ノート:集団主義

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記述がかなりエッセイ的[編集]

記述がかなりエッセイ的なので、もう少し具体的な政治学、哲学、社会学なりの理論に言及しつつ学術的な解説を記すほうが良いのでは。まぁ英語版もイマイチな感じですが。Hermeneus (talk) 2005年10月26日 (水) 20:52 (UTC)[返信]

イデオロギー[編集]

Uryahさま:▼コメントアウト部で解説いただき(えっ、そうなの!?という感じではありますが)疑義をさしはさむ余地がないので、元に戻しました。単に山岸俊男氏の著作も知らなかったので判断しかねることでもあります。ただ、ご説明のとおりだとすると、あくまで「西欧的集団主義」と把握されたものがイデオロギーと呼び得るということか?とよくわからなくなっております。本文で(いずれ)少しだけ詳しくしていただけると助かります。▼ノート:イデオロギーを拝見するとUryahさんのほうがお詳しいと思うのですが、「イデオロギー」の用法について勿論無数の立場も理論もあるなかで、私が親しんできた用法では「集団主義」の語はまだ「イデオロギー“未満”」なイメージがあって、手を出した次第です。ああ、こっちは余談だったかも。Iosif 2006年2月26日 (日) 17:21 (UTC)[返信]

イデオロギーという言葉を、たんに観念という意味で使いました。書籍では、たとえば、グレゴリー・クラークの『ユニークな日本人』で、思考回路(?)・感覚として、人や社会が観念的に(観念に基づいて)動くかそうでないか、という意味で、イデオロギー的かそうでないか、という記述・文言が使ってあります。語法そのものについては、記事「イデオロギー」に待ちましょう。
グレゴリー・クラークの『ユニークな日本人』を読み、山岸俊男の『心でっかちな日本人』は人が評した評を読みました。それによれば、西欧の集団主義は観念的なもので、日本の集団主義は本能的なもの、という把握をしています。『ユニークな日本人』ではイデオロギー的である・イデオロギー的でない、『心でっかちな日本人』では西欧的集団主義・日本的集団主義という言葉で表現しています。私個人は(も)、とても頷ける把握の仕方です。Uryah 2006年2月27日 (月) 15:48 (UTC)[返信]

テッド・スタンガーによるフランス人について[編集]

『なんだこりゃ! フランス人』『なんだこりゃ! アメリカ人』を読みました。この編集 2007年8月1日 (水) 09:47の版この編集 2007年8月1日 (水) 09:51についてですが、「フランス人が病的・異常なほどの集団主義的体質であるとテッド・スタンガーが言っている」と読めませんでした。読めると思われる方がいらっしゃいましたら、ここにお声をください。Uryah 2008年12月6日 (土) 07:42 (UTC)[返信]

この編集 2009年2月10日 (火) 20:47についてですが、テッド・スタンガーのその本は、冷静に分析的に フランス人は病的であるほど異常なほどの集団主義的体質である 旨述べているのではなく、西暦2000年代の最初の10年時代に、アメリカ人フランスに対して持つ葛藤を述べたものだ、と読めるのですが、どんなもんでしょう?Uryah 2009年2月13日 (金) 21:32 (UTC)[返信]
『なんだこりゃ! フランス人』『のP237の記述「フランス人の遺伝子の中には、皆が同じ時間にいっしょにやらなければという強い願望がある。フランス人は皆、十三時に昼食を、二〇時に夕食をとる。皆が七~八月にヴァカンスをとり、道路の混雑状況を知らせる交通情報があるにもかかわらず、同じ日に行って、帰ってくる。これはもう、フランスという国のアイデンティティであり、特徴であり、本能のようなものなのだ。」、P135の記述「これほどの従順さを示すだなんて、国家崇拝もいいところだ。普段はバラバラなフランス人が珍しく同じ意見にまとまるのが、ほかならぬ国家についてである。フランス人は、中央集権化された、力強い、積極的に干渉する国家を求めている。まるで警察官のような、親のような、保険会社のような、雇い主のような、審判のような…。」、ほかP23の記述、P132の記述 は、フランス人の「中央集権」志向について書いてあるのだと思うのですが、どうでしょう?
自分が読みそびれている可能性があるので、「集団主義」と書いてある頁を教えていただけますか?Uryah 2009年3月1日 (日) 12:34 (UTC)[返信]
2009年3月に、検証した結果自分は見つけきらなかったので上記のように出典を求めました。ですが、付かないので、今から1週間ほど待って付かなければ、記事本文から該当部分の記述を削除します。ご参照:Wikipedia:出典を明記するWikipedia:検証可能性Uryah 2011年4月1日 (金) 12:28 (UTC)[返信]
実施しました12011年4月8日 (金) 21:00の版Uryah 2011年4月8日 (金) 21:04 (UTC)[返信]

