マニラ (競走馬)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マニラ
欧字表記 Manila
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1983年
死没 2009年2月28日(26歳没)
Lyphard
Dona Ysidra
母の父 Le Fabuleux
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生産者 Eduardo Cojuangco, Jr.
馬主 Bradley M. Shannon
調教師 LeRoy Jolley(アメリカ)
競走成績
生涯成績 18戦12勝
獲得賞金 2,692,799ドル
テンプレートを表示

マニラ (Manila) はアメリカ合衆国サラブレッド競走馬、および種牡馬1980年代アメリカ競馬路線で活躍し、ブリーダーズカップ・ターフでヨーロッパ王者ダンシングブレーヴを破った。2008年アメリカ競馬殿堂入りした。

経歴[編集]

フィリピンの大手食料品販売店の会長であったエドゥアルド・コファンコ Jr.の生産馬で、生産者が所有していた母ドナイシドラは同馬のほかにも1984年にステートリードンセクレタリアトステークスなど)を生んでいる。父のリファールはすでに実績のある種牡馬で、この年はマニラの他にも、後に対決するダンシングブレーヴ凱旋門賞など)も出る当たり年であった。

後にターフ巧者として名を馳せるマニラであるが、1985年8月3日に迎えたデビュー戦はダートの6ハロンで、ここは7着に敗れている。年内はほかに2戦しているが、どちらも2着でその年を終えた。3歳になった翌年の初戦で、後続に8馬身差をつける圧勝で初勝利を挙げたが、以降はダートに見切りをつけて芝路線へと転向した。

芝路線へ転向した途端、マニラの快進撃が始まることになる。芝初戦の一般戦では7馬身半差の圧勝、続くフォアランナーステークスとサラナクステークス (G2) でともに2着、6月7日のシネマハンデキャップで重賞初勝利を挙げた。その勢いはなおも止まらず、8月にはG1ユナイティッドネイションズハンデキャップをレコードタイムで制覇、9月にはターフクラシックを勝って、その年最後の目標に狙いをつけた。

1986年の第3回ブリーダーズカップサンタアニタパーク競馬場で開催された。ブリーダーズカップ・ターフの9頭の出走馬のなか、1番人気はヨーロッパの至宝・ダンシングブレーヴ、アイルランドから移籍してきたシアトリカルと、芝長距離路線の古豪牝馬エストラペイドがカップリングで2番人気、4番人気にこちらも芝長距離の強豪ダハールが支持されていた。マニラはそれらに混じって3番人気に支持された。錚々たるメンバーの中、マニラはシアトリカルをクビ差抑えて優勝した。この年、マニラはエクリプス賞の芝牡馬部門を受賞した。

翌年も現役を続け、年明けには、創設されたばかりのエルクホーンステークス(Elkhorn Stakes)[1]アーリータイムズ・ターフクラシック[2]を2連続のレコードタイム勝ち、続くユナイティッドネイションズハンデキャップを連覇した。その次のバーナードバルークハンデキャップで2着に敗れて連勝が途切れるが、9月にはアーリントンミリオンを制して健在振りを見せ付けた。

しかし、アーリントンミリオンの後に故障が発生し、ブリーダーズカップを目前に引退することになった。通算成績は18戦12勝2着5回、デビュー戦以外は連対を外すことはなかった。

引退後[編集]

2000万ドルという巨額シンジケートを組まれていたマニラであったが、種牡馬としての成績は期待には程遠いものがあった。このためシンジケートは解散、マニラはその後トルコへ輸出された。

数少ない成功馬に、1989年生まれのBien Bien(ビエンビエン・ハリウッドターフカップハンデキャップ連覇など)がおり、後継の種牡馬としてG1馬Bienamadoを輩出、同馬も種牡馬となることができ、その血統を後世に残すことに成功した。しかしその後、ビエンビエンは心不全によりマニラよりも先に亡くなっている。

このほかの産駒に、デルビーイタリアーノ勝ち馬のTime Star(タイムスター)、イタリア共和国大統領賞勝ちのGreat Palm(グレートパルム)、トルコG1のファーティフ・スルタン・メフメット賞優勝馬Altın Bike(アルトゥンビケ)などがいる。日本ではクリスタルカップ勝ちのキングオブケンがいる程度である。輸出先のトルコでも重賞勝ち馬を出しているが、まだG1に勝つ馬は出ていない(アルトゥンビケはアメリカ産)。

ちなみに、前述した半弟ステートリードンも種牡馬として期待されて日本に輸入されているが、こちらも芳しい成績を残せなかった。

2008年、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はその競走成績を評価して、マニラを殿堂馬の一頭として加えることを発表した。

2009年2月28日、大動脈破裂の為に死亡した[3]

評価[編集]

主な勝鞍[編集]

1985年(2歳) 3戦0勝
1986年(3歳) 10戦8勝
ブリーダーズカップ・ターフ (G1) 、ユナイティッドネイションズネイションズハンデキャップ (G1) 、ターフクラシック (G1) 、シネマハンデキャップ (G2) 、レキシントンステークス (G2) 、スコッチクラシックステークス (G3)
1987年(4歳) 5戦4勝
ユナイティッドネイションズハンデキャップ(G1・連覇)、アーリントンミリオン (G1)、アーリータイムズ・ターフクラシック

年度代表馬[編集]

表彰[編集]

血統表[編集]

マニラ血統リファール系 / Nearco 4x5=9.38%、Pharos-Fairway 5x5=6.25%) (血統表の出典)

Lyphard
1969 鹿毛 アメリカ
父の父
Northern Dancer
1961 鹿毛 カナダ
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
父の母
Goofed
1960 栗毛 アメリカ
Court Martial Fair Trial
Instantaneous
Barra Formor
La Favorite

Dona Ysidra
1975 鹿毛 アメリカ
Le Fabuleux
1961 栗毛 フランス
Wild Risk Rialto
Wild Violet
Anguar Verso
La Rochelle
母の母
Matriarch
1964 青毛 アメリカ
Bold Ruler Nasrullah
Miss Disco
Lyceum Bull Lea
Colosseum F-No.16-g


脚注[編集]

  1. ^ 2013年現在はG2。Equibase Elkhorn Stakes
  2. ^ 2013年現在はG1。Equibase ETターフクラシック
  3. ^ Hall of Famer Manila Dead”. BloodHorse.com. 2009年3月3日閲覧。

外部リンク[編集]