フィリップ・フォン・ヘッセン

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フィリップ・フォン・ヘッセン

フィリップ・フォン・ヘッセン(Philipp von Hessen、1896年11月6日1980年10月25日)は、1940年から1980年にかけてヘッセン=カッセル方伯家の当主であった人物。ナチス党員であり、ナチスの政権掌握後にヘッセン=ナッサウ州Hesse-Nassau)の知事を務めた。

略歴[編集]

オッフェンバッハ近くのルムペンハイム城(Schloss Rumpenheim)にヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセンとその妃マルガレーテ・フォン・プロイセン(ドイツ皇帝フリードリヒ3世の皇女)の三男として生まれる。すぐ下の弟ヴォルフガングとは双子である。兄二人はともに第一次世界大戦で戦死したため、後継ぎとなった。父は1918年にフインランド王になったが、同年のドイツ帝国の敗戦ですぐに退位した。

戦後、フィリップは敗戦の混乱で台頭してきた共産主義者や社会主義者と戦うために「過渡期陸軍」(Übergangsheer)に入隊。1920年から1922年にかけてはダルムシュタットの専門大学へ入学し、歴史と建築を勉強した。彼は何度かギリシャ国王コンスタンティノスの妃ソフィア(フィリップの伯母にあたる)のところへ赴いている。1922年に学位を得ることなく大学での勉強を止め、ベルリンの「皇帝フリードリヒ博物館」(Kaiser-Friedrich-Museum)に勤務するようになった。その後、ローマへ移住し、インテリア・デザイナーとして名を上げた。1925年9月にはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の王女マファルダ・ディ・サヴォイアと結婚した。主にイタリア首都ローマ郊外の王の地所で暮らしていたが、しばしばドイツにも旅行している。イタリア在留中にファシズム運動に強い感銘を覚えた。

1930年10月にドイツへ帰国すると同時に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党した。1932年に突撃隊(SA)の隊員となる。なお彼の弟3人もみなナチスに入党し、弟の1人クリストフ親衛隊(SS)に入隊している。アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命された1933年1月30日、フリップはヒトラーからヘッセン=ナッサウ州Hesse-Nassau)の知事(Oberpräsident)に任命された。さらにナチ党の国会議員ともなる。フィリップは、ヘッセン=ナッサウ州知事として障害者を安楽死させる計画T4作戦に関与した。1941年にはハダマール(en:Hadamar)にサナトリウムを建設させたが、ここでは10,000人の障害者が殺害された。

1943年にイタリア王国の独断での降伏によりフィリップと妻マファルダは逮捕された。フロッセンビュルク強制収容所へ移送された。妻はダッハウ強制収容所へ移送され、そこで連合軍の空爆を受けて負傷し、それがもとで死亡している。フィリップは1945年4月にダッハウ強制収容所へ移されたが、まもなくアメリカ軍により解放された。

しかし1946年にはT4作戦に関与したことで裁判にかけられた。1980年にイタリア・ローマで死去。

子女[編集]

備考[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Hoelterhoff, Manuela (2007年1月8日). “'Royals and the Reich' Reveals Fateful History of Nazi Princes”. Bloomberg.com. 2007年8月12日閲覧。


先代:
フリードリヒ・カール
ヘッセン=カッセル方伯家家長
1940年 - 1980年
次代:
モーリッツ