参考情報(further reading(ご参考)になるかもしれない)[編集]

  • 太平洋戦争に突入した理由について
2009年8月9日放送のNHKスペシャル「海軍400時間の証言」で、なぜ太平洋戦争に突入したのか、戦前日本の元海軍将校たちが回想・話し合った録音の特集がありました。
番組は、将校たちが “各々自身の仕事に埋没” して、国民の命への想像力が失われていったその姿勢 “内向きの姿勢” が当時日本を戦争へ向かわせていった、戦争に入っていったプロセスは、セクショナリズム、問題が起こったときに隠蔽する体質、場の雰囲気に流されて意見を言えない空気、責任の所在の不明確さにあったとして、いま自分たち自身を省みて、それはいまの私たち自身の(社会の)姿である、これから私達(の社会)がどこへ向かって行くのかも含めて考えてみて、当時の将校たちを一方的に非難することは出来ない、と結んでいました。
これをこのまま この記事 の本文へは書けませんが、グレゴリー・クラークなどが述べるところの日本の集団主義に視点が似ている情報として、このノートに挙げておきます。
Uryah 2009年8月12日 (水) 10:06 (UTC) 修正Uryah 2009年8月12日 (水) 10:31 (UTC)[返信]
  • フリーライダーに関して
    • 1(フリーライダー 2009年11月22日 (日) 22:01 の版 実験経済学上での類例)
    • 2(「日本人はいじわるがお好き?!」)
山岸俊男が『心でっかちな日本人』で述べる「日本的集団主義」と認識が似ている情報として。
Uryah 2010年1月31日 (日) 07:52 (UTC)、2010年1月31日 (日) 08:00 (UTC)[返信]
  • 参考情報です。Uryah 2011年3月23日 (水) 12:36 (UTC)、2011年4月1日 (金) 12:22 (UTC)[返信]
    • 朝日新聞 2008年1月1日 文化欄 “RE”の時代 1 KYキャラで下手こいた 必死に守る「ガラスの関係」
    • 長山靖生『「人間嫌い」の言い分』ISBN 4-334-03273-7 光文社新書 2004年10月 pp.40 - 43 関係の固定と関係性の固定は別のもの
    • 朝日新聞 2011年1月29日 いま子どもたちは よそおう<9> No.29
    • 『知らずに他人を傷つける人たち』 香山リカ ISBN 978-4-584-12135-1 2007年 pp.124-131.
    • 『安心社会から信頼社会へ』 山岸俊男 ISBN 4-12-101479-0 pp.182-187.
    • 『サンデルの政治哲学』 小林正弥 ISBN 978-4-582-85553-1 pp.34-36 (pp.14-38).
    • 朝日新聞 2011年3月16日 声欄 今は政局より政策論争大事
    • 『週刊ポスト』 2011年4月1日号 p.99 POST Book Review 大塚英志 「長いものに巻かれる」思考を克服することが「近代」の条件 - 『柳田国男と学校教育』 著 杉本仁 2011年1月 ISBN 978-4-7877-6325-9
    • 『週刊ポスト』 2011年4月1日号 p.43 佐々木俊尚(一致団結のダークサイド), p.54 斉藤環(はみ出した人を非難する)

「1人はみんなのために、みんなは1人のために」について[編集]

下記の記述について典拠を探したいです。もしご存知の方がいらっしゃいましたら、お知らせください。

「One for All , All for One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)というスローガンは、個人主義的な成員に、心理的に集団と一体化しよう、と呼びかける理念・イデオロギーで、アレクサンドル・デュマ・ペール三銃士の言葉である。イギリスでは生活協同組合運動のスローガンであり、カベやマルクスといった社会主義者・共産主義者に援用されてきた。これを西欧的集団主義と把握する考え方がある。今日では北朝鮮がこのスローガンを愛用し、全体主義批判に対し、自国は集団主義であると反論している。(2009年8月26日 (水) 10:36の版
元の文はこれ 2005年8月17日 (水) 07:44です。

典拠を探したい点は次の3点です。

  • 「One for All , All for One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)は、集団主義の理念を端的に表したものである。
  • 「One for All , All for One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)は、カベやマルクスといった社会主義者・共産主義者に援用されてきた。
  • 「One for All , All for One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)を北朝鮮が愛用し、全体主義批判に対し、自国は集団主義であると反論している。

