に目撃されており、その後、浸水して沈没したかイギリスに拿捕されたのではないか、と記している。メルボルンアーガス紙の1879年2月25日の記事に、レゾリューション号はリオデジャネイロポルトガル籍の石炭倉庫船として最後の日々を過ごした、とあるが記事の真偽は確認されていない。ニュージーランド総督のゴールウェイ子爵は、レゾリューション号の船首像と称するものを所蔵していたが、写真で確認すると、それはレゾリューション号を描いた水彩画に見られるものとは一致していない。

参考文献[編集]

その他参考資料[編集]

  • ジェイムズ・クック 『クック 太平洋探検 (1) - (6) 』 増田義郎訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2005年。