ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ

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ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ(Fabian von Schlabrendorff, 1907年7月1日 - 1980年9月3日)は、ドイツの法律家、ドイツ国防軍中尉、反ナチ運動家。ヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将の副官だった。ヒトラー暗殺計画のメンバーで戦後まで生き延びた数少ない人々のうちの一人。

略歴[編集]

ハレ・アン・デア・ザーレに生まれる。大学で法学博士号を取得後、プロイセン州内務次官ヘルベルト・フォン・ビスマルクde:Herbert von Bismarck (1884–1955))の助手として働いた。ビスマルクもシュラーブレンドルフも共に、早くからナチスに対する反感を持っていた。シュラーブレンドルフは弁護士資格を持ち、陸軍予備役中尉だった。

第二次世界大戦中の1942年以降、東部戦線でトレスコウ少将の副官として、反ヒトラー派のルートヴィヒ・ベックカール・ゲルデラーハンス・オスターフリードリヒ・オルブリヒトの間の連絡役を務めた。

1943年3月13日ヒトラースモレンスク前線視察を行った際、トレスコウはヒトラーの搭乗機に爆弾を仕掛ける計画を行った。実行役がシュラーブレンドルフで、トレスコウから預かった爆弾の仕掛けられたリキュール瓶を搭乗機に持ち込んだ。しかしながらロシアの寒気と雷管に欠陥があったため爆弾は動作せず、計画は失敗に終わった。爆弾は翌日彼によって密かに回収され計画が明るみに出ることはなかった。

1944年7月20日クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が実行犯となったヒトラー暗殺計画が失敗に終わり、軍や政府内の反ヒトラー派の検挙が始まった。シュラーブレンドルフも同年8月17日に逮捕されて、ベルリンゲシュタポの監獄に拘束され、訊問と拷問を受けたが、決して口を割らなかった。

シュラーブレンドルフは、1945年2月に人民法廷で裁判を受けることとなっていた。しかし、1945年2月3日に法廷はアメリカ軍機の爆弾の直撃を受け、裁判官ローラント・フライスラーが死亡。フライスラーはシュラーブレンドルフのファイルを抱えたままの姿で発見された。シュラーブレンドルフの裁判は、1945年3月にフライスラーの後任ヴィルヘルム・クローネ (de:Wilhelm Crohne) によって行われ、シュラーブレンドルフは放免された。「死の裁判官」フライスラーの急死の結果、シュラーブレンドルフは死刑を免れたわけである。なお、ヴィルヘルム・クローネは、1945年4月26日に自ら命を絶っている。

1945年の3月から5月まで、シュラーブレンドルフはザクセンハウゼンフロッセンビュルクダッハウ、といった強制収容所に収容された後、連合軍の手に渡らないようにチロルへ移送されたが、ドイツが降伏した後の5月になり、アメリカ軍によって解放された。

1946年、軍部内の反ヒトラー抵抗運動に関する最初の書物となる手記を刊行。1967年から1975年までドイツ連邦共和国連邦憲法裁判所の裁判官を務める。1980年、ヴィースバーデンで死去。

関連項目[編集]