Uryah 2009年8月31日 (月) 10:05 (UTC)[返信]

2009年8月に、上記のように出典を求めましたが、付かないので、今から1週間ほど待って付かなければ、記事本文から該当部分の記述を削除します。ご参照:Wikipedia:出典を明記するWikipedia:検証可能性Uryah 2011年4月1日 (金) 12:28 (UTC)[返信]
実施しました12011年4月8日 (金) 21:00の版Uryah 2011年4月8日 (金) 21:04 (UTC)[返信]

中立的な観点のタグ付与について[編集]

この編集によって、この版に「中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。詳しくはノートページを参照してください」が付与されましたが、ここノートの方には何も言及されていないので、1つここに書きます。

ウィキペディアにおける「中立的な観点」とは、次のことです。:123

記事に書かれている何かの視点を消したり、何かの視点の要請から「書かれている記述を中和」したりするのがウィキペディアにおける「中立的な観点」ではありません。記事の主題についての異なる視点が世の中に在るのであれば、それらの異なる視点を異なる視点として記述するのが、ウィキペディアにおける「中立的な観点」です。

世の中に存在する説や視点や考え方を消し合うのではなく、世の中に異なる説や視点や考え方が複数在るのであれば、ウィキペディア上でその「論争を展開」するのではなく、信頼できる情報源を元に、共同作業で「こういう説がある、一方でこういう説がある」「誰々はこう言っている、一方で誰々はこう述べている」と加筆していき集合知として形づくるのが百科事典ウィキペディアです。

情報源をお持ちの方、出典とともに、加筆をお願いします。百科事典として、記事が充実します。Uryah 2011年3月23日 (水) 13:06 (UTC)[返信]

※児童生徒の方へ1
わかりやすく、たとえばの例を挙げて言いますと、いま世の中に「右翼と左翼の論争」があるとしたら、ウィキペディアの記事上で、右翼の立場から左翼の存在や言説を消したり、左翼の立場に立って右翼はまるで存在していないことにしたり言っていることを削除したり、右翼と左翼が仲良くできるようにと、右翼の言っていることと左翼の言っていることを足して2で割ったような記述に書き方を工夫したり、「世の中に右翼と左翼が居ること」「世の中に右翼と左翼の間の論争があること」自体が嫌だといって右翼も左翼も世の中に存在していないかのような記述にしたりすることが、ウィキペディアにおける「中立的な観点」ではないのです。
ウィキペディアにおける「中立的な観点」とは、世の中に「右翼と左翼の論争」があるとしたら、ウィキペディアの記事上に、世の中には右翼と左翼が居て、右翼にはAさんとBさんとCさんが居て、左翼にはDさんとEさんとFさんが居て、AさんBさんCさんDさんEさんFさんはそれぞれ何を言っているのか、彼らはどのような論争をしているのかを書くことが、ウィキペディアにおける「中立的な観点」なのです。
ウィキペディアはルールを守る人たちが共同作業で作っていくもの(注1)なので、AさんBさんを知っている人はAさんBさんについて、Cさんを知っている人はCさんを、DさんEさんFさんの本を知っている人はDさんEさんFさんの本を元にして、記述を加えていって作るものなのです。もしあなたが、Aさんが載っているのにDさんが載っていない、おかしい、というふうに思ったら、Aさんを消すのではなくて、Dさんを書き加えるのです。ああ、今までここに書いた人はAさんを知っていたのだな、では自分が知っているDさん(とDさんが言っていること)を加筆しよう、と考えるのです。そうやってみんなが知っている人を書き加えていったら、全体として記事が公平に中立になっていくのですよ、というのが百科事典ウィキペディアです。
もう1つ。これが1番大事なのですが、ウィキペディアの記事に、「右翼のAさんは○○は××であると言っている」と書いてあったとしても、それは「右翼のAさんは○○は××であると言っている」ということを百科事典として紹介しているだけであって、「○○は××であることが真実である」ということではありません。ウィキペディアの記事を読むときには、そのことを、つねに頭のどこかに置いておきましょう。ウィキペディアに「Aさんは○○を××と言っている」と書いてあったとしたら、本当にAさんは「○○を××である」と言っているのかどうかということは、ウィキペディアとしては大事になってきます。でも、読んだあなたが「○○は××である」と信じる必要はないのです。むしろ、ウィキペディアだけでなく、本をできるだけたくさん読んで、○○について、Aさんという人は××と考えたんだな、Bさんという人は△△と考えたんだな、ということをたくさん読んで、そのうえで、あなた自身はどう考えるのかを自分で考えていく、自分で決めていくことのほうが大切です。ウィキペディアは、そのための入り口に過ぎません。入り口だと考えてください。ウィキペディアは百科事典なのですから。
ウィキペディアの記事に書かれている、またはあなたが読んだ本で誰かが述べている「物の見方」が自分にとって不愉快なものだといってそれを消して回るのは、どこかの独裁国の悪いやつ(独裁者)にまかせておきましょう。大切なのは、自分の考えを深めるために、いろんな「物の見方」を知って、自分の成長のためにウィキペディアを利用する、利用してやることです。
注1:ウィキペディアにようこそ!Uryah 2011年3月23日 (水) 13:06 (UTC)[返信]
コメント上記のUryahさんの2011年3月23日 (水) 13:06 (UTC)のコメントですが、このノートは集団主義の執筆に関して議論する場所で、多少関連するからと議論相手もいないのに延々と個人的な意見を書き連ねたり、「児童生徒の方へ」などの一般的な呼びかけをする場では無いので、目的外使用であり削除すべきと考えます。少なくとも大多数のノートの使い方とは大幅に異なってしまっています。私が削除したのですが、私の会話ページに抗議[1]を書かれてノートも復活[2]されてしまったため、他の皆様のコメントもお願いいたします(いずれの立場であれ)。--Rabit gti 2011年3月24日 (木) 14:57 (UTC)[返信]
コメントまず、他者の発言を勝手に削除するのは、ウィキペディア上でどうこう以前の、人間としての信義違反です。どういう場合に問答無用の他者の発言の削除を許容出来るのかは、ここ1)に書いてあります。
自分の立場は、「中立的な観点に基づく疑問」の提示を受けたので、この記事の「加筆や修正についての提案」をしたものです。「主ページの記事がどうあるべきかという観点から」の発言です。
記事に「中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。詳しくはノートページを参照してください」としておきながらここノートにはなんの疑問の提出も議論も書いていない、そういうやり方は、善意に捉えて記事の充実に寄与しない行為、悪意を想像すれば何かの「レッテル貼り」だと自分は思っています。「中立的な観点に基づく疑問」を提出したのであれば、提出者はどう疑問なのかノートに記すべきだし、疑問を提出された記述を書いた者は、では「中立的な観点」とはどういうことなのか、「中立的な観点に基づいて」この記事をどう発展させていくかの提案や議論を記事のノートに書くことは、まさに「主ページの記事がどうあるべきかという観点から」の発言です。「中立的な観点に基づく疑問」の提示に応じたのであって、突然いきなり何かの話をし始めたのではありません。Uryah 2011年3月25日 (金) 11:24 (UTC)[返信]
コメント まず一般論ですが、ノートページの目的はHelp:ノートページ#ノートページの用途に記載されており、仮に目的外のコメントであれば、誰の書いたコメントであれ削除されるべきです。(他のノートやWikipedia:井戸端などでも、目的外のコメントは多数削除されていますが、削除が問題になってはいません。)つまり論点は「当ノートでのUryahさんのコメントが、ノートの目的範囲内かどうか」と思います。私は最初の削除[3]で「ノートは執筆上の議論の場。呼びかけや入門ガイドの記載場所ではありません。」とコメントしました。例えば「POVタグが貼られたがノートに理由が書かれていない、どなたも理由を書かなければ、しばらく待って削除します」と書くならば良いのですが、「ウィキペディアにおける「中立的な観点」とは、次のことです」と、POV自体の解説を延々と書く事は、集団主義のノートとしては目的外使用の(仮にそうでなくても不適切な)書き込みと思います。また、今回私が削除した節以外にも、#テッド・スタンガーによるフランス人についてでの公開質問、#参考情報#「1人はみんなのために、みんなは1人のために」についてでの一方的な資料掲示も、個人のブログ的になりすぎてノートページの目的から逸脱していると思います。ノートは個人用ではなく共通のページなので、目的に沿った内容に絞った書き込みをお願いします。--Rabit gti 2011年3月25日 (金) 12:07 (UTC)[返信]
まず、目的外使用といってノートの会話の話し合いのない編集削除が広く行われているのなら、私は、それがおかしいと思います。いま広く行われているからそれが正しい、とは自分は思いません。
さて、そのHelp:ノートページ#ノートページの用途に、「記事を改善・充実するために使用されます。具体的には、記事内容への質問や感想の投稿、加筆や修正についての提案・議論、記事文案の提示、編集意図についての補足説明(「編集内容の要約」の補足)、スタイルに関する記事固有のルールについての相談など」「主ページの記事がどうあるべきかという観点から」記事のノートを使用して下さいと書いてあります。自分の考えでは、まさに用途に適った使用です。私個人は、Rabit gtiさんの2011年3月25日 (金) 12:07 (UTC)に説得力を感じませんでした。記事本文に疑問や提案が付いているのに、ノートにその人が議論が付けなかったからといってその件についての議論を疑問や提案を付けた以外の人が始めるのは記事についての議論ではない、とか、「○○箇所の記述は現在○○ですが、○○の方が適切と思います。理由は○○だからで、出典は○○、なお他の記事でも○○です」とまで有体な話ではない記事の充実の方向性についての議論は記事についての議論ではないとかいう考え方は、自分は、信じられません。何か、要件定義も基本設計もそのシステムについての議論ではない、詳細設計とプログラミングだけがそのシステムについての議論だ、と言っているようです。
そして、現時点では、広く皆様のコメントを待ちませんか?コメントを追加するなら、広く読む人向けに書きませんか?それで意見を待ちましょう。Rabit gtiさんの考え方と私の「認識とは異なる」のはもう明らかになっているのですから。Uryah 2011年3月25日 (金) 21:38 (UTC)[返信]
コメント 争いではなく議論ですので、「認識相違」の箇所の明確化は必要と思います。まず、ガイドに目的が明示されている以上、仮に明確な目的外使用ならば該当のコメントの削除は適切ですし、その場合でも「いや、これは目的範囲内なので削除は不適当です」との反論があれば(今回のように)議論で合意形成に進む事自体は、「認識相違なし」と理解して頂かないと困ります。言い換えれば「コメント削除が妥当かどうかは場合による」ということです。例えば参加者の多い井戸端での最近の例[4][5][6]は、明確な目的外使用で、「目的外」とのコメント付で削除され、誰も削除批判をしていません。各ノートも同様です。そこで今回の論点は、やはり「Uryahさんの過去のコメントが目的範囲内かどうか」です。Uryahさん提示のガイドは「記事を改善・充実するために使用されます。具体的には、記事内容への質問や感想の投稿、加筆や修正についての提案・議論、記事文案の提示、編集意図についての補足説明(「編集内容の要約」の補足)、スタイルに関する記事固有のルールについての相談など」です。お手数ですが冷静に再読お願いします。少なくとも「今後の編集に役立つ可能性があるので、記事に関連した本を読んだ感想や意見交換、記事に関連する資料の置き場所などにも広く活用しましょう」とは書いてありません。従って、例えば「○○の本を参考に○○の箇所に○○の件を追記したいのですが、その中の○○が不明確なので、ご存知の方はいませんか?」のように要点を絞ったほうが良いと思います。なお私は「逸脱や雑談は1行でも全てダメ」とは言いませんが、程度問題です。Uryahさんの過去のコメントは「逸脱が9割以上」にしか読めません。最後に、過去コメントは削除が適切と現在も思っていますが、私による削除は今回は見送ります。今後はより適切なノートへのコメントをお願い致します。なお私もUryahさんと同様、広く皆様のコメントも期待しています。--Rabit gti 2011年3月26日 (土) 03:08 (UTC)[返信]
「認識相違」の箇所の明確化 --- なるほどです。
私が思うには、論点は2つあります。
1つは、<編集削除>ではなく一般の人からは見えなくなる<削除>でも、恣意的な削除を避けるために、即時削除の対象は限定されるように努力があるのであって、誰かが「自分はこれは削除相当だと思った」場合は、広く検討し合って削除に値するかどうか決めるのです。ちなみに上で挙げてある井戸端の例は、即時削除の方針と見比べてみると全般1、2、3にあたるでしょうか。今回の件は違います。
もう1つは、「目的外使用になります」と思っているのはRabit gtiさんで、「目的外使用ではない」「不適切ではない」と考えているのが私です。自分には、Rabit gtiさんがここで主張していることは、人間の思考の仕方や方向、やり方を、とても矮小化していこうとしていく考え方だ、と私は思っています。
さて、一方、上の2つの「認識相違」とは別に、「POVタグが貼られたがノートに理由が書かれていない、どなたも理由を書かなければ、しばらく待って削除します」というやり方は、物事を早く進めようとするならば合理的な方法を改めて教えてもらった気がします。自分はどちらかというと、1年でも2年でも{{要出典}}を付けとけばいいじゃないか、と思う口なので、今のようにノートに疑問を書き、なぜどのように疑問に思うのかを書き、出典が付いてくるのを待つのですが、確かにこのやり方だと、気の長い仕方になるかもしれません。この議論とは別に、ここノートに本文への出典を求めたのに出典が付かなかった部分について、後で、改めて教えてもらったやり方をしてみます。Uryah 2011年3月26日 (土) 20:13 (UTC)[返信]
コメント Uryahさん、コメントありがとうございます。(1)ご指摘のWikipedia:即時削除の方針は、基本はページの即時削除の話なので強い限定や配慮がされていますが、今回はページ中の1コメントの即時削除の話なので、例示した井戸端の3例と同一の形、との理解です。勿論、他の方のコメントは原則として削除してはいけません。ただし仮に明白な目的外使用ならば、気付いた人が削除すべきです。ただ今後は「ここにコメントがありましたが内容が目的外使用と考え削除しました」等のコメントを(コメント欄だけでなく、ノートページに後から見た人も読める形で)残そうと思います。(2)はい。「該当のコメントが目的外使用かどうかの認識に相違(論点)がある」という点で、認識は同じです。(3)理由が書かれていないPOVタグの扱いは、確かに議論が分かれる点と思います。しかし一見してPOVな内容でなければ、理由が不明ならば改善もできず、仮に誰かが改善してPOVタグを外しても、再掲示され続けてPOVタグ本来の意味を失っている(改善指摘ではなく、レッテル貼り的に使われている)例も多いと思います。(4)上記のように、私は今回の再削除は見送り、他の皆様のコメントを期待します。--Rabit gti 2011年3月27日 (日) 07:06 (UTC)[返信]

改めて提案[編集]

2011年3月21日にPOVタグが貼られましたが、ノートに理由が書かれていません。今から1週間ほど待ってどなたも理由を書かなければ、記事本文からタグを削除します。なお、ウィキペディアにおける「中立的な観点」とは、次のことです: 123

Uryah 2011年4月1日 (金) 12:28 (UTC)[返信]

実施しました12011年4月8日 (金) 21:00の版Uryah 2011年4月8日 (金) 21:04 (UTC)[返信]

211.126.30.98 さんへ[編集]

211.126.30.98さんは、「この記事の正確性に疑問が呈されています。問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年1月)」を添付しました()。

添付前の版は、「誰かの意見として提示することで事実の記述」1として、それらを「主張することなく、単に記述2しており、

異なる見解が世の中にあるのであれば、それらを知っている人が加筆していくことウィキペディアの記事の充実です。何かの見方や見解を無いことにしてしまったり、否定して記述していくことが百科事典としての記事の充実ではありません(慌てることなく焦ることなく)。

レッテル貼り(※)のような<やり方・仕方・作法>について、211.126.30.98さん、どう思われますか?

※たとえば戦前の一時期の日本やイラク戦争時のアメリカのように、「非国民」というレッテル貼りが世に幅を利かせ、何かの意見や見解を口に出来なかった時代・地域がありました。いっぽう、世の中には色んな意見や考えや解釈や理論があって、そのうえで、自分は何を選ぶのか、ということが出来るのが民主的で自由な精神状況・雰囲気だと、自分が若い頃の日本では考えられていました。

Uryah会話2013年1月7日 (月) 14:12 (UTC)[返信]

コメント横からすみません。211.126.30.98さんのタグ追加は、具体的な改善箇所と改善策が不明でです。ただ当記事は「集団主義」全般に関する記事というより、脚注に記載の3書籍の要約で、JPOVの懸念も強いので、各国語版(en:Collectivismなど)も参考に全面的に書き直した方が良いとも思えます。--Rabit gti会話2013年1月13日 (日) 09:26 (UTC)[返信]
うーん、Rabit gtiさんは「JPOV」をそう読むのか。「Wikipedia:日本中心にならないように」は、「日本語版が日本についての記事を充実させることを否定するものでは全くありません」「日本以外への記述が、表現や構成において不当な扱い(本来の対象と付随的な情報というような序列化)を受けたり、抑制されたり、なおざりにされたりしてはならない、ということです」(2012年11月24日 (土) 07:30の版)がその趣旨精神・言わんとするところだと自分は思っています。だから、知っている人が加筆していくのが記事の充実への道だ、と自分は思うのです。つまり、<何かが抑制されたり、なおざりにされたりしてはならない、何かを充実させることを否定するものでは全くない、加筆しよう>という趣旨だと自分は思っています。で、ウィキペディアの「編集方針(12)」はこれ。違うのかなあ。
では、自分が知っている他の情報も足してみますね。2013年1月14日 (月) 07:11の版
Uryah会話2013年1月14日 (月) 07:21 (UTC)、2013年1月14日 (月) 08:16 (UTC)[返信]
コメント JPOV冒頭で「日本への不適切な偏重」を挙げています。「集団主義」は分野や著者により、視点や範囲の大幅に異なる多義的な用語と思っています。過去、せっかく国際的観点で中立的に整理したのに、Uryahさん修正後では「日本人における集団主義」です。いっそ、記事独立させてはいかがでしょうか?なお節名に人名は非推奨です。--Rabit gti会話2013年1月14日 (月) 09:29 (UTC)[返信]
言い負かすための戦術としてあの手この手を繰り出してきたものの1つ としてなら、ああそういう風に使うのか、と思えるけれど、あの文章を素で読んでそのように理解するのか、と、自分には、ちょっと驚きでした。ただ、この議論において「なお節名に人名は非推奨です」などという事が出てきたということは、あの手この手の1つだったのだな、とほっと胸を撫で下ろしたところです。
「国際的観点で中立的」という点については、現時点でこれ以上のことを言う気力はありません(自分の理解するところによるウィキペディアにおける中立的な観点をひととおり書いてありますから)。
「日本人における集団主義」の説明ではなく、集団主義という文化のなかの1つとしての日本についての記述です。H.C.トリアンディス 『個人主義と集団主義 2つのレンズを通して読み解く文化』を情報源にして書いています。
※さらに加えました。2013年1月14日 (月) 14:09の版
※なお、自分が211.126.30.98 さんへ向けて最初に書いた文章はこれです。
Uryah会話2013年1月14日 (月) 14:23 (UTC)[返信]
コメント Uryahさんへ。(1)まずは「Wikipedia:善意にとる」、「Wikipedia:礼儀を忘れない」「見出しに決して他の利用者名を掲げない」などを冷静に再読ください。(2)私は記事の構成とバランスの話をしているだけです。現在、当「集団主義」では、「日本人の民族性として」との節に関連書籍のサマリーが大量に書かれています。(3) しかし個人主義権威主義自由主義などや、各主要各国語版は、「○○人の民族性」などの節は無く、多くの一般の百科事典でもありません。(4)私は「削除すべき」ではなく、「日本人の民族性」または各書籍の記事に独立・移動した方が良い、との意見です。--Rabit gti会話2013年1月20日 (日) 03:53 (UTC)[返信]

インデント戻します。

まあ、捨てアカウントというのは時代のものですけども(ご参照12)。

「日本人の民族性」「日本人における集団主義」といった記事にするのには私は反対します。「日本人における集団主義」の説明ではなく、集団主義という文化のなかの1つとしての日本についての記述です。

バランスという意味からも、減らすのではなく、増やすのが記事の充実への道です。

  1. 最近ときおり目にする、検索をかけたら上位でヒットするから、毒にも薬にもならない情報でなくてはいけない、という考えが自分はいまひとつわからなくて、強いて思い出せば、テレビのゴールデンタイムには「有害」なものは流してはいけない、深夜なら少し「過激」でもいい、本人の意思で観に出向く映画はもっと自由に表現していい、という言説です。インターネットや図書館で情報を検索することというのは、その言説になぞらえていえば、前の方ではなく、より後の方だというのが自分の考えです。ウィキペディアでは、紙の百科事典や医学書には当然に載っている陰部の図画をどうするかについて、同様の議論がときどき起こります。
  2. いまこの記事に載っている知見は新奇なものではなく、何十年も前から2009年出版の本に至るまで、本屋さんや神田の古書街や図書館で探せば、普通にアクセス出来る情報ばかりです。2010年に、<グーグルの書籍全文検索、国立国会図書館の蔵書のデジタル化、想-IMAGINE Book Search など、古代エジプトのアレクサンドリア図書館の試みに匹敵する知の集積がネット上に生まれようとしている。何かよいことが起こるかもしれないという予感と、目の前に現れた知の重さに個人は耐えられないかもしれない、文脈や体系を視野に入れない読み方によって知が断片化されて消費される傾向が生まれるかもしれない、人気投票的な情報の雪崩現象が起こるかもしれないという懸念がある(朝日新聞2010年1月9日 文化欄 新「大きな物語」4)>という考察がありましたが、いまこの記事に載っている程度の知見がより人の目につく状態になったからそれが許せない(「2010年前後POV」?)というのでもしあれば、情報リテラシーは20年前より落ちていると感じますし、この程度の知見をやっきになって消してまわるのでは、「質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」というウィキペディアの理念には到底至らないことが起こっていると、自分は考えます。なぜなら、本を探せば在る情報を除外していこうとするわけですから。
  3. あるいは、学生さんが<自分で考えることなしに検索して集めた情報をコピペする試験対策>において自分の意に沿わない情報・考察を書くことになるのは嫌だから、ということなのでもしあれば、まさに情報リテラシーの欠如そのものだと自分は感じます(その動機は前時代から見て、あるいは後世から見て「2010年前後POV」?(後世、情報リテラシーが発達するのでもしあれば))。
  4. 「国際的な観点から」という言葉を使って英語版を持ってくるのがただちに正しいと言う感覚・発想は、これだと、自分は思っています。
  5. 記事の充実を図ろうとするとき、他の記事や他の言語版や他の百科事典と横並びであろうとすることをまず指向するのは、意味のないことだと自分は思っています。

以下は、ウィキペディアの哲学の部分についての自分の考えです。

ウィキペディア日本語版は、理念としては日本語で提供される百科事典であって、「日本人だけに提供される百科事典」でも「日本の事物だけを本来の対象とする百科事典」でもないと言うことを認識することは重要です。
但し、「日本の事物だけを本来の対象とする百科事典というわけではない」ということは日本語版が日本についての記事を充実させることを否定するものでは全くありません。日本の事物を対象としたプロジェクトであるという誤解や思い込みから、日本以外への記述が、表現や構成において不当な扱い(本来の対象と付随的な情報というような序列化)を受けたり、抑制されたり、なおざりにされたりしてはならない、ということです。
中立的な観点は、論争となっている点をめぐる多くの立場の中の、比較的「中立的」な、あるいは「中間的」なひとつの観点ではない
ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」というもの
偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません。
p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というような記述をすることです。全ての観点を提示するにあたって、誰がどのような理由で p や q を信じており、どちらがより広く支持されているか、といった背景の説明を大量に供給できることが理想です。(広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。)詳細に書かれた記事であれば、p 主義者と q 主義者がお互いをどのように評価しているか、それぞれの立場が、相手に対して持っている強みなどを説明しつつ、どちらが優れた立場であるかについては確固として言及を避けることになるでしょう。
複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。しかし、これは少数派の観点が、それぞれの記事においても軽い扱いを受けるべきだ、ということではありません。ウィキペディアにはサイズの制限はありません。
事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな。何かが事実であるか意見であるかを判断するには、実際に物事がどうであるかは関係がありません。理論上は、誤った「事実」(全ての人が合意するが実際には誤っている観点)がありえますし、真実に照らして正しい「意見」は数多く存在します。ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。
※強調は引用者。
共同編集作業を通じて磨き抜かれた記事へと向上させる
同様の最終作品を生み出す他の方法に対して、我々の方法が勝っている点
ある人は、概要や幾つかの事実を並べた記事で始めることができます。別の人は、マイナーな意見を追加することができます。また別の人が、異なる観点を幾つか付け加えてまとめなおすこともできます。さらに別の人が、軽視されてきた見方を取り上げたり、初期の意見を繰り返すことで中立的な観点に近づけることができます。その後で編集しにきた人は、追加すべき事実や図・写真を持っているかもしれません。こうした過程を通じて、最初の不完全な記事は完成された記事へと近づいていくでしょう。
その可能性を楽しみにし、編集の過程を通じてそれが秀逸な記事に変わるということを信頼してください。

日本中心にならないように中立的な観点、ウィキペディアの精神の底流に流れているものとして、<何かを不当な扱い(本来の対象と付随的な情報というような序列化)をしたり、抑制したり、なおざりにしたりしてはならない、知っている人が知っていることを加筆していこう、そうしたら、きっと素晴らしいものが出来ます>というのが、ウィキペディアの理念・哲学だと、自分は理解しています。自分の理解では、何かの理由を付けて何かを抑制したり、なおざりにしたり、序列化を意図したりすることがその正反対、だと思っています。

また、少し加筆しました。2013年1月21日 (月) 14:36の版

Uryah会話2013年1月21日 (月) 14:48 (UTC)、2013年1月22日 (火) 12:17 (UTC)[返信]